「非ソーシャル化」するソーシャルネットワーク

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大手ソーシャル・メディアが自社の利益を追求するなか、ユーザーは自分に関するソーシャルなコントロールを失いつつある。

あなたはソーシャル・メディアにおける自身の存在を「自分のもの」だと思っているだろうか?あなたが目にする他のユーザーの更新や、他のユーザーが目にするあなたの更新を自分でコントロールできていると思っているだろうか?ちょっと考え直してみてほしい。最近のツイッターのビジュアル化や、フェイスブックのフィード更新の不可解な選別を鑑みるに、オンラインにおける我々のアイデンティティーは顧客ではなく、商品の一部なのだ。残念ながら、広告収入を最大化するというニーズやいわゆる「ビッグデータ」のせいで、オンラインで我々に許されたわずかなコントロールは今後さらに減少することになるだろう。

「私が若かったころは、ツイッターのタイムラインを自分でコントロールできたものだ」

先週行われたツイッターの「アップグレード」は、ユーザーにとってあまり歓迎できない余計なものだった。しかし考えてみれば、ツイッターやフェイスブックその他のソーシャル・メディアに加えられたすべての変更は、ことごとくユーザーの不信感を招いている。「使用料を払っていたわけではないが、使う権利があると信じていた機能をどうして勝手に変更してしまったんだ?」

ソーシャル・メディアはなぜ変更してしまったのか。それは、彼らがお金を稼ぐ必要があるからである。データセンターという金食い虫を世の中に提供している以上、そのコストを取り戻すためにはベンチャー投資家により良いビジネスモデルだと思わせる必要があるのだ。フェイスブックが株式公開した際には、フィード更新を広告機会に変貌させる方法が模索された。IPOに向けて準備中であるツイッターにも、これと同じことが起きているのだ。

しかし我々は、こういった仕様変更に対するユーザーの抗議がソーシャル・メディアからの離脱に繋がるとは考えていない。ワシントン・ポストでデジタル・プロダクトとデザインのディレクターを務めるジョーイ・マーバーガーは、次のようなユーモア溢れる指摘をしている。


「Twitterについて文句を言いつつも決して使うのを止めない時代へようこそ」

我々は「見たい・見られたい」という欲望から逃れることはできない。そして、我々がソーシャル・メディアへの参加をもってその使用料に代えている限り、エクスペリエンスはユーザーのソーシャル体験を良くするためにではなく、プラットフォームの収益化方針に従う方法でコントロールされるということを想定すべきである。運がよければ、この2つが一致することもある。

ビッグデータは役に立っているのか?

ツイッターのビジュアル化も気に入らないが、私はフェイスブックの「最適化」アルゴリズムの方がはるかに我慢ならない。私がフェイスブックで友達のフィード更新を見始めてからもう何年も経つ。フェイスブックでは特定の「友達」をミュートしたり、特定の投稿を非表示にしたりすることができる。しかし私の経験では(恐らく他の無数のユーザーも)、フェイスブックが提供するフィード更新はなにやら独特のアルゴリズムに従った、制限的な表示になっているように思う。

フェイスブックほどのビッグデータのリソース量があれば、こんなことは起こるはずがない。十分なデータ量があるにも関わらず、フェイスブックのビッグデータ”ドリブン”なフィードはなぜこんなにもお粗末なのだろうか?フェイスブックはクリックや更新といった大量の非体系的なデータを処理することで広告を最適化し、同時にユーザー・エクスペリエンスの向上を図っている。ユーザーがフェイスブックとより深く関わることを促すようなコンテンツを提供するためだ。しかしその結果ほとんどの場合において、ユーザーが気にかけている友達の投稿が隠され、どうでもいい人の更新がハイライトされてしまっている。

ビッグデータの限界

恐らくこれでもビッグデータはベストを尽くしているのだろう。というのも、フェイスブックのデータ処理能力に太刀打ちできる会社は他にほとんどいないからである。しかし結果は我々の期待から大きく外れたものであり、皆がビッグデータに抱いていた夢の実現にはほど遠いことを示唆している。フェイスブック上で奴隷のようなソーシャル生活に甘んじているのに、友達に「私の投稿見た?」と聞かれるときは大抵それを見逃してしまっているのだから。これは皆、自社の利益のためにユーザー・エクスペリエンスをデータ”ドリブン”にコントロールしようと試みるフェイスブックと、ビッグデータの失敗によって引き起こされたものである。

「非ソーシャル」なコントロール

結局のところ、フェイスブックはユーザーが読んでくれてさらにクリックしてくれるもの、つまり広告収入に結びつくものだけを表示させたいと望んでいるのだ。ツイッターもほぼ確実にこれに倣うだろう。だが、自分の母親の投稿を見逃すことに比べれば他人の投稿を見逃してもそれほど痛手にはならないので、まだ我慢ができる。

私が本当に懸念しているのはコントロールに関する件だ。人々がソーシャルネットワークに費やす時間を考えれば、コントロールはもっとソーシャルなものであってほしい。自分が見たいと思う人達の投稿を、自分が見たいと思う方法で見ることを可能にしてもらいたいのだ。しかしこれはソーシャルネットワークの売上目標とは必ずしも合致しないのだろう。

最近、フェイスブックは私に友達ではない人からのコメントをメールで送ってきた。私が以前、ある投稿に対してコメントしたので、フェイスブックは私にそれに続くコメントもすべて読んでもらいたいと思ったのだろう。私は当然この「通知サービス」を無視した。これがWeb3.0なのだ。ティム・オライリーの参加型アーキテクチャーが改悪化された、強制参加のアーキテクチャである。

我々はそれに慣れなければならない。あなたがソーシャル・メディアをコントロールしているのではなく、ソーシャル・メディアがあなたをコントロールしているのだから。

Matt Asay
[原文]