【後編】とびきりの想像力が、女性初のフィールズ賞数学者を生んだ:マリアム・ミルザハニ

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数学界最高の栄誉を得た、マリアム・ミルザハニ。2014年フィールズ賞受賞に輝いた37歳のイラン人女性数学者はどのように研究に取り組んでいるのか。彼女の人物像にせまる長編記事を2回に分けて掲載。

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Quanta Magazine」に掲載された2014年フィールズ賞、ロルフ・ネヴァンリンナ賞についての記事を『WIRED』日本版が翻訳して転載。同誌はSimonFoundation.orgの編集部門によるもので、数学、物理学、生命科学の研究を通して科学への理解を促す目的で発行されている。

偉大な業績

ミルザハニは、自身のことをマイペースだと言う。ある問題に対してすぐに解をひらめく数学者とは違って、彼女は何年にもわたってじっくり取り組めるような深い問題に引き寄せられる。

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そうした問題について彼女は、「数カ月、数年後になってはじめて、まったく新しい側面が見えてきます」と言う。実際、10年以上も考えつづけている問題もある。「いまでも、そうした問題についてできることは、あまりありません」。

ミルザハニは、問題を次から次へと片付けていく数学者の存在を前に怖じ気づくことはない。「簡単には失望しないタイプなんです」彼女は言う。「ある意味、かなり自信があるのかもしれませんね」。

彼女のマイペースな姿勢は、生活のほかの場面においても見られるものだ。彼女がハーバードで大学院生だったころ、当時マサチューセッツ工科大学の大学院生でその後彼女の夫となる男性は、ミルザハニと2人でランニングに出かけたときに彼女のこうした性格を知ることになる。

「彼女はとても小柄で、一方でぼくは体をよく鍛えていたから、ぼくの方がいい走りができるだろうと思っていた。実際、最初はぼくが先を走っていたよ」。現在は、カリフォルニア州のサンノゼにあるIBMアルマデン研究所で理論コンピュータサイエンティストとして勤めるヤン・ヴォンドラークは、そう振り返る。

「でも、彼女は決してペースを落とさないんだ。30分後、ぼくはもうランニングを止めたけど、彼女は最初と同じペースで走り続けていた」

ミルザハニは数学について考えるとき、よく図を描いていく。面の図や、研究テーマに関するものの絵を描いていく。

「彼女は床にでっかい紙を広げて、何時間もひたすら、ぼくにとってはまったく同じものにしか見えない図を描き続けるんだ」。ヴォンドラークは言い、そうした紙や本が自宅のオフィスにばらばらに散らかっていることも付け加える。「どうやったらこんな風に研究ができるのかまったく分からないけど、最終的にはうまくいくみたいだ」。

彼女がこうした方法をとるのは「取り組んでいる問題があまりに抽象的で複雑なため、一つずつ論理的なステップを踏んでいくことができず、大きな思考の飛躍が必要になるからだろう」と彼は推測する。

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図を描くことで集中できると、ミルザハニは言う。難しい数学の問題を考えるときには「その詳細のすべてを書き留めたいとは思わないものです」と、彼女は言う。「ですが、図を描くことで、問題に対する意識を保つことができるようになるのです」。

3歳の娘 アナヒタはしょっちゅう「マミーがまたお絵かきしてる」と、彼女が数学の図を描いているときに叫ぶそうだ。「娘はわたしのことを絵描きだと思っているかもしれませんね」

ミルザハニの研究は、数学の多くの分野に関係する。その分野には微分幾何学、複素解析、力学系も含まれる。「わたしは、各分野の境界に人が引いた想像上の線を横断するのが好きなんです。それはとても爽快なことです」と彼女は言う。「多くの手法が存在しますし、どの手法を使えばうまくいくかも分かりません。楽観的であること、異なる物事を結びつけることが重要です」。

ときに、ミルザハニが物事を結びつける方法は衝撃的だとマクマレンは言う。例えば2006年、彼女は、ストライクスリップ型の地震に似た仕組みによって双曲線の面構造が歪むときに起こることを解明しようと取り組んだ。ミルザハニがこの研究に手をつける前は「誰も取り組むことのなかった問題だった」とマクマレンは言う。だが、彼によればたった1行の証明で「彼女は、この完全に謎に満ちた理論と非常に明瞭な別の理論の関連性を構築した」のだという。

2006年、ミルザハニはエスキンとの実り多い共同研究をスタートする。エスキンにとって、彼女はお気に入りの共同研究者の1人だ。「彼女はとても楽観的で、その姿勢は周囲に伝染するんだ」彼は言う。「彼女と一緒に仕事をすると、最初はまったく手がかりすら見えなかった問題でもきっと解決できるんじゃないかと思うようになるんだよ」。

数個のプロジェクトにともに取り組んだあと、ミルザハニとエスキンは、彼らの専門領域において最大の未解決問題のひとつに取り組むことを決意した。それは、多角形のような形をしたビリヤード台上で、合理的な範囲の角度で球を打つことを前提に、球の動きがつくる範囲に関する問題だ。

ビリヤードは、もっともシンプルな力学システムの例を提示する。ある決まったルールにおいて、時間を経るうちに進化するシステムだ。だが、球の動きはとてつもなく予測が難しいことが証明されていた。

「合理的ビリヤードというのは、1世紀前にスタートした」と説明するのは、スタンフォード大学で博士後研究員であるアレックス・ライトだ。「何人かの物理学者が集まって“三角形の中で転がる球の動きを理解しよう” と提案されたとき、おそらく彼らは、その問いは1週間で解決できると思ってただろう。でも100年経ったいまも、その問いに対する追究は続いている」。

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ビリヤード球の動きがつくる長い軌道の研究において、有用なアプローチというのは、球が進む方向に向かって押しつぶすように、徐々に変形していくビリヤード台を想像することだ。

一定の時間内における球の動きのほとんどが見えるように。すると、元々のビリヤード台から、新しいビリヤード台がつなげられていき、数学者が用いる「モジュライ」空間において台が動いていくことになる。一定数の側面をもつビリヤード台がつながった空間だ。

各ビリヤード台を「Translation surface」と呼ばれる抽象的な面に変形させることで、すべての「Translation surface」から構成されるより大きなモジュライ空間を理解でき、数学者はビリヤードの力学を分析することが可能になる。過去の研究によって、モジュライ空間上を押しつぶすようにしながら描かれる、特定の「Translation surface」の軌道について理解することで、元々のビリアード台に関する多くの問いの解が導けることが判明している。

ぱっと見ると、この軌道はとてつもなく複雑に見えるかもしれない。だが、2003年、マクマレンは「Translation surface」が2つの穴の空いたドーナツ型(通称「ジーニアス・トゥー」)である場合には、その軌道は複雑ではないということを証明した。各軌道は、空間全体かもしくは部分多様体と呼ばれる空間の部分集合を内を満たすのだ。

マクマレンの研究結果は、同研究において大きな進展であると認められた。だが、彼の論文が発表される前に、当時はまだ大学院生だったミルザハニが研究室を訪れ「なぜジーニアス・トゥーだけを対象にしたのですか?」と尋ねたという。

「まさに、彼女らしい指摘だったよ」彼は言う。「なにかさらに深いものが隠れていると感じるものを、彼女はより明確に理解したいと考えるんだ」。

数年の研究を経て、2012年と2013年に、ミルザハニとエスキン、そして部分的に研究に加わったテキサス州立大学オースティン校のアミル・モハンマディは、マクマレンの研究結果は、2つ以上の穴をもつドーナツ型表面のすべてに当てはまることを証明する。

彼らの分析は「偉大な業績」であり、その結果の示唆するものはビリヤード台の理論のはるか先まで及ぶものだと、ゾリチは言う。モジュライ空間は「過去30年間、熱心な研究が進められてきた」と彼は言う。「だが、その構造については、まだ分からないことばかりなんだ」。


ミルザハニとエスキンの研究成果は「新しい時代の幕開けだ」と、彼らの172ページに及ぶ論文を数カ月かけて読み込んだライトは言う。「まるで、これまでおのを片手に森に入って木を切っていたのが、今やチェーンソーが開発されたようなものだ」と彼は言う。その研究成果は、すでにいくつかの分野に応用されている。たとえば、複雑な鏡張りの部屋における警備員の視線を解明するといった問題において。

2人の書いた論文を読むとき「積み重なる難問の一つひとつをめくると、その下に隠れていたアイデアが見えてくる」と、ライトはメールで説明してくれた。「そして、その問いの中心に到達したとき、2人が築いた手法に感嘆したよ」

ミルザハニの楽観主義と粘り強さのおかげで前に進んでいくことができたとエスキンは言う。「行き詰まったことも何度かあったけど、彼女は決してうろたえなかった」。

ミルザハニでさえも、いま振り返ると、2人がその問題に頑に取り組みつづけたことに驚いている。「こんなにも問題が複雑であると事前に分かっていたら、あきらめていたことでしょう」彼女は言う。間を置いて、彼女は再び口を開く。「いえ、やっぱりそんなことはないかもしれません。わたしは簡単に諦めませんから」。

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ミルザハニはフィールズ賞を受賞した初めての女性だ。数学界におけるジェンダーの不均衡は、長年続いているものであり、同学会に深く浸透している。特にフィールズ賞は、多くの女性数学者のキャリアカーブに適していない。同賞が対象にするのは、40歳以下の数学者だ。多くの女性が子育てのためにキャリアを犠牲にしなければならない年齢と重なる。

だが、ミルザハニは、将来より多くの女性がフィールズ賞を受賞するようになるだろうと確信している。「すばらしい研究をしている女性数学者は本当にたくさんいます」と彼女は言う。

一方、彼女はフィールズ賞を受賞したことについて大きな名誉を感じているものの、女性数学者を代表する存在になりたい気持ちはないと言う。少女時代の彼女であれば、この受賞に大はしゃぎするだろうが、現在は研究に集中したいため、周りからの注目を避けたいと思っている。

彼女には、数学者としての人生における次章の大きな目標がある。既にライトと共に研究を開始しており、軌道が満たす「Translation surface」の種類の完全なリストをつくる試みに取り組んでいる。そうした分類は、ビリヤードや「Translation surface」について理解する上で「魔法の杖」になるだろう、とゾリチはコメントしている。

その問題は決して小さなものではない。だが、ミルザハニは何年もわたって、壮大な目標をもつことの意義を学んできた。「低い位置に実っている果実は、無視するべきです。それは少々大変なことですが」。彼女は続ける。「こうした姿勢がベストなのかは分かりません。その過程で、散々自分が苦しむことになりますから」。

それでも、彼女はその挑戦を楽しんでいると言う。「人生って、楽なものではないはずですからね」。

ミルザハニを育てた、恩師と友人とは。前編はこちら

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