<森ビル>六本木から虎ノ門へ「ヒルズ」の次なる狙い【1】
国内最大級の巨大再開発「六本木ヒルズ」の完成から10年。森ビルは「不可能」といわれた再開発を次々と実現してきた。その道筋は1人のカリスマから組織に受け継がれつつある――。
■成長の原動力は地権者との共同建築
<街は生きている>
昨年3月に亡くなった森ビル前社長の森稔は、自著『ヒルズ 挑戦する都市』(朝日新書)でそう書いている。<その呼吸を止めるほうが不自然だ。都市は、いまこの瞬間を生きる人の営みを受け止め、これからのライフスタイルや価値観を実現するものでなければならない>。
あるいは、彼は<都市は生きている>とも書いている。
都市とは時代そのものを空気のように吸い込み、人がそうであるように長い年月をかけて成長していく。だから<本当の評価は誕生した時点ではわからない。時代の波を受け止めながらどう成熟していくのか、社会経済にどんな効果をもたらしたのか、それによって何を実現したのか、長い歳月をかけてわかってくる>ものだ、と。
いま、東京・六本木駅の地下通路を歩くと、今年10周年を迎えたことを知らせる六本木ヒルズの記念ポスターに、「都市に、磁力を」というメッセージを見つけることができる。このポスターを見る度に想起させられたのが、前述の森稔の言葉だった。
それは六本木ヒルズの開発において、同社が第1条として掲げてきた基本的な思想だ。
2003年の開業以来、六本木ヒルズには累計4億人、年間4000万人が安定的に訪れてきた。オフィスにはゴールドマン・サックスを始めとする外資系金融機関、IT企業ではグーグル、アップルなど名だたる企業が入居し、ライブドア事件や村上ファンド事件、日本におけるリーマンショックの現場になるなど、社会に強い影響を及ぼした出来事にも事欠かない。それはこの場所が良くも悪くも時代の最先端を映し出す鏡となり、多くの「ひと」と「こと」を引きつけてきたことを表している。
では、六本木ヒルズが10年間で体現した「都市の磁力」とは、どのように形作られたものなのだろうか。稀代のリーダーとして森ビルの「いま」を作り上げた森稔の言葉を踏まえながら、まずは同社の歴史を振り返ってみたい。
森稔の父親である森泰吉郎が、港区虎ノ門に森ビルの前身・森不動産を設立したのは、終戦から10年後の1955年のことだ。
港区で米屋を経営していた森家は、近隣の地主から賃貸家屋の大家業を任されていたという。そのなかで、横浜市立大学の教授だった泰吉郎が退官後、関東大震災や東京大空襲の体験を背景に鉄筋コンクリート製の賃貸ビルを建設。戦災からの復興期にあったその頃、木造家屋の立ち並ぶ新橋に建てた「西新橋2森ビル」が同社の最初の一歩となった。
森ビルの歴史をひも解くとき、赤坂のアークヒルズや六本木ヒルズ、来年開業予定の虎ノ門ヒルズに連なる原点として浮かび上がるのは、設立の4年後に東大を卒業したばかりの森稔が取締役に就任した後、「共同建築」という貸しビル建築のパターンを作り上げたことだ。
森ビルそのものは土地の全てを持たず、複数の土地の所有者に声をかけて表通りと裏通りの地権者と共同でビルを建てる――そのように街の区画をオフィスビルに作り替える手法で、同社は港区に45棟の通称「ナンバービル」を建設・運営する企業へと成長していった。
現在、虎ノ門ヒルズの開発を担当する執行役員の御厨宏靖・企画開発2部部長は、就職先に同社を選んだ20代の頃のことをこう振り返る。
「私たちから見れば、当時の森ビルはまだ『新橋の不動産屋さん』の1つに過ぎませんでした。しかし、虎ノ門や霞が関のオフィス需要が高まるなか、『共同ビル』という発想でいち早くそれに対応していたことは特徴的でした。あの頃はまだきちんとした冷暖房設備のあるオフィスビルも少なく、『ナンバービル』は、他と比べて非常に効率的なものでした」
そんななか同社のイメージを一気に変えたのが、アークヒルズなどの「ヒルズシリーズ」だった。森ビルはこれらを「ヴァーティカル・ガーデンシティ」(立体緑園都市)として開発。森稔は自著『ヒルズ 挑戦する都市』(朝日新書)でこの概念を、<複合用途に適したエリアや都心部の再生を想定した都市モデルで、職、住、遊、商、学、憩、文化、交流などの都市機能を縦に重ね合わせた、徒歩で暮らせる超高層コンパクトシティ>と定義している。
例えば低層の住宅やビルが密集した地域を超高層建築にまとめ、それによって生まれたスペースを人々の交流の場や緑地に活用すること――。
そもそも「共同建築」という同社の手法は、地権者に貸しビル建築後の利点を常に語りかけ、粘り強い交渉によって理解を得なければならない。そのなかで、どのようなオフィスが必要とされるかを考え、入居企業に建物の魅力を訴えかけることを繰り返してきた森稔が、「貸しビルづくりから街づくりへ」と興味の対象を広げていったのは自然なことだった。
そして、森ビルにとってその集大成と言える事業となったのが、テレビ朝日の社屋建て替えにともなう「六本木六丁目」の再開発事業=六本木ヒルズの開発だった。
■流行語は「地上げ」難航した説得交渉
「何しろ坂の多い街でしょう。窪地には崖から豊富に湧水が流れ落ちてくる場所でね。1度は東京大空襲で焼けたけれど、その水を求めて終戦直後から人が集まってきた。煙突掃除屋さんの長屋があって、顔を真っ黒にした彼らがその水で夕方になると体を洗っていたものです」
六本木ヒルズの地権者で作る「六本木ヒルズ自治会」の原保会長は言う。
現在83歳である彼は再開発前、「原安太郎商店」という名の金魚店を営んでいた。まだ自宅の周囲に木が鬱蒼と茂り、フクロウの鳴き声やイタチの姿が見られた頃から、彼は六本木の街の変化を見続けてきた。
「家が次々に密集して建てられたから、防災上はとても弱い地域でね。道はくにゃくにゃの坂道だし、大型の消防車は入って来られなかったくらいですから」
店は地域で「藪下の金魚屋」と親しまれ、天保11年から続く店の5代目としての日々を彼は送っていた。店先には金魚の泳ぐ水槽が並べられ、1日に1度だけ井戸水を利用して中身を入れ替える。軒先には幅4メートル弱の玄碩坂が通り、いくつもの長屋を貫くようにして麻布十番とテレ朝通りを結んでいた。
森ビルとテレビ朝日の社員が2人1組となり、その地区に建つ家々を訪問し始めたのは1986年の秋のことだった。
当時、入社2年目の社員で、現在は執行役員の藤巻慎一・企画開発1部部長は、開発部で地権者との交渉を担当した1人だ。その後、開業まで同部署に在籍した彼は、「地権者の方々と話すには最悪の時期だった」と今では笑う。
「何しろ流行語大賞に『地上げ・底地買い』なんて言葉が選ばれたのと同じ年でしたからね。地上げ屋だと思われて、門前払いの連続でしたよ」
テレビ朝日社屋の跡地を含め、再開発の対象となった敷地は約11ヘクタール。再開発計画は単純な買収ではなく、地区の半分を取得する森ビルとの共同の建て替え事業である。最終的に彼らは400人の地権者を取りまとめることになるのだが、当初は共同事業という趣旨を説明する以前に、「うちは売らないから」「ほかと話をしてから最後に来てほしい」と玄関先であしらわれるばかりだったという。
「家に上げていただくまでが長かった。1年以上通い続けて、ようやく上げてくださった方もいました。今の生活を守りたい。相続の関係で権利を動かせない。ご事情はそれぞれです。噂話やニュースから不動産会社に悪い印象を持つ方もいました。そんなとき我々は、『森ビルは港区の地場産業です』と説明したものです。この場所でほとんどの事業を展開している私たちは、逃げも隠れもできないんだ、と」
■森稔が遺した言葉「これからが始まり」
現在でも彼らの間で語り草になっている開発時の試みに、「六本木六丁目だより」という名のミニコミ誌の発行がある。開発の進捗状況や住民のインタビュー、意見などを社員が取材し、月に2度のペースで1軒1軒の家に配り歩く。藤巻など開発部の担当者は2週間に1度、全ての地権者に会報を手渡すことで、地元の情報や再開発の詳細を説明する機会を作っていった。
「地権者との交渉を担当する社員は、会社の全てをその場で代表する存在です。そして、僕たちがやっていることは、そこに住んでいる人の思い出とか歴史を根こそぎ変えてしまうかもしれない。だからこそ、賛成意見と反対意見の両方を掲載しました。住民への取材や原稿依頼を続けることで話題ができ、理解を深めてもらうきっかけができるので、編集作業は真剣そのものでした」
この「六本木六丁目地区再開発」において、地権者による準備組合が設立されたのは1990年。以後、度重なる計画区域の変更や反対運動を経て、東京都が権利変換計画を認可したのは99年のことだった。結果的に森ビルは実に17年の歳月を費やし、2003年の六本木ヒルズ開業を迎えることになったのである。
「(住宅棟の)レジデンスの車寄せで鍵の受け渡しをしたとき、地権者の方々がずらりと並んでいるのを見て、感無量の思いでした」と藤巻は言う。
その日、快晴の空の下では2月に植えたばかりの桜が花を咲かせていた。「おめでとうございます」と1人ひとりに声をかけながら鍵を手渡した彼は、計画の始まりから17年という歳月の長さを思ったものだった。
「まさか自分の会社員人生の90%以上の時間を、1つのプロジェクトに費やすとは思ってもいなかった。振り返れば、あの日は手首くらいの太さだった桜が、今はもう太ももくらいになっています。思えば1つの都市を開発するということは、そもそもそういうものなんですね」
また、地権者側の代表を務めてきた前述の原会長は、森稔と同じ頃に交わしたこんな会話が忘れられないと言う。
「地権者に対して森ビルが街の名前を募集し、『六本木ヒルズ』となることが決まった日のことです。400人の地権者全員が名付け親になったという気持ちで、私は稔さんに『日本一のヒルズにしてください』と頼んだんです。すると、彼は『世界一のヒルズになるよう努力しましょう』と言った。これからここを訪れる人たちを、共同の所有者である私たち1人ひとりが、世界一のおもてなしの心でもってお迎えしよう、と。つまり六本木ヒルズは建物が完成したこれからが始まりなんだ、と彼は言ったわけです。私はその言葉を稔さんの遺言だと今でも思っているんです」
(ノンフィクションライター 稲泉 連=文 市来朋久=撮影)