「源氏物語」を読み解くカギは「和歌」に隠されていた!…『源氏物語 A・ウェイリー版』の訳者が明かす女性たちの真実
話題を集めた『源氏物語 A・ウェイリー版』(全4巻)の訳者である森山恵さんと毬矢まりえさんが、「源氏物語」を「和歌」から読み解く新刊エッセイ『レディ・ムラサキのラブレター 「源氏物語」女たちの和歌と人生』(講談社)を刊行しました。
紫の上、空蝉、夕顔、女三宮……源氏物語に登場する女性たちが、和歌に込めた思いとは?そして和歌の中に隠された「物語の謎」とは?
著者による特別エッセイを、「群像」2026年10月号「本の名刺」から先行公開します。
まさかのタイトル、「ラブレター」?
それにしても『レディ・ムラサキのラブレター』という題名になるとは思ってもみなかった。提案されたとき、「ラブレター」? 古風な響きにまず面くらった。前著の「ティーパーティ」につづいて今度は「ラブレター」。アメリカ人の友人に「ラブレターっていう言葉、いまも使う?」と聞くと「ヴィンテージでいいじゃない。和歌はラブレターなんでしょ?」という。そうか、ヴィンテージなのね。もちろん和歌の多くはラブレターでもあるし、二人で笑いながら妙に納得してこの題名に決定した。
『レディ・ムラサキのラブレター 「源氏物語」女たちの和歌と人生』は、物語を和歌から読み解く本。といっても込み入った文法の解説書ではなく、登場人物の想いをうたに求めている。光源氏に縁の深い十四人の女君を選び、サブタイトルにあるとおり、それぞれの和歌と人生を追ってみた。
すると『源氏物語』の新しい顔が見えてきた。
たとえば紫の上。だれもが知るように、彼女は十代はじめの少女として物語に登場する。そして和歌を詠む。生涯をとおしてうたを詠む。歌人なのだ。はじまりの一首には「おぼつかな」とある(「かこつべきゆゑを知らねば、おぼつかな、いかなる草のゆかりなるらん」)。この一語に目をとめた瞬間、紫の上の姿が驚くほど鮮やかに見えてきた─少女は奥深い都のはずれで祖母の尼君に育てられている。早くに母を亡くし、父である兵部卿の宮にも半ば見捨てられた状況。なんと「おぼつかな」であろうか。しかもいましも継母のもとに連れ去られようとしている。継母といえば『シンデレラ』『落窪物語』。どれも継子いじめではないか。紫の上の亡き母も、この継母にいじめ殺されたように語られている。少女のなんとも危うく、おぼつかない境遇が鮮烈に見えてくる。危機一髪。ここにシャイニング・プリンス・ゲンジが颯爽と登場するわけだ。
聡明で思慮深い少女は、はじまりの一首の「おぼつかな」でみずからの境涯も運命も言い当て予告している。そしてこの一語を起点にみれば、新枕事件も異なる様相を見せてくる。若紫はあの朝なぜあんなに泣いていたのか、なぜ源氏への「抗議」を示したのか─。本書でその謎を解いてみた。これによってわたしたちの『源氏物語』観は大きく変わった。すべては和歌にヒントがある。
幼いということでいえば、光源氏に降嫁した女三宮(おんなさんのみや)もいる。源氏は紫の上の少女時代と女三宮を比べては、子どもっぽいと嘆く。が、和歌をみればどうだろう。頼りないながら案外うたに想いを訴えている。精一杯の想いだ。それは胸を打つし、あわれを誘う。これも光源氏目線の地の文や、心内語と呼ばれる内面の言葉を読んでも、けっして見えてこない。大切なカギは和歌に隠れている。『源氏物語』には七百九十五首にも及ぶ和歌が詠まれているが、この数にはそれだけの理由があったのだ。見逃せない。
しかも紫式部は人物の年齢や個性に沿って、すべての和歌を見事に描き分けている。心の声を物語空間に響かせている。おそるべし。
和歌を詠まなかった姫君、その理由は‥?
うた詠まぬ姫君もいる。若くして光源氏の正妻となった葵の上だ。それはなぜだろう。言葉を奪われたひともいたのだ。あるいは空蟬(うつせみ)。光源氏と最初に相聞を交わすのはこの空蟬だが、彼女は後年うたを詠まなくなる。なぜだろう。和歌と人生を追っていくと理由が見えてくる。それこそが『源氏物語』の奥深さ、真価なのだ。
夕顔(ゆうがお)をとり殺した生き霊はだれか。『源氏物語』千年におよぶ謎。これも和歌からドラマチックな謎解きができた。もしかして新説ではないだろうか。
十四人それぞれに発見があった。なによりどの女君も和歌を読めば読むほど、その沈黙も含め好きになった。平安時代の遠い物語、姫君たちの夢物語。そう思っていたひとたちの心が浮かび上がって、一挙に距離が縮まった。ままならぬこの世をだれもが懸命に生き抜こうとしている。男も女もひとしく運命に抗って心を限りに生きている。儀礼的に見える和歌のやりとりの修辞の網目を破って、肉声が響いてくる。
わたしたちがアーサー・ウェイリー訳『源氏物語 The Tale of Genji』をすべて「らせん訳」したことも大きな助けとなった。ウェイリーは和歌のほとんどを「ここは詩です」と断りながら会話文などの散文としている。ときには和歌とわからないほど、地の文に溶け込ませている。それはしばしばウェイリー訳の瑕のように言われる。惜しまれる、とわたしたちも思っていた。『源氏物語』に先行して『日本の詩歌 Japanese Poetry : The Uta』で多くの和歌を翻訳したウェイリー。訳せなかったはずはない。しかも詩人でもあったから、詩歌である和歌の重要性もよく理解していただろう。惜しい。けれど散文と和歌を切れ目なく地続きに訳してあったからこそ、心情がすんなり伝わってきたのだ。本書執筆にあたって和歌に立ち返り、ウェイリーの読みの的確さと巧みな構成、詩的でうつくしい英語にあらためて感嘆した。紫式部だってウェイリー訳を喜ぶに違いない。
ちなみに日本人の『源氏物語』現代語訳者も和歌には腐心している。うたの脇やページ終わりに現代語訳を付しているものが多いかもしれない。大胆なのは初代現代語訳者というべき与謝野晶子。意味など当然おわかりでしょう、という感じで解説一切なし。それで押し切っている。そのうえみずからの和歌を各巻頭に掲げているのだから天晴れ。とはいえそれは百年近く前のこと。読者にとって和歌はずっと近しいものだっただろう。
さて、二〇二四年刊行『レディ・ムラサキのティーパーティ らせん訳「源氏物語」』につづいての本書『レディ・ムラサキのラブレター』。また「群像」二〇二六年九月号では「源氏百人一首 らせん譚」が完結した。わたしたちはこれを秘かに〈レディ・ムラサキ三部作〉と呼んでいる。『源氏物語 A・ウェイリー版』全四巻と〈レディ・ムラサキ三部作〉。ひとつの世界が創造できただろうか。それにしても『源氏物語』は奥深い。「全身全霊、没入して書き切った」と思ったところがスタート地点のようで、紫式部とウェイリーからまた新たなテーマが降ってきそうである。
