何故「自分撮り」が流行るのか
人が自画像を求めるのは原始的な欲求である。最近流行している「自分撮り」はこの欲求の新たな現出なのだ。
2013年は「自分撮り」が大流行した年だった。もはや文化として定着した感もある。今や自分撮りをテーマとした展覧会まで開かれるようになり、「selfie(自分撮り)」が正式な英単語としてOxford辞書にも追加された。このトレンドについて詳しく分析したいと思う。
自分撮りは決して目新しいものではない。スマートフォンの普及によっていつでも写真撮影ができるようになったおかげで、写真は非常に身近で一般的なものになった。そこで人々が手頃な被写体として好んだのが、彼ら自身だったというわけだ。
自分に酔いしれるという欲求
世界最初の自分撮りは、1839年にロバート•コーネリアスがフィラデルフィアの路上で撮影した銀盤写真だと言われている。それから150年以上先の未来に自分撮りが大ブームとなるとは、当時誰も想像しなかったかもしれない。
人類の歴史を振り返ると、自らの記録を残したいという欲求は古来より根強くあったようだ。古代の洞窟壁画やギリシャ彫刻、自画像の数々がそれを物語っている。ちなみに世界最初の自画像はオランダのヤン・ファン・エイクによって1433年に書かれたと言われる。レンブラントやゴッホも多くの自画像を描いた画家として知られており、30点以上の自画像を残した。
そもそも昔の自画像も、今の自分撮りのように新しい技術の誕生によって発達したものだった。精度の高い安価な鏡の普及が人々の好奇心をくすぐったのである。ただし当時は当然ながら、自身が画家でないと自画像を描くことはできない。その後写真技術の発達によって、人々は気軽に自分の肖像を残せるようになった。ついには子供でさえもポラロイド写真で自分を撮影できるようになり、高価なフィルムを一箱使い切って親を怒らせたりしたものである。
もしかしたら証明写真用のブースは、時代を先読みした「自分撮り」マシンだったのではないだろうか。
次第に人は自分の肖像を、人生の一瞬を記録するためだけではなく、善くも悪くも自らを見つめ直すために使うようになった。小説家のD.H. ローレンスは1924年にこう書き記している。
Kodak写真が鮮明になるにつれ、人は自我をスナップ写真のイメージに寄せて認識するようになっている。原始人は自分が何者であるかを知らなかった。彼らは半分闇の中で生きているようなものだったのだ。だが現代人は見るということを学んだ。今では誰もがKodak写真によって作り出された自己イメージを持っている…
自我と自分のビジュアルイメージを一緒くたに考えることは、もはや習慣を超えて本能となった。他人から見た自分、つまり写真の中の自分こそが本当の自分になってしまったのだ。
自分撮りが当たり前の世代
今や「写真の中の自分」を記録し共有することは簡単だ。面倒な鏡の調整を行ったり、危険な薬品を使ったり、まっすぐにならない三脚やタイミングがずれてしまうカメラを扱ったりしなくても、半永久的に自分の顔を残すことができるようになった。
現在の自分撮りブームは、2010年のiPhone4とインスタグラムの登場を契機に始まったと言っていいだろう。それまでにもFlickrやMySpaceで自分撮りを見かけることはあったが、一般に普及したのはiPhone4のFaceTimeカメラとインスタグラムのモバイルアプリのおかげである。正面向きのFaceTimeカメラとインスタグラムのフィルタ加工によって誰もが簡単に自分のベストな顏を撮れるようになり、一気に広まったのだ。
昨年にはグーグルにおける「selfie(自分撮り)」のキーワード検索件数が大幅に伸びた。もちろんこれは米国だけの現象ではない。むしろフィリピンやオーストラリアに比べると米国はまだ少ないぐらいである。
特にオーストラリアでは自分撮りは爆発的な人気を誇っている。総選挙の際にもケビン・ラッド首相が若者を取り込むための政策として自分撮りを全面に押し出したほどだ。韓国ではYouTubeできれいに自分撮りをする方法を紹介した動画が人気を集めている他、中国では大手メーカーのHuaweiが自分撮りを強化したスマートフォン、Ascend P6を発売した。同携帯には5メガピクセルの正面カメラが搭載され、瞬時に顔認識をした上で肌のスムージングや小じわをごまかしてくれる機能を備えているという。
ちなみに去年の8月にはローマ法王フランシスコがローマ法王としては初となる自分撮りを行った。また、同年11月にはNASAの火星探査機キュリオシティまでもが自分撮りに挑戦している。
我を撮る、ゆえに我あり
これだけ自分撮りが普及すると、当然それに対する批判も行われるようになる。数々の批判記事が相次ぐなか(たまに弁護するものもあるが)、反自分撮りムーブメントというものがツイッター(#uglyselfie)やインスタグラム(#antiselfie)で勢いを増している。
確かに肌を見せたり性的な魅力を強調したようなひどい写真が大量に出回っており、批評家たちが「自己中心的で自己愛に満ちたデジタル世代によるナルシスティックな行動」だと叩くのにはうってつけの題材である。例えばキム•カーダシアンの悪名高い「おしり撮り」や、非難の的となった「お葬式撮り」等が有名だ。ちなみにお葬式撮りとは葬儀の場で自分撮りをすることであり、ごく一部の若者の間で流行っているようだ。確かにこれだけを見ると、自分撮りは自己中心的なナルシスト達の悪ふざけだと思えてしまう。
しかし自分撮りをただのナルシシズムとして片付けてしまうのは少々簡単すぎる。
自分撮りを行うのは主に若者である。Pew Internet & American Life Projectの調査によれば、実に91%のティーンエイジャーがソーシャルメディアに自分の写真を投稿しているという。ちなみに2006年から比べると79%も増加したことになる。「お葬式撮り」を専門としたこのタンブラーのブログから判断する限り、これらはティーンエイジャー達の不安を発散する手段のようにも思える。
これは正常な反応かもしれないと、臨床心理学者のアンドレア・ レタメンディは言っている。UCLA大学の主任研究員でもある彼女は、以前行われたTime誌のインタビューで次のように語った。「自分撮りは若者やティーンエイジャー達が自分の気分や抱えている感情を表現し、自らにとっての重要な出来事を表現する手段となっています。」自分のアイデンティティを探し求める若者たちにとって、自分撮りは彼らの成長を助けるツールになっているのかもしれない。
それでは大人はどうだろうか?グーグルやインスタグラム、Flickrを検索してみると、大人の自分撮りがティーンエイジャーに負けず劣らず広まっていることが分かる。
その理由は複数の要因によって構成されているように思う。我々大人の中に潜んでいる子供の部分がやはり自分の気持ちを表に出したいのかもしれないし、あるいは自分の印象をなんとかコントロールしたいのかもしれない。
現時点で既に、自分撮りの成熟に必要なハード、ソフト、ソーシャルネットワーク等のインフラは出揃っている。このまま行けば自分撮りはさらに進化し、世界中の人々が国境を越えてありのままの自分あるいは理想の自分を表現できる、一種のアートになることもあり得るのだ。
画像提供:
ロバート•コーネリアス氏の写真:米国議会図書館
キュリオシティ火星探査機:NASA
Adriana Lee
[原文]