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もくじ

ー ひとりで24台のラゴンダを所有
ー 衝撃的なデザイン
ー 出ては消えを繰り返したラゴンダ
ー ティックフォード・ラゴンダに乗り込む
ー 80年代らしからぬ操作系 V8アストン同様の走り
ー 今でも劇的で賛否あるクルマ

ひとりで24台のラゴンダを所有

ロジャー・ダディングは、1976年から1990年にかけてつくられたアストン マーティン・ラゴンダのうち3.7%を所有しているという。まあ、つくられたのがほんの一握りなら、それも別段たいしたことのない話だ。ところが、このやたらと長く低くエッジの立ったボディにおおきなタイヤをはいたセダン、累計生産は645台にのぼるのだ。

ということは、ダディングの所有は24台ということになる。V型にならんだシリンダーの数に直すと192、燃料タンクのキャップだと48個だ(ラゴンダには給油口がふたつある)。20世紀後半のデザイン様式のひとつ、速度やエンジン回転数その他の計器類をデジタル表示するダッシュボードも24個あるということだ。

ダディングひとりで24台も持っているとはたしかにおどろきだ。でもそれとて、技術への挑戦を鋭い形でつつんだこのクルマ自体が登場した1976年ほどではない。一見して異様なプロポーション、セルフパロディのような鋭い輪郭はもとより、こんな未来的なクルマがアストン マーティンから登場するというまったくの意外性に、開いた口がふさがらなかったものだ。

デザイナーのウィリアム・タウンズがもし生きていたら、1976年の自身の作品にこめられた大意が、ラゴンダ再生に向けたコンセプトカーの形にもなおいくつかあらわれていることに驚いたに違いない。それに、1975年にデザインしたオリジナルのラゴンダじたい、15年間も生き長らえて645台も造られるとも思っていなかったはずだ。

衝撃的なデザイン

それにしても、本格的にラゴンダのデザインにとりかかる前からタウンズにはもう腹案があったのではないか。というのも、デザイン開始から生産まではわずかに10カ月しかなかったし、その間も素晴らしいラインは1本たりとも修正されなかったというからだ。

このクルマそのものも確かに衝撃的だった。実際、1976年のアールズ・コート・モーターショーではもっとも来場者の目をくぎ付けにした。現在のアストン マーティン社デザインチーフ、マレク・ライヒマンも「はじめてウィリアム・タウンズのラゴンダを見たとき、異空間から来たかと思いましたよ」と回顧している。

なにも彼だけではない。針のようにとがったノーズ、するどく区切られた窓ガラス、テールと面一の長方形テールライト、これも長方形のテールパイプ、宇宙時代の象徴といってもよさそうな大きく傾斜した巨大な平面状のウインドスクリーンに加えて這いつくばるようなボディの長さが、単なる驚きの目だけでなくときには困惑や賞賛の目をも集めたのだ。ありていにいえば単なる3ボックスのセダンだが、そういってしまうとこのクルマの人目をくぎ付けにする力をあまりにも蔑ろにしてしまうことになる。

ラゴンダの新奇性の追求はインテリアにもおよぶ。メーターパネルにはブラウン管ディスプレイが並び、オートマティックのトランスミッションを含む多くの操作系の入力はタッチパッド式なのだ。ラゴンダをある程度乗ってきたダディングも「電気系のトラブルには悩まされました」という。

出ては消えを繰り返したラゴンダ

「キーを挿したままクルマを離れることもできません。ダッシュボードの裏側なんて、もう電線と基板の花畑ですよ」彼は技師にこの電気系トラブルの解決を頼んでいるともいう。また、これまで分解した4台のラゴンダには、ダッシュボードの両端に小粋にも「小さなロケット船のバッジ」がはんだ付けされていたとも語る」

クルマ自体もそうだったが、小粋ながら隠れた存在のラゴンダというブランドは、創立41年目となる1947年にアストン マーティンの傘下に入ると出ては消えを繰り返してきた。最近は2015-16年に限定生産されたセダンのタラフがふたたび脚光を浴びたが、これも200台の予定に対し生産は120台にとどまった。とはいえ当時セダンとして世界一だった1台69万6000ポンド(1億300万円)という価格にしては、悪くない売れゆきだったといえよう。そしてその価格こそがタラフ最大の特徴といえる。カーボンファイバー製のボディはそのつぎだ。

だがそのタラフといえども、今年のジュネーブショーでお披露目されたラゴンダ・コンセプトの大胆さの前では霞んでしまう。今度は動力系が電動となり、従来のエンジンとトランスミッションが2台の電動モーターとインバーターそして床下のバッテリーに置きかわったことで、ボディの基本形からして大きく変貌したのだ。

贅沢な室内空間も広さ重視となり、動力系も変わったにもかかわらず、リアピラーやとがったノーズそして長大なホイールベースなどには、タラフとおなじくウィリアム・タウンズの描いたラゴンダの面影をいまだに残している。

ティックフォード・ラゴンダに乗り込む

電気技術とひとくくりにするなら、1976年のラゴンダとこれから登場するセダンやSUVに関係はまるでない。だが、この偉大な祖先が先鞭をつけたデジタル表示の計器とタッチパッド式スイッチという電装系技術の恩恵は、いまやアストン マーティンだけでなく自動車界全体が受けているといえる。今ではどちらも当たり前だが、42年前には誰ひとり考えもしなかったものだ。

これから登場するタラフの後継車は、かぎられた市場向けとはいえアストン マーティン・ラゴンダの全電動化へむけての先駆車となるかもしれない。だが、1976年のラゴンダとこれからのモデルが、贅沢さと先端技術の調和を何よりの共通点とすることに変わりはないだろう。

さていよいよ、低俗とのそしりを免れないくらい長いホイールベースをもつ、ダディングの白いティックフォード・ラゴンダにお邪魔してみよう。これは中東向けに生産されたわずか4台のうちの1台だが、2台をつぎはぎして造ったことはすぐに見てとれる。

前後席のそれぞれにテレビ、リアシートの間にはウォールナットに革をあしらったカセットテープとビデオテープ(ちゃんと両方のプレーヤーが備わる)収納用の棚がおさまる。トランクリッドにはブーメラン型アンテナ、延長された後席ドアとリアウインドウにはカーテン。BBS製のアルミホイールも、クジラのように大きく白いボディにつくと未完成品に見えてしまう。これはたしかにドバイそのものだ。

80年代らしからぬ操作系 V8アストン同様の走り

1984年式のこのクルマにもブラウン管のデジタルメーターとタッチパッド式スイッチがついていて、どれもちゃんと動くように見えた。だが走りだしてみると、タコメーターは壊れているかのように数字がせわしなく上下する。まあ、クランクシャフトの速度を追ってできるだけ遅れなく正確な数字を出せるようにした結果なのだが。

それにくらべて単位の大きいスピードメーターのぶれはまだましだが、小さなステアリングホイールとそれをにぎる手で隠れにくいはずのメーターパネル右側のディスプレイも、まるで見えないのだ。

とはいえ気にすることはない。室内の眺めは魅力的だし、おなじく繊細なふくらみが魅力的なタッチパッドも、触ってみると思った以上に明確なクリック感がある。アストン マーティンという小さなメーカーがこれほどまでのものを造り上げたことに、驚嘆せざるをえなくなるだろう。

それに比べると機械的要素のほうは、ほかのV8搭載アストンと似かよったなじみ深いものだ。このリムジンに関しては、エンジンは324psではなくチューンの低い284ps版が積まれ、クライスラーの3段オートマティックが標準となる。だがそのシャシーは、長躯から想像する以上にスポーツ性もにすぐれている。はっきりとわかるのは、硬めながら落ちついた乗り心地、とんでもなくダイレクトな操舵感だ。おまけにロールも小さい。アクセルを思いきり踏みつければ、そうとう速く走り回れるクルマだ。

今でも劇的で賛否あるクルマ

もっとも、駐車については慎重にならざるをえない。小さい前輪切れ角、長大なホイールベース、見切りの悪さが手伝って、取り回しは悪い。ダディングはある立体駐車場で、入口のらせん状の坂を回りきれずに立ち往生したことがあるという。そして、やむなくバックで退散したそうだ…後ろにつまった10台も道連れに。

つぎに乗った緑色のシリーズ4も、せまい所で腹立たしいくらい持てあますのはロングホイールベース版のティックフォードに負けずおとらずだったし、低中速域ではより機敏なわけでもなかった。だが組み立て品質は高く(この個体は最後から数えて4台めの生産だ)、1980年代中盤のヴォグゾール車から拝借したメーターの表示も読みやすかった。スタイルも明快で実験的な印象も薄れたが、同時に興味を引く要素が失われた感もある。

両車とも、ゆっくり走っていてもエンジンはやたらと存在を主張する。バルブ駆動系からのノイズがすごいのだ。そこで鞭をくれてやるとV8の低いうなりが押しよせ、気づくとATはゴツンという変速ショックとともにトップの3速に入っている。ちょっと荒削りではあるが、おもしろい。

間違いなく、ラゴンダは触れてみる価値のあるクルマだ。それを実践しているダディングはこう語る。「ウィリアム・タウンズにも会いました。大胆に前へ進む、独創的な物事の考え方が好きでしたね」

ライヒマンもいう。「タウンズは常々常識を変えたいと考えていました。いまだ劇的で賛否あるクルマですが、ひとびとの記憶にはのこっています。賛否両論は必ずしも悪いことではありません。はじめは冒険といわれたものも、すばらしい新世界に導いてくれたと、後でわかるのです」