「運河には古い鉄橋がそのまま…」「工場エリアの雑草に埋もれたナゾの廃線」横浜の埋立地にある2.7kmの廃線跡を歩いた「日産自動車創業との深い関係とは」
京浜東北線の新子安駅にやってきた。
【現地の画像】「運河には古い鉄橋がそのまま…」「工場エリアの雑草に埋もれたナゾの廃線」16年前に消えた鉄道“新興線”の写真をすべて見る(35枚超)
新子安駅は川崎駅と横浜駅のおおよそ中間にある小さな駅だ。1日の乗車人員はだいたい2万人。だいぶ多いように思えるが、京浜東北線では下から3番目だという。首都圏は、人が多すぎるのである。
それはともかく、新子安駅はホームと地下道で結ばれている小さな駅舎が南側にひとつ。目の前には京急線の線路が通っている。すぐ脇には京急新子安駅もある。その先に少し歩けば国道15号、またの名を第一京浜(そして旧東海道)だ。そしてすべてを高架で跨いでいるのが、神奈川産業道路である。
なぜこの駅にやってきたのかというと、新子安駅の近くから沖合の埋立地までを結んでいた貨物線の廃線がある……という話を聞いたからである。

新子安駅前。左が京浜東北線・東海道本線、間にお寺を挟んで右には京急線が通る
16年前に消えた「新興線」とは?
新子安駅前から第一京浜を渡り、産業道路の高架下を少し南に歩く。そこにある階段を上ると産業道路に沿った歩道に通じている。そこで首都高横羽線と並行するナゾの線路を跨ぐのだ。
東海道線は、あまりにも列車の数が多い。かつてのように西に向かう特急列車がバンバン走っているワケではないけれど、首都圏きっての通勤路線であることに変わりはない。
同時に東海道線は東西を結ぶ物流の大動脈でもある。だから貨物列車だって走らねばならない。そこで大正時代に鶴見~桜木町間を別ルートで結ぶ貨物支線、通称“高島線”が設けられた。
さきほどの産業道路が跨ぐ線路が、まさしくその高島線だ。そして高島線は途中でいくつもの支線に分かれ、埋立地の工業地帯まで延びていた。今回お目当ての廃線も、そうした貨物路線のひとつなのである。
その貨物線は、新子安駅の南側、高島線が産業道路と交差するあたりで南に分かれ、いくつかの埋立地を結んで走ること約2.7km。終点が新興駅だったから、“新興線”(2010年に廃止)と呼ばれていたようだ。
廃レールが全然見つからないが…
産業道路沿いの歩道を歩いて高島線を跨ぎ、すぐ先の階段を降りる。このあたりに新興線との分岐地点があったはず……と思って見渡してみたが、線路沿いには建物が建っていたりして近づけない。ただ、京急バスの営業所や物流倉庫の間にはいかにもそれらしきカーブを描く道が通っていた。これが、新興線の廃線跡に違いない。
レールや枕木がそのまま残っていたり、そっくり遊歩道などに転用されていたりするようなわかりやすい廃線跡ばかりではない。一般的な道路とはまた違った緩やかなカーブを描く道筋も、確かな廃線の痕跡なのだ。
古い鉄橋がそのまま残っていた
ただ、この道路はすぐに物流倉庫の敷地内に消えてしまい、辿ってゆくことはできない。仕方がないので産業道路を迂回していると、運河を跨ぐ橋の上から新興線の古い鉄橋が見えた。
鉄橋の前後は企業の敷地の中に消え失せていても、運河を渡る鉄橋ばかりは現役時代のそのままに。真ん中だけちょっと形状が異なっているのは、行き交う船のためだろうか。工業地帯の貨物線の、明瞭な痕跡であった。
そしてそのまま新興線と産業道路は、恵比須町と呼ばれる埋立地へと続いてゆく。
この一帯の埋立地は、京浜工業地帯の中核を成すエリアだ。恵比須町もそのほとんどがレゾナック(昭和電工)の工場になっている。新興線は工場のド真ん中を通り、工場への引き込み線なども持っていた。静けさが求められる住宅地の中ならともかく、工場の原材料・製品輸送が目的の貨物線。敷地の真ん中を走っていても何の問題もないのである。
青いシートで封鎖された鉄橋があった
廃線跡を求めて工場の中に入ってゆくワケにはいかないが、工場を抜けてきた新興線がどこを通っているのかはすぐにわかった。産業道路が左に折れる、セブンイレブンのある交差点。新興線はちょうどセブンイレブンの裏手から産業道路沿いへと抜けてくる。廃線跡は遊歩道に形を変えて、産業道路と並んで東を目指すのだ。
だからここから先は、遊歩道を進むだけで廃線ウォーク。といっても、完全な工業地帯で住んでいる人はもちろん歩いている人もいないような町の中だ。そんなところに遊歩道?とも思うのだが、単線で幅の狭い廃線跡、これといった使い道もないのだろう。実質的に産業道路の歩道が大幅に拡張された形になっている。
遊歩道を少し歩くと、すぐにまた運河を渡る。新興線にも産業道路と並んで鉄橋がある……のだが、こちらは青いシートで封鎖されていて渡ることができない。さすがに古い鉄橋を歩いてくださいというのは、安全上の問題があるのだろう。「塗装中」と書かれた看板があったから、もしかするといつかは歩いて渡れるようになるのかもしれない。
「日産自動車が生まれた日」廃線との深い関係
橋を渡った先は宝町という埋立地。少し歩くと日産自動車の看板が見えてきた。埋立地の上にあるこの日産の工場は、1935年に操業を開始したという日産自動車創業の地だ。ゲート脇にある古めかしい建物は、日産創業時に建てられた旧本社一号館だという。
内部はエンジンミュージアムになっていて、誰でも見学することができる……というわけで立ち寄ってみたら、外国人観光客で大賑わい。展示してあるクルマに乗り込んで興奮気味に話をしていたり、エンジンや日産の歴史のコーナーでも目を皿のようにして解説文を読んでいたり。いまも日本車、日産のクルマは外国人からの人気は根強いようである。
日産自動車創業の地でもあるこの埋立地一帯は、1930年代に造成されたエリアだ。
川崎から横浜にかけての臨海部は、明治後期から埋立が進んで急速に工業地帯として発展していった。大正期に開業した高島線は、京浜工業地帯の発展に伴う輸送需要の増加にも応じたものといっていい。
そして関東大震災後の新しい埋立地が、新興線の走ったエリアだ。
昭和初期に相次いで生まれた“新興”の埋立地には、恵比寿町・宝町・大黒町、またそれらを結ぶ橋には布袋橋や寿老橋といった七福神にちなんだ縁起のいい名前が与えられている。列強の仲間入りを果たした大日本帝国を支える新しい工業地帯に対する思いをこめて名付けたのだろうか。
新興線は、埋立地の造成が終わって工場ができつつあった1934年3月に営業を開始している。日産自動車は前年の末に自動車製造という名で創業したばかり。新興線の開業を報じる1934年4月12日付けの読売新聞には、前身会社のひとつである戸畑鋳物の名で新興線からの引込線を持っていることが書かれている。
ピークには25社30本の引込線があった
当時から他にも何本もの引込線があったようで、開業時の運転本数は実に1日16往復。埋立地には次々と工場が生まれた。営業開始の時点から、新興線とその沿線の新しい工業地帯は大いなる発展を約束されていたのである
当然、その後も新興線の走る埋立地はますます隆盛を極めてゆき、戦後も戦前を上回る勢いで発展していった。最盛期には実に25社30本の引込線が新興線から分かれていたという。京浜工業地帯の規模と高度経済成長期の著しい経済発展の一端が窺える。
ちなみにこの間の1965年、日産自動車横浜工場も節目を迎えている。ダットサンなど黎明期の名車を実に約66万台も送り出してきたが、この年からエンジンなどの部品工場に転換したのだ。といっても、規模縮小のようなネガティブな話ではなく、座間に新しく工場ができたから。イケイケどんどん右肩上がりの時代の物語、である。
かつての終点「新興駅」には何がある?
新興線の廃線跡を辿る旅。遊歩道を進むと、日産自動車の先にはENEOSの工場がある。まるで都市対抗野球の組み合わせを見ているかのような並びの埋立地だ。
ENEOSの工場の中を覗くと、貨物ホームのような構造物が見える。きっと新興線の現役時代には、引込線で貨物列車が工場の中まで乗り入れていたのだろう。
宝町から再び運河を渡ると大黒町へ。ここでも産業道路に並行して新興線の廃鉄橋が残っている。橋台の残骸のようなものがむき出しになっていた。このまま撤去されてしまうのか、それともいつか整備をして渡れるようになるのかどうか。
大黒町に入ると、かつて広大な側線が広がっていた産業道路沿いに新しい施設が建設の最中だった。その工事に合わせて廃線跡の遊歩道も途切れたままなのだが、施設が完成すれば遊歩道は蘇ることになるのかもしれない。
そんなことを思いながら5分ほど歩くと、正面に見えてくるのは首都高大黒線の高架橋だ。その下を通る大黒橋通りと産業道路の交差点手前が、新興線の終点・新興駅である。途切れていた遊歩道が最後に復活し、「貨物線の森緑道」という看板が掲げられていた。こんな武骨な工場・倉庫エリアの真ん中の貨物駅跡の公園。誰かやってくるのだろうかと気にもなったが、端っこにタバコの吸い殻がたくさん捨てられていた。いやはや。
こうして終点を迎えた新興線の廃線跡。新興駅の名は目の前の交差点や近くのバス停の名にいまも残っている。
新興線の列車が走っていたのは2002年まで。正式に廃止されたのは2010年のことだ。それから16年が経った埋立地。貨車の行き交う音は聞こえなくなったけれど、日本を支える工業地帯であることは開業当時からいささかも変わっていない。
(鼠入 昌史)
