今年(2026年)に入って、5月のカンヌ国際映画祭に出品された『箱の中の羊』に続き、この9月には『ルックバック』と、是枝裕和監督の作品があいついで公開されている。

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当時23歳の井浦新を主演に抜擢

 その是枝が、いまから28年前の1998年、2作目となる劇映画『ワンダフルライフ』(公開は翌年)の出演者を選ぶために行ったオーディションの会場へ、髪をグリーンに染めた青年が現れた。当時23歳で、ARATAという芸名でファッションモデルをしていた井浦新である。是枝は井浦のことを写真集で目に留め、オーディションの書類を送っていた。(全2回の1回目)


映画『空気人形』(2009年)が出品されたカンヌ国際映画祭レッドカーペットでの井浦新(当時の芸名はARATA)と是枝裕和監督 ©時事通信社

 このとき、オーディションを受けた人たちは、「あなたの人生のなかから大切な思い出をひとつだけ選んでください」という課題で事前に作文を書かされた。それは、『ワンダフルライフ』の劇中で亡くなった人々が天国に行く前に与えられる課題そのものだった。

 この課題に井浦は当初戸惑ったものの、少し前にイタリアのミラノに行った際、そのときの自分にとって音楽が一番大切に感じられたことから、音楽との出会い--家族旅行の車中でビートルズを聴いたときの感動をつづって提出したという。

 井浦は是枝の顔を知らなかったが、面接で何人ものスタッフが横一列に並ぶなか、ひとりだけ自分の顔をジーッと見つめている人がいたのですぐわかった。そして「見られている」というパワーを感じながら、気づけば井浦のほうからいろいろな話をしていたという。

是枝監督からの「芝居なんかしなくていい」

 是枝のほうはといえば、映画の主人公は亡くなった人たちに人生の大切な思い出を聞いていく役だっただけに、井浦と会ってみて「この人はちゃんと人の話を聞けて自分の言葉で問いかけることができるんだ」と思い、それが彼を主演に起用する決め手になったとのちに明かしている(『東京ウォーカー』2000年3月14日号)。

 出演者には一般の人たちも含まれ、それぞれ実体験を語ってもらうというドキュメンタリーの手法がとられた。そのため、撮影に際して井浦は是枝から「芝居なんかしなくていい。何か心が動いたらその通りやってみて」とだけ言われた。《だから、あの芝居には嘘がなく、心のままカメラの前にいることができた》とのちに語っているとおり(『AERA』2018年7月30日号)、映画のなかでは彼が相手の話を聞きながらごく自然に反応しているのがうかがえる。

モデルから俳優へ、続けるつもりのなかった道

 今月15日に52歳となった井浦にとって『ワンダフルライフ』は俳優としてのデビュー作だ。ちなみに同作では、井浦と同じく当時はモデルだった伊勢谷友介もデビューしている。制作陣にも演出助手の一人として、井浦と同い年で現在は映画監督として活躍する西川美和が、是枝に誘われて参加していた。また、井浦とはその後何度となく一緒に仕事をすることになる撮影監督の山崎裕(ゆたか)にとっても、これがドキュメンタリーから劇映画に進出した初めての作品となった。

 そうした人間関係を含め、同作への出演経験は井浦に現在にいたるまで大きな影響を残している。とはいえ当時の彼は俳優を続けていくつもりはなかった。撮影が終わったあとで是枝から「ARATAくん、これからどうするの? 役者面白かった?」と訊かれたが、「映画づくりは楽しいと感じました」と答えるのが精一杯だったという(安藤紘平ほか『映画の言葉を聞く--早稲田大学「マスターズ・オブ・シネマ」講義録』フィルムアート社、2018年)。

 井浦は19歳のとき、インディーズブランドのショーに出演したところをスカウトされ、モデルの仕事を始めると、やがてパリ・コレに出演するまでになった。是枝と出会った年には、モデル仲間と一緒にブランドを立ち上げ、自分たちで洋服をつくって売るようになっていた。

「芸能界に染まりたくないし…」

 そのため、『ワンダフルライフ』が公開された頃にも《今はショップの運営が楽しくて。芸能界に染まりたくないし。趣味を生かしながら会社勤めできるなんて気持ちいいじゃないですか》と語っていた(『CREA』1999年5月号)。

 それでもこのあとも俳優としてのオファーがあいつぐ。是枝作品でも『DISTANCE』(2001年)で再び主演を務め、前作に続いての「芝居」をしない芝居は井浦のなかでスタンダードとなる。これについて彼は後年つぎのように語っている。

〈《たぶん最初から「芝居をするんだ」って考えていたら持てなかった心構えを持てたと思うんです。台本を読むにしても、カメラの前に立つにも、技術を見せるのではなくて、とにかく心を見せるということ。そういう心構えは今までブレずにありますが、それは是枝監督に教えてもらったことです》(前掲、『映画の言葉を聞く』)〉

 しかし、俳優として駆け出しだった頃には、ほかの作品でどっしりとした「芝居」を求められ、戸惑うことも少なくなかったようだ。

けっして大きな声を出さなかった『ピンポン』

 松本大洋の人気マンガを映画化した『ピンポン』(2002年)出演時には、けっして大きな声を出さず、監督や録音のスタッフからもうちょっと声を張ってほしいと言われても譲らなかったので、共演した竹中直人が感心したというエピソードが残る。井浦としてみれば、「これ以上の声を出してしまったら、セリフになってしまう、芝居になってしまう」と考え、抑えてしまったらしい(前掲、『映画の言葉を聞く』)。

「たくさんの人に迷惑をかけてしまう」俳優の仕事から離れた

『ピンポン』の現場自体は楽しく、同作は井浦が若手俳優として期待を集めるきっかけにもなった。しかし、このときにいたっても彼のなかではまだ役者として成長しようという心が育っておらず、それなのに芝居について語ることがだんだんストレスになっていった。

 ついには《この場に居ちゃいけないんじゃないか、こんな気持ちのままやっていたら、たくさんの人に迷惑をかけてしまうと》思い、一時、心を閉ざして、俳優の仕事から遠ざかる(『AERA』前掲号)。

若松孝二監督への直談判「ゴミ拾いでもいい」

 だが、その後、映画『青い車』(2004年)にプロデューサーの越川道夫から懇願されて出演したのを機に、映画の現場に復帰した。しばらくすると是枝監督に続く大きな出会いが、今度は井浦からのアプローチにより訪れる。1960年代より数々の問題作を手がけていた若松孝二監督だ。

 井浦は10代のときからパンクミュージックが好きだったり、体制側に抵抗する人々の書くものを読み漁ったりと、反骨心の旺盛な一面があった。それだけに若松が連合赤軍の映画(2008年公開の『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』)を撮ると知るや、いても立ってもいられず、自ら若松プロダクションに電話すると、監督に映画に出してほしいと直談判する。すでにオーディションは終わったと言われても、ゴミ拾いでも後片付けでも何でもいいから現場で映画づくりを勉強したいと頼み込んだ。

 後日再び連絡すると、若松から「僕はまったく知らんが、助監督に聞けば君は結構有名な俳優らしいな。今度全員が集まる日があるから来なさい」と言われる(『週刊現代』2017年12月2日号)。当日行ってみると、連合赤軍のメンバーの一人である坂口弘の役が用意されていた。

「ちゃんと芝居をしろ!」

 現場の若松は厳しく、小手先の演技をしようものなら「ちゃんと芝居をしろ!」と罵声が飛んだ。しかし、井浦は怒られれば怒られるほど燃え、その分の熱量を芝居に投下して監督にぶつけ続ける。結果、名前を覚えてもらえ、関係性ができていった。この経験から彼は、「自分にもこんなに情熱をかけて役者の仕事ができるんだ!」と気づき、それからは芝居が本当に楽しくなったという。

 このとき若松から「君は役を選ぶな。何でもやれ」と言われてからというもの、井浦はそれを守って、映画にテレビドラマに、どんな役にも、台本を読んで「これは無理だな」と思う役だったらなおさら、貪欲に挑戦するようになる。

 その後も若松が作品を撮るたびに井浦は出演した。『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』(2012年)では主人公である作家の三島由紀夫の役に抜擢され、三島が若者たちを集めて民間防衛組織「楯の会」を結成し、最後には自衛隊にクーデター決起を呼びかけたのち自決におよぶまでを演じた。

ARATAから本名・井浦新へ

 若松から「三島はおまえに任せたからな」と電話で告げられたとき、井浦は足を骨折して入院中だった。若松組ではまだ勉強中の身という意識のあった彼からすれば大役だったが、《足を治すという目の前の目標があったせいで、三島を演じるプレッシャーを感じる余裕すらなかった、というのは怪我の功名ですね》と振り返っている(『キネマ旬報』2012年6月下旬号)。

 同作が2012年に公開されたのを機に、芸名をARATAから本名の井浦新へ改めた。本人はその理由として、三島由紀夫は日本の伝統と文化の重要性を訴えた人なのに、映画のエンドクレジットでローマ字表記の“ARATA”と出るのが嫌だった、と説明する一方で、《アーティストネームというのは肩書きと同じで、たいして重要ではないと思ってるんです》とも話している(『Quick Japan』Vol.99、2011年)。

 残念ながら若松監督はこの映画が公開された年の10月、交通事故で急逝した。翌2013年に井浦も出演した新作『千年の愉楽』の公開を控えるなかでのことだった。その後、白石和彌監督をはじめ若松プロダクションのスタッフが再結集し、同プロダクションの黎明期を描いた映画『止められるか、俺たちを』(2018年)を撮るにあたっては、井浦が若松の役を引き受けている。

〈「最悪な芝居だと思って…」大ヒット作で苦悩、社会へのアクション、10歳下の妻とは…“俳優を続ける気はなかった”井浦新(52)の現在地〉へ続く

(近藤 正高)