中島氏のゼロをイチにする行動の源泉とは

「Windows95」をはじめ、あらゆるソフトウェア開発に携わっている世界的プログラマーの中島聡氏。学生時代に開発した世界初のCADソフトから、現在まで続くプログラマー人生。その類希なる業績をして“レジェンド”と評されるも、みずからの直感が生み出す新たな取り組みによって、今も最前線で挑戦を重ね続けています。
中島氏のゼロをイチにする行動の源泉とは……。世界で活躍するに至るまでの「自分の気持ちに誠実な生き方」をインタビュー。エンターテインメントコンテンツのポータルサイト「アルファポリス」とのコラボによりお届けします。

「三度の飯よりプログラム」な日々

――本日は早稲田の大隈講堂にお邪魔しています。


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中島聡氏(以下、中島氏):普段はアメリカのシアトルに住んでいますが、年に数回は日本に来ています。今回の日本出張の目的のひとつが、母校でもある早稲田大学でのシンポジウムへの出席、講演でした。ここで「エンジニアのための経営学」といった話をするために招かれたんです。

ぼくの仕事の主軸はソフトウェア開発です。米国Microsoft社でWindowsの開発に携わったあと、2000年にUIEvolutionというソフトウェアの開発会社を起業しました。今はその後継となるXevo.Incという会社で、チーフアーキテクト兼会長という職に就いています。職務上、この会社で現場業務に携わることは少なくなりましたが、まったく別のところで、今もプログラミング、ソフトウェア開発を行っています。「少しずつ前進する未来」をこの目で見たくて、イチプログラマーとしてあれこれやっているんです。

「三度の飯より……」という言葉がありますが、今でも、一日中PCにかじりついてプログラムを書くことが大好きです。もちろん、「苦」でもありません。開発過程で、プログラムのバグ(不具合)を見つけては直していくという作業は大変ですが、それでも「嫌々」ではありません。それよりも、「プログラミングによって便利になった、進んだ未来を見てみたい」と思う気持ちの方が、自分の中で勝っているんです。毎日楽しいですよ。

――未来への「ワクワク感」が中島さんを動かしている。

中島氏:昔から「直感」で動いているんですね。コンピュータ好きの少年がそのまま大人になったような感じで、今も根の部分はそこから何も変わっていないんじゃないでしょうか。自分で言うのも何ですが「永遠のパソコン少年」です(笑)。ずっとプログラムを組みながら、未来を想像することに、大きな幸せを感じています。こうした生き方を可能にする、コンピュータ、プログラミングに出会えたことは、とても幸運なことだと思っています。

幼いころに心奪われたものが、真の道となる


中島 聡(なかじま さとし)/プログラマー、Xevo株式会社チーフアーキテクト兼会長。1960年生まれ。早稲田大学大学院理工学研究科修了。NTT通信研究所に入社後、Microsoft日本法人、Microsoft本社を経て、ソフトウェアベンチャ―UIEvolution Inc(現Xevo株式会社)を、米国シアトルにて起業。直感に基づく行動、仕事観と時間術を記した『なぜあなたの仕事は終わらないのか』(文響社)は、10万部のヒットとなり、ブログ・メルマガ同様、多くの若者へこれからの働き方を提唱した。ブログ『Life is beautiful』

中島氏:よく言うと好き嫌いのハッキリした、要は「嫌なことは嫌」というワガママな子どもだったそうです。小学生の頃、漢字の書き取りが本当に嫌で、ある時、見本となる字の裏に光を当てれば、上からきれいな字を容易に「量産」できることを発見して、それで切り抜けるようとするなど「嫌なものへのムダな努力」を、なるべく避けようと工夫をしていました。

その代わり、好きなことは、周りから見て異常なくらい没頭していたようです。完全なる理系で、講談社のブルーバックスが愛読書だったのですが、数学の確率の話を読めば、本当にそうなのか実証したくなって、1000回くらい、部屋でひたすらサイコロを振っていたこともあります。また、「化学実験」にハマれば、小遣いをすべて秋葉原の電気街で、実験セットを買うのに費やしていました。アルコールランプからガスバーナーまで揃えて、四畳半の自分の部屋はさながら実験室と化していました。劇薬は小学生では買えないので、その元になる成分を調べて、手に入るもので自分で生成していました。とにかく興味があることには、際限なく行動していたようです。

――「没頭グセ」があった。

中島氏:その没頭グセにぴったりとハマったのが、17歳の時に出会ったプログラミングだったんです。母方の親戚に、古い自転車が2台あれば、それを合わせて1台新しく作っちゃうような「機械大好きおじさん」がいたんです。ぼくはそのおじさんのことが好きで普段から仲良くしていました。ある日、そのおじさんが「NECが、TK80というマイコンを発売したぞ!」と、興奮気味に、記事までスクラップして、ぼくに教えてくれたんです。

はじめてその記事を目にした時、理由はよくわかりませんが、「これは絶対欲しい、手に入れなければ!」と思ったんです。当時、8万円くらいして、お年玉をかき集めても買えないような高価な代物でした。それでも「かならずこれで稼いで元を取るから」と親を説得して、なんとか手に入れることができました。

――「必ず元を取る」と(笑)。

中島氏:なぜか直感で、「絶対にそうなるはず」という、根拠のない自信があったんですね(笑)。ところがプログラミングに触れた最初の1ヶ月間、これがさっぱりわからなくて。「どうして、そのようにプログラムを入力すれば、こう動くのか」。教科書もありませんでしたから、とにかく仕様書のサンプルコードや、雑誌に載ってあるプログラムコードと、にらめっこの日々が続きました。

来る日も来る日も仕組みがわからない。けれど不思議と諦めることはありませんでしたね。結局のところ、プログラミングは概念・思考プロセスの理解の問題なのですが、それがわかったのは本当に突然でした。壁を叩き続けていたら急に崩れたような感覚で「なんだ、そういうことか」と。それからですね、プログラミングが楽しくなったのは。その時の道がパッと拓けたような感覚は今でも鮮明に覚えています。

――「壁」を突破した先にあったものは。

中島氏:とことん没頭できる幸せな時間でした。もうそれからは寝ても覚めても、プログラミング一色ですよ(笑)。プログラムでできるものは何でもやっていましたね。当時、コンピュータ雑誌の『月刊アスキー(ASCII)』と『I/O(アイオー)』を愛読していましたが、自作のアセンブラやディスアセンブラ(いずれもプログラミングのためのツール)を、編集部の住所を調べて、アポなしで「できました!」って持ち込んだこともあります。別に頼まれた訳ではなかったのですが、それで雑誌に掲載されればいいなと。最初はそんなところからのプログラミング人生のスタートでした。

こうした自由な時間が確保できていたのも、受験のための勉強をしなくてよかったからだと思います。ぼくは決められた「勉強」をするのが苦手で、それよりも自分の好きなことに没頭したいと考え、高校は早稲田の高等学院に進んだんです。これで後々、大学受験のための勉強はしなくて済むと。東大志向だった親からしてみれば、「アレ?」と肩すかしを喰らったでしょうが、思えば、この時からすでに人の言うことを聞いていなかったのかもしれません。おかげで、そのまま大学、大学院と進みながら、自分の好きなプログラミングに没頭し続けることができました。

自分の感情に誠実であることの大切さ

中島氏:この頃には、科学者になりたいという夢も変わり、すっかりコンピュータに魅せられていました。当時、週刊アスキーの編集長だった吉崎さんもヘンテコな高校生プログラマーを可愛がってくれて、高校生ながらアルバイト記者として働いていました。

大学はそのまま早稲田の電子通信学科に進んだのですが、コンピュータのことはほとんどアスキーでの仕事で学んでいました。学部生の頃、「CANDY」という世界初のCADソフトを作ったのですが、これも直線を引くプログラミングで遊んでいたことと、アスキーの古川さんからのマウスをPCに繋げられるソフトウェアの依頼を受けていたこと、それに自分の卒論でのアイディアが融合してひらめいたものでした。

それまでもさまざまなソフトウェアを開発していたのですが、権利も曖昧で誰でも使用できるオープンソース的な使われ方だったんです。「CANDY」の時はさすがにロイヤリティ交渉をして、初年度で数千万円、翌年には1億円近いロイヤリティを得ることができました。

――それを仕事にしようとは。

中島氏:それが当時は、不思議とそういう考えに及ばなかったんですよね。大学院に進んでそのまま、研究室の教授に推薦文を書いてもらって、普通に企業に「就職」したんです。ところが、入ってすぐにここは「違うな」と感じてしまいました。

それまで、自分のしたいことに没頭できる環境を選んできましたが、就職したところは、研究所と名前はつくものの、あくまで「会社組織」。その論理や、不条理に従って生きることが、ぼくには苦痛で仕方がなかったんです。その将来も、大企業なので安定ではあるものの、自分の直感が活かされないのは明白でした。

そういうモヤモヤとした気持ちを抱えながら、就職してちょうど1年と1ヶ月。ある日、何気なく新聞に目を通していると、microsoftの日本法人が立ち上げられたという新聞記事を目にしました。立ち上げメンバーには、アスキーで一緒に働いていた成毛さんや、古川さんもいました。自分としては「なんで誘ってくれないの」という気持ちで、すぐに電話しましたよ。そうしたら「大企業に就職しているし、興味ないと思った」というようなことを言われました。

確かに、アスキーのアルバイト記者時代に、ビル・ゲイツから直々に「1年間アメリカに来ないか」とオファーを貰っていたのですが、妻(当時は彼女)と念願の1対1のデートが実現しそうなころで、そちらを優先してしまっていたことがあったんです(笑)。

もちろん、今度はすぐに働きたいと伝えましたよ。「手を挙げれば自分のやりたい仕事がすぐそこにある」。問題だったのは、大学院まで進んでいて、なおかつ研究室の推薦という形で決まっていた就職先をどう辞めるか(もしくは辞めないのか)でした。研究室枠で入った自分が「合わないのでやっぱり辞めます」というのは、大学や会社側からすると裏切り行為に等しい訳ですよ。それに、世間的には安定した大企業ということで、周りの反応も自分にとって決して追い風ではありませんでした。

――それでも、「やってしまった」。

中島氏:今思えば、教授に相談もせずいきなり上司に退職願を出してしまって、「流儀」を無視してしまったことに、いささか反省がない訳ではありません。けれど、もしこの時、誰かに相談して言うことを聞いて「安定」をとっていたら、自分の「やりたい」という気持ちに蓋をしてしまっていたら……。その後の米国Microsoft社でのWindowsの開発の仕事や、今に続く起業には決して繋がらなかっただろうと思います。

――「変化」を恐れてはいけない。

中島氏:自分が本当にどうしたいのかを考えると、変化も怖くはありません。Microsoft社の日本法人から、アメリカ本社で働くことになった時、ぼくは英語さえ話せませんでした。そして、アメリカに着いてみれば周りは自分よりも優秀なプログラマーだらけ。ひとりで立ち向かうには、Windowsという存在は圧倒的に大きくて……。逆に怖がっている暇はなかったんです。

そうした状況下で確実に成果を残していくのに必要だったのが、小さい頃からやっていたような「工夫」でした。常にどうしたいのかを考え、ベストになる形で仕事をしていく。今に繋がる仕事観もそうして養われていきました。さらに、そうした試行錯誤の繰り返しの中で、今度は自ら会社をやってみたくなり、Microsoftを退職して、UIEvolutionを起業するに至ったんです。2000年、ちょうど40歳の頃でした。

プログラマー中島聡が本を書く意味


「書くこと」は「伝えること」

――その頃に培った仕事観が『あなたの仕事はなぜ終わらないのか』に記されています。

中島氏:おかげさまで10万部を超えるヒット作となり、ブクログによる「第5回ブクログ大賞」では、ビジネス書部門大賞をいただきました。実はその本、もとはといえば、子どもの教育のこともあって日本に戻った家族との連絡手段、「生存確認」として、2004年に始めたブログ(Life is beautiful)がきっかけだったんです。最初は、一人アメリカに残された自分が「今日は何を食べた」とか、そんな他愛もない家族との会話を書いていました。

それが、「日本語とオブジェクト指向」というたまたま書いた記事で、身内だけでなく多くの人が読んでくれるようになったんです。読者もあっという間に1万人を超え、「アルファブロガー」と呼ばれるようになりました。

理数系で国語がてんでさっぱりだった自分が、文章を書くことが好きになったのは、学生時代、『理科系の作文技術』(中公新書)という本を、教授のすすめで手にとってからです。何をどう書けば、ちゃんと伝わるのか。そして、いかに分かりやすく書くか。ブログを書きながら学ぶこともありました。

――「何を、どう」伝えるのか、伝えたいのか。

中島氏:作り手も書き手もそこが曖昧だったりブレていたりしていると、よい本は生まれないですよね。おかげさまで、この本が売れたことで多くの出版社からオファーをいただくようになりましたが、中には「企画はお任せで」という編集者や出版社もいて、そうした自ら企画を考えることを放棄した依頼はすべてお断りしています。

中島氏:書籍の執筆というのは、特に自分のように執筆以外が本業の場合だと、ベストセラーとして広まらなければ、割に合わない仕事なんです。多くの人に伝わらなければ意味がない。執筆という時間へのそれなりの対価(お金という意味だけでなく意義のあること)は、当然欲しいわけです。今回はそれ以上の価値があったと思っています。新入社員時代、不義理を働いた自分が、こうして母校でお話しできるのも、この本のおかげかもしれませんし(笑)。

一度しかない人生を思いっきり楽しもう

――Windowsをはじめ、中島さんが開発に携わったソフトウェアによって、世の中は大きく変化してきました。

中島氏:ソフトウェア開発もそうですが、一つひとつの行動によって、身の回りの状況が変化し、たくさんの方々と知り合えることができたのは、とてもありがたいことだったと思います。ブログを通じてたくさんのエンジニアとも縁ができましたし、新たなビジネスチャンスにも繋がりました。

自分の直感に素直に生きることは、時に大変なこともありますが、嫌だと思う気持ちを抱きながら生きていくよりは全然いい。「やりたくもないことに時間を費やすなんてもったいない」。そうしたメッセージを伝えるのも、今の自分の役割なのかと思います。でもそうしたことは、あとづけ。まずはやってみること。動かなければ何も変わりません。

――動かなければ、ゼロのまま。

中島氏:「目標」なんていうのは、あとから追いついて来てもいいと思うんです。それよりもまずは自分の気持ちに誠実になること。ゼロをイチにしていくこと。そっちの方が、何社から内定をもらったなんていうことより、よっぽど大事なことなんじゃないかと、ぼくはそう思うんです。

正解のない人生ですから、ぼくのやり方だけが正しいわけではありません。でも「大企業に雇われる」だけが働き方・人生じゃないということを、特にこれから社会に羽ばたく学生には知って欲しいんです。自分はどう生きたいのか、そのためにはどう動けばいいのか。

ドイツの文豪ゲーテは、「知ることだけでは十分ではない、それを使わないといけない。やる気だけでは十分ではない。実行しないといけない」と言いました。ぼくの「一度しかない人生を思いっきり楽しもう」というメッセージとともに、今後もメルマガやSNSで発信を続けていきたいと思います。

もちろん、ぼくも皆さんと同じように、これからも正解のない道を歩み続けます。いまだに「成功法則」は知りません。今も昔も失敗を重ねています。けれど、やりたいことがなくなるまでは、今までのように「直感」に従って、人生を思いっきり楽しんでいきたいと思っています。

(インタビュー・文/沖中幸太郎)

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