【プロ野球】「打てなくていい。守備で一軍にいろ!」 近藤貞雄の″異例の辞令″で大ブレイクしたテスト入団生
野球の未来を見ていた男~近藤貞雄伝
証言者・嶋田信敏(前編)
1986年10月、近藤貞雄は横浜大洋(現・DeNA)の監督を退任した。だが、まだユニフォームを脱ぐことはなかった。11月1日から開幕する日米野球で、指揮を執ることが決まっていたからだ。
投手分業制をはじめ、メジャー流の野球をいち早く採り入れてきた近藤。球団監督の職を退いても、その手腕は球界から必要とされていた。こうして近藤は、全日本監督として日米野球に臨むことになった。

1989年から3年間、日本ハムの指揮を執った近藤貞雄氏 photo by Sankei Visual
例年、日米野球は単独球団が来日していたが、この年は選抜チームが編成された。全24選手のうち20選手が1986年のオールスターに出場しており、同年18勝を挙げた右腕マイク・スコット(アストロズ)、20勝左腕のテディ・ヒゲラ(ブルワーズ)、33本塁打を放ったホセ・カンセコ(アスレチックス)、リーグ最多の211安打を記録したトニー・グウィン(パドレス)ら、錚々たるメンバーが顔を揃えた。
オフシーズンの親善試合とはいえ、本気度の高いメジャー軍団を迎え撃つ。近藤は監督就任にあたり、日米の技術差はほぼなくなり、走塁は同等、パワーの格差も筋力強化によって縮まっていると語っていた。日本の投手についても、各球団のエースや抑えは「メジャーリーグ級」と高く評価していた。そのうえで近藤は、日本野球の未来を見据えて、こう語っている。
「いい試合をして、向こうに『力が接近したな』と思わせたい。そして21世紀の初めには、日本と米国による"真のワールドシリーズ"が実現できるように、そのための問題提起となるような日米野球にしたいと思っています」
それから20年後の2006年3月、ワールドシリーズならぬワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の2次ラウンドで、真剣勝負の日米決戦が実現した。近藤はその年の1月に逝去しており、その一戦を目にすることはできなかったが、1995年に野茂英雄がドジャース入りして以降、海を渡る日本人選手は増え、多くの日本人メジャーリーガーが誕生していた。近藤はそういう時代が来ることを、予見していたに違いない。
さて、1986年の日米野球。日本の第1戦スターティングメンバーは以下のとおり。
1番(遊)高橋慶彦=広島
2番(三)石毛宏典=西武
3番(右)真弓明信=阪神
4番(DH)落合博満=ロッテ
5番(中)秋山幸二=西武
6番(一)中畑清=巨人
7番(左)山本和範=南海
8番(捕)山倉和博=巨人
9番(二)辻発彦=西武
投手 江川卓=巨人
超一流選手が揃い、近藤も勝利にこだわった。だが、それでも日本は全7試合で1勝6敗。投手陣は14本塁打を浴びた一方、攻撃陣はわずか2本塁打に終わり、攻守にわたってパワーの違いを見せつけられた。
【評論家から再び監督へ】ただ、この結果で近藤の評価が下がることはなかった。むしろ、その注目度はさらに高まった。翌1987年からは新聞の野球評論家、テレビの解説者として活躍する一方、週刊誌に原稿を執筆し、著書も刊行した。
特に週刊誌では、野村克也(元南海ほか)の長期連載終了を受け、その後を引き継ぐ形で連載を担当した。近藤の評論活動はスポーツマスコミの枠にとどまらず、そこで綴られる先進的な考え方は他分野からも関心を集めた。やがて、野球好きの知識人たちとも交流を持つようになる。
年齢はすでに還暦を過ぎていたが、老境に入った感はまるでない。むしろ、野球人としての存在感は増していた。そんな近藤に、パ・リーグ球団から声がかかる。
大洋退団から2年後の1988年11月、近藤は日本ハムの監督に就任した。同年まで4年間、高田繁が率いたチームは5位、5位、3位、3位と着実に順位を上げていたものの、優勝には届かず、高田はその責任を取って辞任。球団オーナー・大社義規の意向により、後任には「優勝争いのできる手腕を持った人物」を迎える方針が決まり、白羽の矢が立ったのが近藤だった。
就任発表会見では、早くも優勝を宣言している。
「ドームの利点を生かした思いきった野球、変わった野球、攻撃的な野球で、私の野球の集大成をお見せして、優勝を狙いたい」

テスト生として日本ハムに入団し、16年間プレーした嶋田信敏氏 photo by Kyodo News
1988年3月に開場したばかりの東京ドームは、日本初の屋根付き球場だった。当時、日本ハムは巨人とともに東京ドームを本拠地としていた。両翼100メートル、中堅122メートルのグラウンドは、当時の12球団の本拠地では最も広く、近藤はまずそこに目をつけた。
球場が広くなれば、右中間や左中間を抜ける打球が増え、二塁打や三塁打も出やすくなる。そうなれば、次の塁を狙う走者を刺すため、俊足強肩の外野手が重用されるようになる。結果として、野球観戦の醍醐味のひとつである塁上のクロスプレーも増える。狭い球場でフェンスをギリギリ越える本塁打に比べ、そこには格段のスピードとスリルがあり、観客にとっても野球がより面白くなるというのが、近藤の考えだった。
「勝つだけではなく、ファンが見て、面白い野球をしなければダメです。パワーとスピードで、まず取れるだけ点を取る。その後、ガラリとディフェンスオーダーに代えるのも手でしょう」
攻撃型のオーダーで試合に入り、リードした終盤には守備型の選手に入れ替える。球界で初めて投手分業制を提唱した近藤は、その発想を野手にも広げ、"アメリカンフットボール方式"とも言うべき野球を実践していた。大洋監督時代から本格的に取り入れ、日本ハムでも継続する意向を示したわけだが、この近藤の野球によって人生が変わった選手がいる。
日大藤沢高(神奈川)から1979年に入団した外野手・嶋田信敏である。
嶋田は1978年11月、日本ハムの入団テストを受けて合格。ドラフト外で入団すると二軍暮らしが続き、5年目の1983年に一軍デビューを果たした。その後は一軍と二軍を行き来し、1986年からは主に守備固めとして起用されたが、近藤監督2年目の1990年にブレイク。ついにセンターのレギュラーをつかんだ。
近藤との出会いによって、何がどう変わったのか。嶋田に聞く。
【バッティング練習はしなくていい】「キャンプの時でした。マネージャーから『監督、呼んでる』って言われまして。僕ともうひとり、内野の広瀬哲朗も呼ばれて、一緒に監督室に行ったんです。入った途端、近藤さんが『まあ座れや。体、どうだ?』って言うんで、『疲れてます』って答えました。そしたら、『疲れるわなあ、練習やるんだから。じゃあ、麦茶でも飲んで』って言われたんですね」
テーブルの上には、グラスに入った「麦茶」が用意されていた。嶋田が手に取った瞬間、その茶色い液体がウイスキーだとわかった。「麦茶じゃないですよ」と言うと、近藤は「わかった?」とゲラゲラ笑った。嶋田は舐める程度にとどめたが、酒を一滴も飲めない広瀬は「いただきます」と言って、グラスを飲み干した。すると、近藤が言った。
「ところでおまえたち、これまで一生懸命、バッティングも走塁も守備も、三拍子揃うようにやろうとしてなかったか?」
ふたりとも「はい」と答えると、近藤は続けた。
「打てなくていいから! 極端に言ったら、バッティング練習はしなくていいよ、おまえら。そのかわり、守備で一軍にいろ。内野では広瀬、外野では嶋田。何でか、わかるか? 二軍の選手に、『守備だけでも一軍で食える。一軍で給料をもらえる』っていう手本になれ」
初めて聞く言葉だった。二軍選手の手本になるのはともかく、「バッティング練習をしなくていい」と言われたことはショックだった。それはふたりとも同じだったはずだが、飲めない酒を無理に飲んだためか、広瀬は近藤の話が終わらないうちにソファに横になり、そのまま寝てしまっていた。
あえてストレートのウイスキーを用意した近藤にすれば、これは一種の「辞令伝達」の儀式だったのだろう。
「もうひとつ言われたのが、『複雑骨折でもしない限り、おまえらは二軍に落とさないから、伸び伸びやってくれ』っていうことです。プロ野球に入って10年、そんなふうに言われたのも初めてでした。こういう言い方をしたら失礼かもしれないですけど、高田さんの時は、僕と広瀬で『何でオレたち、一軍にいるのかね』『もう、どうなっちゃうのかね』って言い合ってましたから」
ともに守備力が高く、高田監督時代も守備固めで起用されていたふたりだが、いつ二軍に落とされるかわからず、自分たちの立ち位置をつかめずにいた。それだけに、近藤の「二軍に落とさない」という言葉には驚き、ありがたみを感じた。
ただ、広瀬は富士宮北高(静岡)から駒澤大、本田技研(現・Honda)を経て、1985年のドラフト1位で入団。打力不足で控えに回っていただけに、近藤の辞令に忸怩(じくじ)たる思いもあったのではないか。
「広瀬は単純ですから、『もうバッティングやんなくていいのか。でもよう、守備だけで1000万とか1500万とかもらってたら、ありがてえよな』って。よくこんなにすぐ切り替えられるな、と思いました。僕はテスト入団で、『10年もよくやったな』と思ってたんですけど、まだ一度もグワッと燃えた時がなかったんです。近藤さんの言葉で、一気にモチベーションが上がりました」
(文中敬称略)
つづく>>
高橋安幸●文 text by Yasuyuki Takahashi
