演劇界の東大「無名塾」が50年の歴史に幕 知られざる誕生秘話とは 「死産がなかったら、作らなかった」
無名に戻ったつもりで修業に帰ってこられる場所--。俳優養成所「無名塾」を主宰した、仲代達矢さん(故人)が塾名に込めた願いと由来だ。
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「来年2月、無名塾が50年の歴史に終止符を打つことが明らかになりました。昨年11月に仲代さんが92歳で死去して以来、塾の今後が話題になっていました」
と話すのは芸能デスク。
設立は1975年の3月。仲代さんの妻で脚本家(筆名・隆巴〈りゅうともえ〉)・演出家の宮崎恭子さん(故人)を創立者に、夫妻の自宅稽古場での“私塾”として始まった。出身者には国際的に活躍する役所広司(70)をはじめ、益岡徹(70)、若村麻由美(59)、滝藤賢一(49)、真木よう子(43)らが名を連ねる。

公式サイトに告知が載ったのは9月8日。〈(仲代)本人も色々な葛藤を抱えて居りました中で、私どもが置かれるであろう状況を見越し、遺してくれた言葉の真意に従いまして、仲代達矢・宮崎恭子と共に歩んで参りました無名塾50年の看板を、2027年2月末日を以って下ろすはこびとなりました事を、ここにご報告申し上げます〉とある。
“あの子が元気に生まれ育っていたら……”
塾生は朝のランニングに始まり、日中は演技指導を受ける日々。夜には仲代さんの自宅で暖炉を前に、塾生が彼を囲んで演劇談義に興じることもあったという。
事情を知る関係者が言う。
「96年には塾の存続が危ぶまれました。塾生を指導していた宮崎さんが亡くなって、仲代さんが塾の運営から身を引く可能性が取り沙汰されたのです。ところが、宮崎さんは“(自分の死後も)無名塾を続けてほしい”との遺言を残していた。それを受けて、仲代さんは無名塾を支えてきた」
背景にはこんな秘話が。
「宮崎さんは結婚6年目に子を身ごもったものの、階段で転倒して死産してしまった。性別は男の子だったそうです。晩年、仲代さんは“あの子が元気に生まれ育っていたら無名塾は作らなかった”と語っていた。二人にとって塾生は、かけがえのない“子ども”でした」(同)
演劇界の東大
無名塾は3年の養成期間中は一切、授業料を取らないことでも知られた。かつて仲代さんが在団した俳優座や、青年座などの養成所は、入学金や授業料、教材費など年間数十万円を徴取する。ところが仲代さんは無報酬での指導を貫いた。
「完全無償とあって、入塾希望者は毎年全国から1000人以上が殺到しました。仲代さんと宮崎さんは、合否を書類審査では絞らず、常に全員と面接をして決めていた。合格者は例年5~6人という狭き門で、業界では“演劇界の東大”とも呼ばれましたね」(前出の関係者)
合格後でも“適性に欠ける”と判断されれば退塾となる厳しさでも知られたが、
「仲代さんは運営資金を確保するため、1年の半分を映画やドラマ出演に費やして収入を得ていました。残り半分は無名塾の全国公演とその稽古に明け暮れるという生活で、それは40年以上も続きました。文字通り、あの方は無名塾に半生を捧げたのです」(同)
その仲代さんは晩年、自身の死を見据えて無名塾の将来を案じていたという。
「死後に塾を弟子たちに続けさせるかどうか、相当悩んでいるご様子でした。結局、最後まで意向を示さないままお亡くなりになった。残された塾生たちは、折に触れて仲代さんが口にしていた言葉を振り返り、その真意を推し量った。その結果、来春に解散するとの結論に至ったのです。もっとも、現実的にはあれだけのカリスマを欠いての継続は難しかったと思いますが……」(同)
商業主義を排し、無名の若者をプロの表現者に育て続けた半世紀だった。
「週刊新潮」2026年9月24日・10月1日号 掲載
