『本へのとびら――岩波少年文庫を語る』宮崎駿/岩波新書

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何の気なしに宮崎駿『本へのとびら 岩波少年文庫を語る』を手に取ったら、素敵な薦め文句に出会った。
ヒュー・ロフティング
『ドリトル先生航海記』をお薦めしているところだ。短い文章なので全部引用します。

 ――不思議な力を持っている本です。むしゃくしゃして、イライラしている時、くたびれて、すっかりいやになっている時、この本を読むと、ホワーンとあたたかい雲の中に入ったように心も身も軽くなります。なんだかうまくやれそうな気がして来るのです。
 それに、とても読みやすいし、本はしっかり厚くてたっぷりしていて、しかも全部で13冊もある上、1冊づつバラバラに読んでもいいんです。
 ね、いい本でしょう。

なんだか、お気に入りのレストランで出すビフテキを自慢しているみたいでしょう。
「しっかり厚くてたっぷりしていて」「13冊もある上」「バラバラに読んでもいいんです」。
肉が厚くて、それが何切れもあって、1枚でもお腹一杯になるんです、って言われているみたいだ。
本書の第1章は宮崎がお薦めの岩波少年文庫を50冊挙げてお薦めするというブックガイドだ。2010年にスタジオジブリで作った豆本が元になっているのだという。映画「借りぐらしのアリエッティ」の公開に合わせて作ったのかな? あれの原作はメアリー・ノートン『床下の小人たち』ですからね。
あとでもう少し紹介するが、50冊に付されている推薦文がとてもいい。本そのものを純粋にお薦めしていて、後ろにいやらしい大人の思惑がくっついていないところが好ましいのだ。第二章で宮崎は岩波少年文庫について語っているのだけど、その中で大先輩である石井桃子・中川李枝子(『いやいやえん』!)の両氏を讃えて、「彼女たちの前に、むずかしいことを論争している児童文学者たちが何か小粒に見えたことか」と書いている。まず主義主張ありき、ではなくて、子供の前にして向かいあうことを優先した態度を肯定しているわけである。
この本がブックガイドとして信用できる理由はたくさんあるのだけど、中でも以下の記述に共鳴したことが大きい。

 ――本には効き目なんかないんです。振り返ってみたら効き目があったということにすぎない。あのときあの本が、自分にとってはああいう意味があったとか、こういう意味があったとか、何十年も経ってから気がつくんですよ。(中略)
 ですから、本を読むから考えが深くなる、なんていうことはあまり考えなくてもいいんじゃないでしょうか。本を読むと立派になるかというとそんなことはないですからね。

「本を読むと立派になるかというとそんなことはない」! 諸手を挙げて賛成である。本を読んでばかりいて大人になってしまった私が言うんだから間違いない。本は立派な人になりたいから読むんじゃない。読みたいから読むんです。
宮崎はこの本に挙げた50冊を、仕事場にいつも遊びに来ていた子供のことを想定して選んだのだという。その子は今小学六年生になって「図書館の本を片っ端から、ものすごい勢いで読んでいる」のだそうだ。その子に負けないように、勝負のつもりで選ぶ。図書館では容易に見つけられそうにないものだって選ぶ。そういう真剣さが選書されたタイトルからも読み取ることができる。
たとえばデフォー『ロビンソン・クルーソー』について宮崎は「主人公が銃を持っていなかったら、どうだったでしょう」と推薦文の中で書いている。『ロビンソン・クルーソー』は、ヨーロッパの列強諸国が世界を分割して領土化しようとしていた帝国主義時代の産物だ。孤島に単身上陸したロビンソンは、帝国の尖兵のシンボルなのである(だから島に旗を立て、英国女王に献上しようと考える)。そうした大人の世界の存在をちらつかせ、銃の問題に託して書いている。その後は、推薦文を読む子供の知性に任せようという態度だ。
アニメーション作品の創り手として実績を残してきたという自負が覗いている箇所もあちこちにある。ヨハンナ・シュピリ『ハイジ』を宮崎は紹介している。言うまでもなく、自身がスタッフとして関わった「アルプスの少女ハイジ」の原作だ。

 ――アニメより原作を本で読んだ方がいいという人がいます。ぼくも半分位そう思っていますが、この作品はちがうと思っています。見、読みくらべてみて下さい。ぼくらはいい仕事をしたと、今でも誇りに思っています。

いいなあ。この箇所を読んだあと、ぜひA・A・ミルン『クマのプーさん』の推薦文と読み比べてみてもらいたい。E・L・カニグズバーグ『クローディアの秘密』のところでは、図書館を舞台にしたこの小説を映画化できないか検討したことを明かすなど、宮崎作品のファンならば興味深く読める箇所が随所にある。文章本体だけではなく、挿絵についての言及が多いのも本書の特徴で、ジャンニ・ロダーリ『チポリーノの冒険』が宮崎に漫画家になることを諦めさせた理由の一つとして挙げられている。日本の漫画界では決して受け入れられそうにない挿絵のタッチを宮崎はとても好きになってしまったのである。

など、など、など。
うっかり書いていると50冊全部について触れたくなってしまうので、あとは実際に本を読んで確かめてみてほしい。いわゆる書評集ではないので、中には内容を詳しく書いていない箇所もある(奥さんのお薦めということで宮崎は読んでいないものもある)。本を手に取るための、入口を開くガイドなのだ。まさしく『本へのとびら』である。
本書の最終章は、書籍化にあたって新たに加えられたものだ。「三月一一日のあとに」と題されたこの章で宮崎は、現代を「風が吹き始めた時代」ととらえている。風とはむろん心地良いものではない。「死をはらみ、毒を含む風」だ。この精神風土の中では子供たちが楽しみに観るようなファンタジー映画を作ることも容易ではないと宮崎は告白している。
50冊の選書の中に混じって異彩を放っているのが、カレル・ポラーチェク『ぼくらはわんぱく5人組』だ。宮崎はこの本を最後まで読んでもよくわからず、未完だったのではないかと推測している。作者ポラーチェクは、この小説の原稿を隠したままアウュヴィッツの強制収容所で殺害されたからだ。そうした逆風の時代の空気に現在のそれはよく似通っているという。
宮崎は、本来の児童小説は「やり直しがきく話」だと考えている。何があっても人生はそこで終わりになるのではなく、またやり直しがきく。その希望を説く小説だということだ。
しかし「風が吹き始めた時代」ではその原則が破られてしまうのかもしれない。
その可能性と向き合いながら、宮崎は書く。自らの中に芽生えるであろう安っぽいニヒリズムを克服しなければならないと。「子どもにむかって絶望を説くな」と。おそらくは自戒をこめて、逆風の運命に逆らって児童小説を書き続けたポラーチェクのようになろうとして、そう書いているのだ。子供たちの可能性を信じ、未来にこの本を託そうとする宮崎を、私も信じる。
(杉江松恋)