なぜ衰退したのか? リアエンジン車の黄金時代(後編) BMWを救った700からポルシェ911、フィアット126まで
BMW 700(1959年)
ジョヴァンニ・ミケロッティ氏がデザインした700は、BMWを破綻の危機から救う上で重要な役割を果たした。このモデルにより、同社は急成長中の市場セグメントに進出することができた。
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BMWはエンジンをゼロから設計するのではなく、二輪車のR67の空冷フラットツインエンジンを乗用車用に改造した。そして1950年代後半の欧州の人気モデルと競合させるため、エンジンをキャビン後方に搭載した。

BMW 700(1959年)
生産は1959年から1965年まで続き、その頃にはBMWはすでにスポーティで高級なブランドとしてのイメージを確立し始めていた。
写真:BMW 700クーペ
シボレー・コルヴェア(1959年)
シボレーは、フォルクスワーゲン・ビートルと直接競合させるべく、1960年モデルとしてコルヴェアを発売した。コルヴェアは後部に空冷エンジンを搭載していたが、ドイツのライバル車との類似点はほぼそれだけだった。
デザインははるかにモダンで、車体も大きく、初期仕様では80psを発生するフラット6エンジンを搭載している。1960年代初頭には、ターボチャージャー付きで180psを発生するモデルなどスポーティなバリエーションがラインナップに加わった。

シボレー・コルヴェア(1959年)
欧州のエコノミーカーに対するシボレーの対抗馬として、新たなセグメントを生み出す可能性も秘めていたが、そのハンドリング性能は社会活動家ラルフ・ネーダー氏から痛烈な批判を浴びた。彼の著書『どんなスピードでも自動車は危険だ(Unsafe at Any Speed)』は、コルヴェアが危険であるというイメージを固めてしまった。シボレーは1965年の徹底的な改良により、ハンドリング上の欠陥の大部分を是正したが、その時点で評判はすでに傷ついていた。とはいえ、コルヴェアは最終的に約183万5000台を売り上げている。
1969年にコルヴェアの生産が終了した後、シボレーが再びリアエンジン車を発売することはなかった。
ZAZザポロージェッツ(1960年)
1960年にソ連で生まれたZAZ-965は、長きにわたるザポロージェッツ・シリーズの幕開けとなった。外観はフィアット600をソ連流に解釈したようなものだが、その類似性は単なる偶然ではない。ソ連政府はZAZに対し、当時新しかったフィアットを綿密に調査するよう指示したのだ。
しかし、965は600の単なるコピーではない。フォルクスワーゲン・ビートルにヒントを得たトーションバー式サスペンションを採用し、空冷V4エンジンを搭載している。

ZAZザポロージェッツ(1960年)
965は1966年に、NSUプリンツから公然とインスピレーションを得た966に置き換えられたが、1969年まで販売が継続された。966は1971年に968へと進化し、1994年までさまざまなバリエーションで販売され続けたが、空冷V4エンジンは変わらなかった。
シムカ1000(1961年)
シムカは、当時考え得るほぼすべてのレイアウトを試している。1961年に発売した1000では、リアエンジン・後輪駆動にも挑戦した。この4ドア車は、シムカの株式の一部を保有していたフィアットの助言を受けて設計され、1000ccエンジンを搭載した600よりも大型でパワフルなモデルへの需要を見越したものだった。
1000の開発を担当したチームは、多くの人々の手に届く価格帯の、気取らないファミリーカーを目指していたが、その結果、意図せずして人気の高い(そして成功した)レーシングカーを生み出すことになった。

シムカ1000(1961年)
シムカ1000のラリー仕様は、欧州各地の競技イベントで勝利を収め、今日でもヒストリックレーサーとして人気を博している。アバルトも発売直後にこのモデルのチューニングを手掛け、シムカは1000クーペという2つのクーペを生み出した。
シムカは1967年、横置き4気筒エンジンを搭載した前輪駆動の1100を発売した。このモデルは1000と並行して販売され、シムカが経営難に陥る1978年まで生産が続けられた。
アルピーヌA110(1962年)
アルピーヌ初の乗用車であるA106は、ルノー4CVと多くの機械部品を共有しており、リアエンジンレイアウトも共通だ。後継となるA108においてもこのレイアウトを維持し、A110の開発に着手した際もエンジンの配置は変更されなかった。
コンパクトで軽量、かつ十分なパワーを備えたA110は、スタートグリッドに並んだ後輪駆動のレーシングカーの中で史上最も成功した1台となった。A110は生産終了となるまでルノー製のエンジンを採用していた。

アルピーヌA110(1962年)
初期モデルには、当時新型だったルノー8から流用した55ps、956ccの4気筒エンジンが搭載されているが、後期のモデルにはルノー17 TSから流用し、140psを発揮するようにチューニングされたインジェクション式の1605cc 4気筒エンジンが採用された。
アルピーヌはポルシェと同様、可能な限り長くリアエンジンを維持した。A310とA610はいずれもリアエンジンだ。しかし、2017年に発売された現代版A110は、ミドシップレイアウトへと変更された。
ルノー8(1962年)
1961年に前輪駆動のルノー4が発売された際、多くの人がもうリアエンジン車の生産は終わるだろうと予想していた。しかし、ルノーはまだ諦めていなかった。旧式化しつつあったドーフィンの後継として、8という新型車を投入したのだ。
その角ばったデザインは、ドーフィンの柔らかく丸みを帯びたラインとは一線を画しているが、中身は似通っていた。

ルノー8(1962年)
ルノーは、4のようなフロントエンジン・前輪駆動ではなく、水冷式リアエンジンを採用した。これはおそらく、1940年代からリアエンジン車を運転してきた顧客層を遠ざけることを懸念したためだろう。
ルノーは、ラインナップにおける8と16の間のギャップを埋めるため、10という別のリアエンジン搭載モデルを発売した。これは8を進化させたもので、フロント部分が長く、独自のデザインと洗練されたインテリアを備えている。
8の中で最もメモリアルなバリエーションは、1964年に最高出力90psの1108ccエンジンを搭載して登場したゴルディーニだ。1967年には、100psの1255cc直列4気筒エンジン(およびフロントに2つの追加ライト)を搭載するようになった。フランスでの8の生産は1973年に終了したが、スペインでは1976年まで続けられた。
ヒルマン・インプ(1963年)
ヒルマンは1963年、リアエンジンのインプを発売した。ミニに真っ向から挑むべく設計されたインプには、競合他社にはない独創的な特徴があった。
リアウィンドウが上方に開くようになっており、後部座席に荷物を載せることができる。さらにスペースが必要な場合は、後部座席の背もたれを完全に倒すことができるが、これも1960年代としては珍しい機能だった。

ヒルマン・インプ(1963年)
ヒルマンは、ミニよりもインプを日常使いしやすいクルマにするために多大な努力を払ったが、特に冷却システムに関する信頼性の問題により評判を落としてしまった。
そしてスコットランドのリンウッド工場でのストライキが、問題をさらに悪化させた。インプの販売もあまり好調とは言えず、ヒルマンの親会社ルーツの財政難に大きく影響し、1967年にクライスラーの傘下へと追いやることとなった。
ポルシェ911(1963年)
ポルシェは1963年、356の後継として901を投入した。これは一から設計されたまったく新しいモデルで、より流線型のデザインを採用し、水平対向6気筒エンジンを搭載している。しかし、プジョーが「中央にゼロを含む3桁の車名はすべて当社が所有している」と指摘したため、901は発売直後に911へと改名された。
その後の展開は、言うまでもないだろう。911は、これまでに量産されたリアエンジン車の中で最も有名なモデルだ。

ポルシェ911(1963年)
911はその長い歴史の中で、数え切れないほどの進化を遂げてきた。サイズは大きくなり、重量は増し、技術は進歩し、出力も格段に向上した。冷却方式は空冷から水冷へと移行し、2024年にはハイブリッドモデルも発売された。それでもリアエンジンを維持しており、このレイアウトが今もなお、911の象徴的なデザインを形作っている。
フィアット850(1964年)
600の後継として開発されたフィアット850は、先代と同じリアエンジンレイアウトを基に設計された新型車だ。1964年に発売された850は、本来なら600のような流線形のシルエットを持つはずだったが、社内テストの結果、試作車の空力性能が不十分であることが判明した。出力は29psから40psへと跳ね上がったにもかかわらず、最高速度は600とほぼ同じ約110km/hにとどまったのだ。
ダンテ・ジアコーザ氏によれば、フィアットは発売延期を避けるため、スリーボックスデザインを急いで量産化したという。850は最高速度120km/hを実現し、スケジュール通り発売された。

フィアット850(1964年)
スペインのセアトは再び850をライセンス生産し、今回もドアを1組追加したバリエーションを展開した。一方、トリノのフィアット本社では、600のときにコーチビルダーのスポーティなバリエーションに脚光を奪われた経験から、同じ過ちを繰り返さ名によう決意していた。
1965年には、850のクーペとコンバーチブルのバリエーションを発売し、より高出力の843ccエンジンを導入した。1968年、クーペとスパイダーモデルには903ccの4気筒エンジンが搭載された。一方、米国では排出ガス規制を回避するために817ccの4気筒エンジンを搭載していた。
850の生産は1973年に終了した。フィアットは後継として、フロントエンジン・前輪駆動の127を投入した。
スコダ1000 MB(1964年)
チェコのスコダは研究開発部門に対し、1000 MBをリアエンジン仕様にするよう求めたわけではない。単に、同社の他のモデルよりも軽量で、低燃費で、コンパクトにするよう指示しただけだ。1950年代後半において、それはボディ・オン・フレーム構造を廃止することを意味していた。
その点が決まると、開発チームは3つの選択肢を検討した。フロントエンジン・前輪駆動、フロントエンジン・後輪駆動、そしてリアエンジン・後輪駆動だ。彼らが後者を選んだのは、生産が容易になり、ひいては販売価格を安くできるからだった。

スコダ1000 MB(1964年)
1000 MBは、1990年まで続くスコダのリアエンジン搭載モデルの第1弾となった。このシリーズには、4ドアの乗用車、ファストバック風のルーフラインを持つ2ドア・クーペ、そしてラリーで活躍したチューニングモデルの130 RSなどがある。
フィアット126(1972年)
フィアットが126を発売した1972年には、リアエンジン車の人気はすでに下火になり始めていた。500の後継車として開発された126は、1970年代のトレンドに沿った、角ばったデザインが特徴だ。
しかし、中身の機械部品は500から多くを流用していた。パワーユニットは、キャビン後方に搭載された空冷2気筒エンジンである。

フィアット126(1972年)
初期のモデルでは、23ps、594ccの2気筒エンジンと4速マニュアル・トランスミッションを搭載している。126の生産は500よりもさらに長く続いた。発売から15年目を迎えた1987年、水冷式704ccの2気筒エンジンが搭載され、実用性を高めるためにリアハッチが追加された。
フィアットは1993年に多くの西欧諸国で126の販売を終了したが、ポーランドでは依然として絶大な人気を誇った。ポーランドでの生産は1973年に始まり、2000年まで続いた。総生産台数は、500が380万台であるのに対し、126は460万台に達した。
リアエンジン車の終焉
1959年の初代ミニ(写真)は、経済性を重視した小型のフロントエンジン・前輪駆動を採用車でありながら、十分な室内空間を確保していた。その影響力は絶大で、1960年代には多くの自動車メーカーがリアエンジンに代わる選択肢として真剣に検討するようになった。
シトロエン、フォード、サーブのように、それまでリアエンジン車を発売したことがなかったメーカーは他社の動向を静観していた。ルノーは1959年のエスタフェットに始まり、1961年の3と4で本格的に転換を図った。

リアエンジン車はフロントエンジン・前輪駆動(FF)車に取って代わられる形となった。
フィアットは1947年に前輪駆動の検討を開始し、1964年のアウトビアンキ・プリムラでついに量産化に成功した。シムカは1967年に1100を発売し、フィアットは2年後に128を発表した。1969年は、シボレーがコルヴェアの生産を中止し、以後、リアエンジン車を一切作らなくなった年でもある。
そしてフォルクスワーゲンでさえ、フロントエンジン車に前向きな姿勢を見せ始めた。同社初のフロントエンジン車はK70で、1970年にNSUからフォルクスワーゲンのラインナップに移籍した。
1973年に登場したパサートと、1974年のゴルフは、いずれも同様のレイアウトを採用していた。リアエンジン車の黄金時代は、こうして終わりを告げたのだ。
写真ライセンス:https://creativecommons.org/licenses/by/4.0/deed.en

