海上自衛隊の輸送艦だった初代「おおすみ」と「しれとこ」は、かつて542億円もの現金を海上輸送する任務にあたったことがありました。もちろん厳戒態勢下、届け先は日本復帰直前の沖縄、現在の価値でおよそ1540億円を輸送する一大作戦です。

お金を運ぶのは現金輸送車だけじゃない

 唐突ですが。皆さんお金は好きでしょうか。まぁ、嫌いな人はいないですよね。憎んでいる人や敬遠する人はいるかもしれませんが、圧倒的大多数の人は生活の糧に必要だと考えているはずですし、自給自足の場合でも必要性を感じていないだけでお金を拒否しているわけではないと思います。少なくとも筆者(柘植優介:月刊PANZER編集長)はダイスキです。


海上自衛隊の揚陸艦(のち輸送艦)「しれとこ」、米軍から供与され日本へ向かうところ。甲板の特殊潜航艇は真珠湾にて発見、引き上げられたもの(画像:海上自衛隊)。

 このお金、近年ではクレジットカード決済や電子マネー、仮想通貨などデジタルマネーも多用されつつありますが、まだまだ紙幣や硬貨を使う場面も多々あります。けれども、これら現金は実在するため運搬手段が絶対必要です。その時活躍するのが現金輸送車です。

 現金輸送車は時折、街中でも見られますが、自分たちが目にするのはそれほど多くない量の現金輸送を担う車両です。それでもたまに現金輸送車の襲撃事件が発生するほどですから、もしその現金輸送が何百億と莫大だったらどうなるでしょう。

 ですが、そんな莫大な金額の現金輸送が半世紀ほど前に本当に行われたのです。

国が違えば通貨も異なる

 いま(2018年)から50年前、沖縄はアメリカの施政権下にありました。そのため沖縄諸島(琉球諸島および大東諸島)では米ドルが基軸通貨として流通していたのです。


日本銀行那覇支店は沖縄の日本復帰と同時に開設され、2007年12月に現在の、写真の建物へと移転した。玄関両脇に控えるのはもちろんシーサー(柘植優介撮影)。

 ですが、1960年代後半から日米の返還交渉が本格化、1971(昭和46)年6月17日に返還協定が正式調印され、この時に翌年の1972(昭和47)年5月15日をもって沖縄が日本に復帰することになりました。

 さぁ、こうなると日本の一部となるために様々な準備が必要になってきます。沖縄の通貨を「ドル」から「円」に変えるのもそのひとつでした。とはいえ言うのは簡単ですが、いざ実行となるととてつもない労力が必要になります。

 まず、沖縄諸島内にどれほどの民間資産があるか算定する必要がありました。これに関しては関係者の尽力によって、沖縄の人々の手持ち財産は約6000万ドルと判明しました。それに法人資産や申告外の資産を加算すると、日銀は1億ドル程度ではないかと試算。当時のレートは1ドル=360円(当時ニクソンショックで306円だったが、沖縄は本土復帰にあたり特例で360円と計算された)だったので約360億円です。これに万一の際の予備ぶんを含めて必要金額は542億円(内訳は紙幣517億円ぶん:約22t、硬貨25億円ぶん:約293tで、計542億円ぶん:約315t)と算出されたのです。現在の価値でおよそ1540億円になります(総務省統計局「消費者物価指数」をもとに算出)。

初代「おおすみ」と「しれとこ」はアメリカ生まれ

 ただしこの運搬手段が問題でした。当初は飛行機で運ぼうとしたのですが、総重量315t、3tコンテナ161個は飛行機では無理です。その結果、海路での運搬となったのですが、民間の貨物船で運んだ場合、もし仮に強奪されれば大問題ですし、当時は米軍基地問題や安保闘争、沖縄返還の反対運動などが非常に活発なご時世だったので、いわゆる過激派の襲撃も想定する必要がありました。


那覇軍港の初代「おおすみ」(手前)と「しれとこ」。手前に見えるコンテナはこの時の現金輸送に使用されたものではない(画像:沖縄県公文書館)。

 そこで白羽の矢が立ったのが自衛隊でした。自衛隊の艦船であればそもそも武装していますし、乗員が小銃や機関銃を携行することも可能です。隊員の身分もしっかりしているので問題ありません。こうして海上自衛隊の輸送艦が用いられることになりました

 当時、海上自衛隊にはアメリカから供与された3隻が輸送艦として運用されており、それぞれLST4001「おおすみ」、同4002「しもきた」、同4003「しれとこ」と、艦番号と名称が付けられていました。

 これらは第二次世界大戦中に建造されたLST(Landing Ship Tank:戦車揚陸艦)で、基準排水量は1650t、満載排水量は4080t、最大速力11ノットという性能でした。また武装は、1番艦「おおすみ」が40ミリ単装機銃2基、「しもきた」と「しれとこ」が同連装機銃2基を装備していました。

 この3隻のうち「おおすみ」と「しれとこ」が輸送任務を担当することとなり、警察庁やアメリカ軍の協力の下、4月下旬に「現金輸送作戦」は実施されることになりました。

航行ルートは極秘、海自屈指の一大輸送作戦

 4月26日午前2時、約500人の警視庁警察官が警戒にあたるなか、東京都中央区日本橋の日銀本店を、警官と日銀職員を乗せたトラックが出発、約12km先の大井ふ頭で待つ2隻の輸送艦に現金の入ったコンテナを届けました。なお港の周囲は警視庁(陸側)と海上保安庁(海側)の厳戒態勢下に置かれ、艦の船底にも潜水員が潜って不審物や不審人物の有無が徹底的に探索されていました。


海上自衛隊のP2V対潜哨戒機(帆足孝治撮影)。

 そして翌27日、2隻の輸送艦は大井ふ頭を出港しましたが、沖合に出ても警戒は続きました。東京湾を出ると露払いとして横須賀から来た3隻の護衛艦が輸送艦の前方に傘型で護衛に着き、上空には千葉県下総基地から飛んできたP2V対潜哨戒機が昼と夜で交代しながら警戒に着きました。しかも九州の沖合いに来ると下総基地所属の機体と入れ替わる形で今度は鹿屋基地から同じくP2Vが飛来し、沖縄までやはり直衛に着いたのです。

 この時の航路は極秘とされ、未だに明らかにされていません。しかし、話によると民間船舶が近付かないよう一般の航路帯よりも南側をとったそうです。そして仮に民間船舶や航空機が近付いてきた場合は護衛艦のレーダーもしくは上空を飛ぶP2Vによっていち早く探知され、大事をとって早めに安全針路に変針するようにしていたそうです。しかし行き交う船はほとんど無く、大きな進路変更はないまま南下できたとのことでした。

 こうして6日後の5月2日に沖縄に着きましたが、大量の現金の荷降ろしのために入港は一般港ではなく米軍管理の那覇軍港とされ、埠頭はMP(憲兵)と琉球警察(当時)が合計400人態勢で警備に当たりました。ちなみに琉球警察全体では約700人態勢でした。

無事お届けもしばらく帰れなかったワケ

 このような厳戒態勢のなか、無事大量の現金は新設された日銀那覇支店の地下金庫に納められ、今度は離島を含む津々浦々の金融機関に向けて届けられたのですが、輸送艦2隻は本土に帰ることなく那覇軍港に留まりました。

 なぜなら現金輸送はこれで終わりではなく、今度は円と換金されて集められたドルを本土に持って帰る任務が待っていたからです。


2018年5月現在の那覇軍港の様子(柘植優介撮影)。

 5月15日の復帰の日以降、沖縄諸島の各地で換金が始まりましたが、数日後ドルが日銀那覇支店に集約されると、それらはまたコンテナに詰められて海自の輸送艦に積載され、ドルを持ち帰るためにまた護衛艦とP2Vの警戒の下、帰路に着いたのです。

 ちなみに現金輸送のために準備されたのは、海自の輸送艦2隻だけではありませんでした。実はこのほかに陸上自衛隊のヘリコプター3機と航空自衛隊の輸送機1機も待機しており、この現金輸送作戦は陸海空の三自衛隊をあげた防衛庁(当時)の一大作戦だったのです。

 それでは最後にひとつトリビアを。この一大輸送作戦、542億円を運ぶためにかかった輸送費は4億4千万円、そして万一のためにかけた保険金は掛け捨てで1億8千万円だったそうです。

【写真】荷揚げのちの、トラック連なる陸上輸送の様子


現金を詰め込んだコンテナは那覇軍港で荷揚げされ陸上輸送された。使用されたトラックはトヨタのDA 115C型トラックと見られる(画像:沖縄県公文書館)。