1984年9月、韓国の大統領として初めて来日し、中曽根康弘首相(当時)と日韓首脳会談に臨む全斗煥。(写真=Fujifotos/アフロ)

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韓国の大統領が交代するたび、日本では「新しい大統領は親日か反日か」といった議論が起きる。だが、著作家の宇山卓栄氏は「韓国の世論はつねに反日。このため歴代大統領で、実際に親日政策をとった者はいない」と断言する。日韓関係を不必要にこじらせてしまった歴代大統領の「用日戦略」とは――。

朴槿恵の父、朴正熙は「親日」だったのか?

「父親は親日だったのに、娘はどうして、ああなのか」。朴槿恵(パク・クネ)が韓国の大統領だったころによく、こんな声を聞きました。しかし、韓国の歴代大統領で、実際に親日政策をとった者はいないと言えます。

韓国に経済発展をもたらした朴正熙(パク・チョンヒ)大統領は、一般的に親日とされますが、その実態は「用日」です。「用日」というのは、日本から金銭や技術などの支援を引き出すために、親日のふりをし、日本を利用することを意味します。

朴正熙は1965年、日韓基本条約を締結します。これにより、韓国政府は日本から総額8億ドル(無償3億ドル、政府借款2億ドル、民間借款3億ドル)の支援を受けます。この額は、当時の韓国の国家予算の2倍以上の額でした。

一方、韓国国内では、日韓基本条約に反対する声が巻き起こり、連日、大規模なデモが発生しました。「日帝時代の屈辱を忘れ、わずかな支援金と引き換えに国を売るのか!」という罵声を、朴正熙政権は浴びせられたのです。

■反日教育を展開しつつ日韓基本条約を締結

朴は韓国国内で親日家と見られていました。日本の陸軍士官学校を卒業し、日本語も堪能で、高木正雄という日本名も持っていました。実際、朴自身、反日感情は持っていなかったと思います。

しかし、朴は国内の学校で反日教育を実施し、国内の反日主義者に迎合しました。また、テロを含む抗日活動を展開した金九などの独立運動家や、抗日のために組織された「光復軍」の関係者を表彰し、勲章を授与することもしています。

一方で、日韓基本条約への反対派は、国会議員も含めて厳しく取り締まり、弾圧しました。アメとムチを使い分けたのです。つまり、朴は親日でもなく、反日でもない、「用日」に徹したリアリストでした。

■無理筋の要求を受け入れ続けた日本

韓国の反日教育は、朴正熙の後継者の全斗煥(チョン・ドゥファン)大統領ら軍人政権時代も、一貫して続けられました。今日の韓国人の中年層の反日感情は、この全斗煥時代の反日教育で養われたものです。

全斗煥は国内の反日教育を徹底するのみならず、日本の歴史教科書にもクレームを付け、1982年、記述の修正を要求しました。そして、歴史認識問題を外交カードに使いながら、日本に資金援助を要求しました。全斗煥政権は「韓国は北朝鮮の脅威から日本を守る防波堤になっている」と主張し、「防波堤」があるからこそ、日本は安心していられるのだから、日本はその代価を韓国に支払うべきだと要求したのです。

こうした全斗煥の無理筋の要求に対し、日本は大人の対応をしました。1983年、中曽根康弘元総理の訪韓の際、7年間で40億ドルを目途とする円借款を供与することが決まりました。

当時の中曽根総理や安倍晋太郎外務大臣は「韓国は様々な試練・苦境を経て、今がある、少々のことならば寛大に」ということで、韓国の要求を受け入れたのです。翌1984年、全斗煥は韓国大統領として初訪日し、昭和天皇主催の宮中晩餐会にも招かれました。

全斗煥を親日とする見方もありますが、朴正熙と同様、その実態は「用日」というべきです。日本は、韓国の「用日」のスタンスを知りながら、要求を聞き入れました。しかし、韓国は自らの要求が通って姿勢を和らげるどころか、ますます「歴史認識問題」を対日交渉で優位に立つための恫喝(どうかつ)の材料として利用するようになります。不幸なことに、日本国内にも韓国側のこうした主張に同調し、政権批判を展開する向きが少なくありませんでした。

■「歴史認識問題」が外交カードに

1986年、第3次中曽根内閣で文部大臣に任命された藤尾正行は、歴史教科書問題に関連して「(1910年の)韓国併合は韓国との合意の上に形成された」と発言。これに対して韓国側が強く反発します。中曽根は藤尾に自発的な辞任を求めますが、藤尾は中曽根のやり方を「その場しのぎの外交」と批判し、辞任を拒否。そのため、中曽根は藤尾を罷免します。

こうした日本の姿勢に意を強くした韓国は、歴史認識問題や教科書記述問題を持ち出しては経済支援や技術支援を得る手法を確立させ、それが歴代の政権に引き継がれていきます。

1992年、宮沢喜一元総理は訪韓し、当時の盧泰愚(ノ・テウ)大統領に慰安婦問題について謝罪しました。「文民大統領」金泳三(キム・ヨンサム)が就任した翌93年には、河野洋平内閣官房長官が慰安所の設置や管理に、旧日本軍が直接・間接に関与していたことを認める河野談話を発表しました。歴史認識問題が慰安婦問題とも絡み、複雑化しはじめたのです。

さらに、翌94年には村山談話が発表され、「植民地支配と侵略」や慰安婦問題について謝罪。翌年には「アジア女性基金」が創設され、元慰安婦への「償い金」や医療・福祉支援を開始しました。

しかし、韓国の反日世論に火が付いたのは、むしろこの頃です。「少々のことならば寛大に」と、日本が一度聞き入れた韓国側の要求がどんどんエスカレートし、両国の関係が改善するどころか、ますます悪化していったというのが、歴史的な事実なのです。

■金泳三の「ポルジャンモリ」発言

金泳三政権のころには、経済発展を成し遂げた韓国に、もはや「用日」は必要なくなりました。それまでは「用日」戦略の一環として、日本に対し「作り笑い」を見せることもありましたが、もはやそれも消え失せ、威丈高に恫喝するようになります。

1995年11月、金泳三大統領は中国の江沢民国家主席との首脳会談後の共同記者会見で、「日本のポルジャンモリを必ず直すつもりだ」と発言しました。「ポルジャンモリ」とは韓国の年長者が年下の人間を叱りつけるときに使う俗語で、「行儀が悪い」「しつけがなってない」という意味です。これに対し当時の野坂浩賢官房長官は、「公式の場では使わない言葉だと聞いている。節度ある発言をしてほしい」とコメントしています(※1)。金泳三の発言は、日本の政治家による一連の「問題発言」を念頭に置いたものでしたが、さすがに日本側もムッとしたのでしょう。

韓国で、日本を叩く政治家は強い指導者とされ、国民の支持を集めます。このようなポピュリズム的政治手法が、今日に至るまで常態化しています。

直近では、2015年の日韓外相会談によって、日韓合意が結ばれました。これは慰安婦問題の「最終かつ不可逆的な解決」を示したものですが、文在寅(ムン・ジェイン)大統領は2017年の12月、「政府間の公の約束であっても、大統領として、この合意で慰安婦問題が解決できないことを改めて明確にする」と表明しました。

■「善意」の判断が招くリスク

政治の世界において、だます方が悪いのでしょうか、だまされる方が悪いのでしょうか。対話を繰り返して、相手が図に乗り、無理難題を吹っ掛けてきたとき、さらに感情悪化が募り、双方の溝が深まるリスクがあります。誰がそのリスクの責任を取るのでしょうか。

「恩を仇で返す」ことをされた時、人は最も怒りを感じます。「対話を重視する」という善意から先方の無理な要求を受け入れ続けた結果、むしろ事態が悪化するリスクについて、私たちは意識的でなければならないと思います。

16世紀、イタリア・ルネサンス時代の政治思想家マキャベリはこう言っています。「人を率いていくほどの者ならば、常に考慮しておくべきことの一つは、人の恨みは悪行からだけではなく善行からも生まれるということである。心からの善意で為されたことが、しばしば結果としては悪を生み、それによって人の恨みを買うことが少なくないからである」(『君主論』より(※2))

(※1)朝日新聞 1995年11月17日朝刊。
(※2)塩野七生著『マキアヴェッリ語録』(新潮文庫)

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宇山卓栄(うやま・たくえい)
著作家。1975年、大阪生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。おもな著書に、『世界一おもしろい世界史の授業』(KADOKAWA)、『経済を読み解くための宗教史』(KADOKAWA)、『世界史は99%、経済でつくられる』(育鵬社)、『「民族」で読み解く世界史』(日本実業出版社)などがある。

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(著作家 宇山 卓栄 写真=Fujifotos/アフロ)