江川卓氏

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 プロ野球12球団で一軍の監督になれる人は、ほんの一握りだ。現役時代に輝かしい成績を残したからといって就任が保証されるものではない--。

【写真を見る】江川氏の巨人監督就任を阻んだ「球界のドン」とは

 元巨人の江川卓氏(71)。現役時代は通算135勝、1366奪三振を挙げ、最多勝2回、最優秀防御率1回、最多奪三振3回など、数々のタイトルを獲得。1981年には20勝をマークするなど日本一に大きく貢献し、MVPに輝いた名投手である。

 が、引退後は、テレビなどでの理知的で的確な解説が評判を呼び、巨人の監督候補として名が取りざたされることが度々であったものの、現在まで39年間にわたり、監督どころかコーチの経験すらないままだ。今季の巨人は阿部慎之助氏がまさかの辞任をし、橋上秀樹氏が代行として指揮を執っているが、来季の監督は「白紙」とされ、松井秀喜氏、高橋由伸氏、桑田真澄氏など、さまざまな「後任候補」の名前が飛び交っている。しかし、「江川待望論」が盛り上がっているとは言い難い。これまで指導者経験が一度もなく、既に古稀を迎えている年齢から見ても当然で、可能性は薄いと言って良いだろう。

江川卓

 実績も、人気も十分の江川は、なぜ監督になれなかったのか。「空白の一日」事件や、借金スキャンダルの影響はあったのか--。2018年、スポーツジャーナリストの吉見健明氏は、自らの「スポーツニッポン」紙記者時代の取材を基にその理由を考察している。以下、それを再録し、謎に迫ってみよう。

【吉見健明/スポーツジャーナリスト】

【前後編の前編】

(「週刊実話」2018年6月28日号記事を一部編集し、再録しました。文中の年齢や肩書は当時のままです)

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「空白の一日」

「昭和の怪物」として、真っ先に名前が挙がるのがこの男、江川卓だろう。

 百戦錬磨のプロたちが“球が浮き上がる”と舌を巻いた豪速球を武器に巨人のエースとして活躍。阪神の掛布雅之やランディ・バースといった強打者との名勝負、同僚だった西本聖との壮絶なライバル物語など、そのドラマチックな球歴はファンの記憶に鮮明に残っているはずだ。

 もっとも、江川が注目を集めたのはマウンド上の活躍だけではない。ある意味、グラウンド外での出来事の方が江川を唯一無二の存在にしたといえる。圧倒的な実力と華を持ちながら、プロ野球界での江川は常に大量のアンチ派を抱えるヒール役でもあった。この運命はすでに入団時に決まっていたと言っても過言ではない。江川のヒール役イメージを決定づけた「空白の1日」、もしくは「江川事件」はあまりにも有名だ。

野球人生が狂い…

 高校時代からプロ注目の的だった江川は、作新学院高校卒業時のドラフトでは阪急ブレーブス(現オリックスバファローズ)に、法政大学卒業時にはクラウンライターライオンズ(現西武ライオンズ)に1位指名されながら、いずれも入団を拒否している。

 高卒時は東京六大学の慶応への憧れもあったというが、その根底にあったのは「巨人への憧れ」だ。本人は後にクラウンの指名を拒んだ理由を「在京セ・リーグ球団だったら入団していた」と語っている。交際中の結婚相手となる彼女が東京在住だったこともあるが、それ以上に「巨人に入れなくても、巨人と対戦できるチームを希望」していたわけだ。裏を返せば、それだけ巨人というチームへの憧れが強かったのだ。

 そして1年間の野球浪人を経た1978年11月21日、事件が起きる。ドラフト前日にあたるこの日、巨人は前年の独占交渉権は20日までとして野球協約を曲解したゴリ押しで江川と電撃契約を締結した。これが世に言う「空白の1日」だ。

 セ・パ両リーク事務局は江川との契約を無効としたが、巨人は翌22日のドラフト会議をボイコット。そして、阪神タイガースが江川の交渉権を獲得する。江川自身は当日に契約の話を聞かされたというが、この一件は社会問題となるほどの大騒動に発展し、江川の野球人生を大きく狂わせていくことになる。

直撃インタビューに成功

 筆者は阪神が江川の指名権を獲得した瞬間に、法政大学野球部の後輩でもある江川の番記者に抜擢された。以前から江川を追いかけてきた番記者たちの間では、「ドラフト後の江川は追わない」という紳士協定が交わされていたそうだが、空白の1日によって壮絶な取材合戦が始まった。

 私も当時の大阪スポーツニッポン・田中二郎部長から「とにかく江川を捕まえろ!」という指令を受けて都内を走り回った。少ない情報の中でつかんだ手掛かりは、当時、江川が交際していた後の正子夫人の存在だった。東京・新宿にある実家をマークしていたところ、彼女が東京・小金井にあった漫画家の水島新司宅を訪ねていることが判明し、血気盛んだった私はすぐ水島宅の呼び鈴を押して取材を申し込んだ。

 この時は居留守を使われ、そのまま朝まで張り込んだものの、結局、江川は姿を現さなかった。どうやら裏口からこっそり脱出したらしいのだが、そうこうするうちに今度は栃木県小山市の実家に帰省した情報をつかみ、ようやく夕方になって実家前で直撃インタビューに成功した。

「巨人と阪神さんの話し合いにお任せしています」

 コメントは無難なものだったが、それでも江川の生の声をいち早くキャッチしたスクープである。気をよくしたデスクからは張り込み続行の指令が飛び、それからの2週間、小山の実家前で24時間態勢の張り込みをすることになった。

父が明かした「密約」

 さすがに江川本人が姿を見せることはなかったのだが、家を出入りする江川の父親・二美夫さんと親しくなった。二美夫さんにしてみれば迷惑でしかなかったはずだが、それでも張り付く記者を憐れんでくれたのか、ある日、こんな話を明かしてくれた。

「吉見さん、朝から晩まで大変ですね。息子のことで体を壊さないでくださいね。申し訳ないので一つだけお話しします。今は書かないでほしいのですが、息子は将来、巨人の監督になりたいという夢があるんです。この約束は読売との契約条件にも入っています」

 私は二美夫さんとの約束を守って、この証言をデスクに報告せず、記事にも書かなかった。ただ、その後の江川の人生を見ると、この密約の存在は、江川にとっても、巨人にとっても、ある種の“呪い”のように付きまとっているように思えてならないのだ。

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 しかし、冒頭に述べた通り、この約束は今に至るまで守られていないままだ。【後編】ではその理由について詳述する。これまで3回はあったと言われる監督就任のチャンスを阻んだのは一体、誰なのか--。

吉見健明(よしみ・たけあき)
スポーツジャーナリスト。1946年、東京生まれ。法政一高、法政大で野球部に所属し、同期・田淵幸一の控え捕手を務めた。同じく同期の山本浩二、明治大・星野仙一らとも親交を深める。卒業後は銀行勤務などを経てスポーツニッポンの記者となり、野村克也氏の南海監督解任などをスクープする。報道部副部長を務めた後、1991年に独立し、以後はフリーのスポーツジャーナリストとして活動している。

デイリー新潮編集部