鈴木博之『東京の地霊』(ちくま学芸文庫)
サントリー学芸賞も受賞した建築史家・鈴木博之の代表作のひとつ。1990年に単行本が出たのち、1998年に文春文庫から、2009年にはちくま学芸文庫からそれぞれ文庫化された。現在入手しやすい後者のカバーでは、東京大学本郷キャンパスの赤門の写真が使われている。赤門はもともと、江戸時代に彼の地にあった加賀藩・江戸上屋敷の御守殿門であり、藩邸地だった頃の記憶をいまにとどめる数少ない遺構だ。本書ではこのほか、やはり東大のシンボルである安田講堂が、なぜあのようなデザインになったのかについても言及されている。

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2月3日、建築史家の鈴木博之が68歳で亡くなった。一昨年に完成した東京駅丸の内駅舎の復原プロジェクトにも深くかかわるなど、約40年にわたり近代建築の保存に尽力してきた鈴木はまた、建築や都市に関する多くの著書を残している。そこでは、近代日本の社会や歴史の記憶を、建築だけでなく土地のなかに読み解くことも多かった。その際、彼が好んで用いたのが「地霊」という言葉だ。

「地霊」とはゲニウス・ロキというラテン語を訳した語で、《ある土地から引き出される霊感とか、土地に結びついた連想性、あるいは土地がもつ可能性といった概念》を意味し、そこには《単なる土地の物理的な形状に由来する可能性だけではなく、その土地のもつ文化的・歴史的・社会的な背景と性格を読み解く要素もまた含まれている》というふうに、鈴木はその著書『東京の[地霊(ゲニウス・ロキ)]』の冒頭で説明している。

1990年に刊行された『東京の[地霊]』は、東京の13カ所の土地について、そこで起こったできごと、所有者や使用状況の変遷などを叙述し、それぞれの土地の抱える歴史・記憶を浮かび上がらせたものだ。そこではたとえば、維新の元勲のひとり・大久保利通の暗殺現場である千代田区紀尾井町周辺の土地がたどった数奇な運命や、現在、聖心女子大学の所在する渋谷区広尾の土地が、戦前には旧皇族・久邇宮家の邸地であり、奇しくも昭和・平成二代の皇后ゆかりの地であること(香淳皇后は久邇宮家の出、現在の美智子皇后は聖心女子大卒なので)など、土地を介した意外なできごとや人物の結びつきが次々とあきらかにされる。

なかでも本書の第12章に登場する、庭師・小川治兵衛とそのパトロンの長尾欽弥は、後年、『庭師 小川治兵衛とその時代』(2013年)という一冊でさらにくわしくとりあげるなど、鈴木が近代日本の建築・文化全般を考えるうえでとくに関心を抱いていた人物だ。

『東京の[地霊]』では、小川が東京につくった大庭園の代表作である世田谷区桜新町の長尾邸の庭園を中心に、その町の歴史がつづられる。それによると、大正から昭和初期にかけて開発された郊外の新興住宅地であった桜新町に、和風の大庭園を構えた宏大な邸宅はいささか場違いなものであったらしい。長尾邸へは、近衛文麿や木戸幸一、永野修身など大物政治家・軍人もよく訪ねてきたという。このうち近衛は、終戦直後に戦犯として逮捕指令の出たのち、隠棲先の軽井沢から上京し帰宅する前にも長尾邸に立ち寄り、数日逗留している。彼が服毒自殺を遂げたのは、ここから自邸に戻った翌朝のことだった。

このように土地を通して近現代史の記憶をひもといた同書の本文は、次のように結ばれている。

《土地も建物も、都市のなかにじっと動かずに存在している。だが、その土地のうえを通りすぎる人々は多彩だ。思いがけぬ偶然がその土地のうえを交錯し、それでいながら人々はその偶然を特に気にとめることもなく過ぎてゆく。/土地の歴史としての都市の歴史は、土地のうえを流れる時間の古層のなかに、おもわぬ人々の姿をうかび上らせてくれるものなのだ》

■上野の杜に残った日本最古の音楽ホール
ところで、私の持っている『東京の[地霊]』の文春文庫版では、解説を鈴木と同じく建築史家で、東大大学院時代の後輩でもある藤森照信が書いている。そこで藤森は、鈴木が「一つの土地に刻まれたのっぴきならない個別の歴史を通して」東京を論じたことに、そのようなやり方があったのかと感心する一方で、「地霊」という言葉に違和感を表している。どうしてこんなおどろおどろしい言葉を使うのか、せめて“土地の記憶”くらいにしてほしいというのだ。

ただ、鈴木の初期のエッセイで明かした以下のようなエピソードを読むと、彼が「地霊」という言葉にこだわった理由が何となくわかるような気がする。

それは岐阜県神岡町(現在の飛騨市)を訪ねたときのこと(文中では「数年前」とあるが、発表年の1979年から逆算するに、鈴木が30歳前後の頃だろう)。小さな寺の境内に行ったところ、その一隅に異様な石碑というか墓石を見つけた。そしてその碑面を見て、ギョッとしたという。そこには太々しい字で「亡者の墓」と大書し、刻まれていたからだ。

神岡町にはかつて神岡鉱山が所在した。その墓は、鉱山の犠牲者たちの霊を祀った忠霊塔、あるいは合祀の墓標であったのだろう。が、それにしても「亡者の墓」という言葉に、鈴木はショックを受けたという。

《神岡鉱山の長い歴史の中に、この碑は厳然たる重みをもって建っているようであった。神岡の町の Genius loci こそ、この碑に宿っているように思われたのである。私はしばしば凝然と「亡者の墓」を見つめていた》(「土地神」、『建築は兵士ではない』、1980年所収)

近代建築の保存に際しても、地霊との関係は無視できないと、鈴木は繰り返し説いた。大学院を修了したのち母校の教員となった頃にかかわった、上野の東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)の音楽ホール「奏楽堂」(1890年竣工)の保存運動は彼の原点ともいえる。当初、博物館明治村(愛知県犬山市)や隣接する荒川区内に移築するという話も持ち上がったが、運動に参加した人のほとんどはあくまで現地保存を望んだ。それは、東京の芸術・文化の中心である上野の地にあって、奏楽堂は日本初の洋式音楽ホールとして、ベートーベンやチャイコフスキーの交響曲の日本初演が行なわれるなど、その心臓部というべき存在だったからだ。その後、地元の人々をも巻きこんで行政などに働きかけが行なわれた結果、奏楽堂はもともとあった藝大構内から離れたとはいえ、同じ上野の杜にある上野公園の一角に移築保存されることになる(移築工事は1987年に完成)。

《上野が東京における文化のセンターであるといっても、そうした歴史的性格形成にかかわってきた建物が他の土地に移っていってしまうなら、上野という土地の性格はそのぶんだけ弱くなります。無論土地の性格というのは建物ひとつが無くなったから消えてしまう程弱いものではありませんが、こうしたことの積み重なりが、いつしか上野の性格を変化させていくのです。/上野に奏楽堂を残しつづけることは、奏楽堂という文化史上の遺産にとって望ましいと同時に、上野にとっても望ましいことなのです》(『保存原論』、2013年)

明治以来、東京をはじめ日本の都市はずっと歴史的な顔を持てないまま来たとも、鈴木は再三にわたり指摘してきた。『東京の[地霊]』はバブルの真っ只中に書かれたものだが、その執筆の動機には、東京のあちこちで再開発が進められるなかで、歴史的に価値のある建物が次々と取り壊され、都市の記憶が失われることへの危機感があったといってよい。のちに彼は、近代日本の都市・建築の歴史をたどった著書『都市へ』(1999年)のなかで、バブル期の都市開発のあり方を次のように厳しく批判している。

《都市は決して投資効果によって判断されるべき経済空間なのではなく、個性とゲニウス・ロキに満ちた場所の連なりなのである。バブルという一時的景気に踊らされ、都市を荒廃させたことへの反省を忘れてはならない》

■建築の遺伝子を継承する
私は、鈴木の生前に2度ばかり、シンポジウムの一聴衆という立場ながら直に話を聴く機会があった。1度目は、建築学会の主催する「批評と理論」という連続シンポジウムのうち大阪万博をテーマにした第6回(2001年9月、建築会館ホール。この連続シンポジウムはのちに書籍化もされている)、2度目は、鈴木の博物館明治村の館長就任を記念して、明治村内の聖ザビエル天主堂で開催されたシンポジウム(2010年4月)だ。

このうち後者では、鈴木による基調講演のあと、ノンフィクション作家の森まゆみ、評論家の松山巖、美術史家の木下直之の3人を交えてパネルディスカッションが行なわれた。ちょうど明治村では開村45周年を記念して、その前年に明治建築では初めて国宝指定された迎賓館赤坂離宮(旧東宮御所)の家具類の展覧会が開催されており、シンポジウムでも赤坂離宮に関する話題が多く出た。

そこでとくに印象に残ったのは、「戦時中の空襲で焼失した皇居の明治宮殿のクオリティは、赤坂離宮や国会議事堂内の天皇御休所のインテリアにバトンタッチされているはずであり、とすれば、現存する建物から、なくなった建物についてもうかがい知ることができるかもしれない」という話だ。何だか、鳥の遺伝子から太古の恐竜の姿を見出すのと似たものを感じる。鈴木にはその名も『建築の遺伝子』(2007年)という著作があるが、その作中、明治宮殿をはじめ多くの皇室建築を手がけた宮内省内匠寮の仕事には、明治以降の新たな伝統の創出とともに、幕末以来の伝統の継承を見出すことができると書かれているのが目を惹く。

実際行動に加え、多くの著作を通じて、建築の保存や歴史の継承の重要さを訴えてきた鈴木だが、もちろん、彼が残すべきだと主張した建物のすべてを保存することができたわけではない。けれども、それまで保存されるべき建築といえば、圧倒的に江戸時代以前の建造物だったのを、近現代の建築に対しても人々の意識が向けられるために、鈴木の果たした役割はけっして小さくないはずだ。

復原工事の終わった東京駅は話題を呼び、駅舎の前で大勢の人々がカメラを向けるさまが見られた。鈴木の業績を振り返るうえでは、そうした成功したケースだけでなく、途中で断念せざるをえなかったケースも含め、彼が「残したもの」ばかりでなく「残そうとしたもの」全般をとらえたほうが、より多くの教訓が得られるように思う。

2020年には東京で2度目のオリンピックの開催が予定されている。ちょうどその頃が、前回、1964年の東京オリンピック開催前後に建てられた多くの建物や高速道路など建造物の耐用期限だともいわれる。否が応でも都市の更新を迫られるなかで、歴史的な建築や土地はいかに残されていくべきなのか。そのときこそ鈴木が「残そうとしたもの」に向けた経験が活かされるものと信じたい。
(近藤正高)