夏の茅ケ崎--。

【現地の画像】「雑草の下にレールがそのまま残っていた…」神奈川県の“1.5kmだけの廃線跡”写真をすべて見る(30枚超)

 茅ケ崎駅のホームでサザンの「希望の轍」のメロディを聴いてしまうと、なぜだか浮かれ気分が押し寄せる。

 実のところ茅ケ崎も首都圏のベッドタウンという性質をだいぶ強めていて、マリンレジャーの浮かれ気分だけの町ではない。なのだが、何だろうこの高揚感。夏の茅ケ崎とサザンのメロディには、どこか特別な力が宿っているようだ。

 だが、今回の目的地は茅ケ崎駅ではないし、ビーチでもない。茅ケ崎駅からJR相模線という、ローカル色の勝った電車に乗り継いで3駅。静かな住宅地の中にある寒川駅に降り立った。


神奈川県寒川町までやってきた。この町の廃線とは…

42年前に消えた「西寒川支線」とは?

 茅ケ崎からたった3駅でも、寒川駅まで来れば高座郡寒川町だ。“町”とは言いながらも、人口はいっぱしの市にも引けを取らない約4万8000人。相模国一之宮の寒川神社で知られる町である。

 その玄関口・寒川駅からかつて分岐していたローカル線が、通称“西寒川支線”だ。寒川〜西寒川間、わずか1.5kmの短い盲腸線である。1984年3月末をもって廃止されたこの小さなローカル支線の跡を訪ねて、この駅にやってきた。

 西寒川支線は、寒川駅のすぐ西側で分岐して南に向かって走っていた。寒川駅の橋上駅舎からその方向を見下ろすと、相模線の線路の脇が妙に広いような気がする。支線が通っていた名残、つまり廃線跡なのだろうか。

 そのまま南口を出て、線路沿いの道をゆく。駅舎の脇には駐輪場、そして空き地。その先の踏切からまた西を見ると、ここでも単線になった線路の脇にもう一本の線路を敷くことができそうなスペースが確認できる。現在のJR相模線の線路と並んで、西寒川に向かう支線の線路があったのだ。

「花が咲き…」地元に愛される廃線跡

 といっても、踏切の中は電車の行き交うJRの敷地内だ。中に入って「いざ廃線ウォーク!」と息巻くわけにもいかない。なので、しばらくは線路沿いの道を歩き続ける。

 あいにく線路と道の間には住宅が並んでいて、廃線跡の存在は見ることができない。ちょっともやもやしながらも、だいたい3分ほど歩く。すると住宅が途切れて、幅の広い県道46号が相模線をアンダーパスする地点に出た。

 ここで線路沿いを見ると、ちょうど相模線から分かれようとしている廃線跡が、雑草の生えた茂みとしてハッキリと。ほどなく、廃線跡はゆったりとカーブして相模線から離れ、南西へと向きを変えるのだ。

 県道と交差した廃線跡は、「ゲート広場」という看板が置かれたポケットパークへ。さらにそのまま、「一之宮緑道」と名付けられた遊歩道になって続いてゆく。

 廃線跡が遊歩道になるのはおなじみの大定番だ。

 廃止されるローカル線は単線であることが多く、クルマが走るような一般的な道路にするには幅が狭すぎる。かといって、細長い廃線跡を開発したいというデベロッパーもそうはいない。そんなわけで、遊歩道になるのである。

 おかげで廃線跡歩きはだいぶ楽ちんだ。遊歩道を散歩気分で歩いてゆく。途中、大粒の汗を流しながら草刈りをしている地元の人とすれ違う。道沿いに植えられている木や草花は、沿線に暮らす人々の手によって管理されているのだという。廃止から40年あまり経っても、西寒川支線を転じた遊歩道は地元に愛されているのだ。

「レールもまくらぎもそのまま残っていた」

 ほどなく地面にレールが埋め込まれ、車止めの如く鉄道車両の車輪が置かれている場所に出た。その先には、「一之宮公園」という立派な公園が広がっている。遊歩道になった廃線跡は、ほとんどレールやまくらぎは撤去済みだ。が、この公園の中は現役時代のレールもまくらぎもそのままに。どことなく貧弱に見えるレールは、1日4往復しか走っていなかった超ローカル線という、廃線時の西寒川支線の様子を物語っているのだろうか。

 一之宮公園に一之宮緑道、さらにこの周辺の地名も一之宮。由来はもちろん、相模国一之宮の寒川神社だろう。遊歩道の入口近くの相模線の踏切の北側には、寒川神社の大きな鳥居もあった。この町は、古くからの寒川神社の門前町なのだ。そして、江戸時代には中原往還の宿駅という役割も持っていたという。

 そうした歴史とこの小さな廃線跡にはどこまで関係があるのか。考えを巡らしながら一之宮公園を抜けて少し歩くと、廃線跡の遊歩道は終点を迎える。

廃線の終点にあった…「海軍工廠」とは?

 西寒川支線の終点、つまり西寒川駅の跡は、「八角広場」というこれまた小さな公園になっていた。

 中央には八角形の小さな噴水らしきもの(といっても水はなかった)があるから、これがシンボルの八角公園、ということなのだろう。ここにも端っこにレールが残っていた。その脇の草むらは、かつてのホームの跡だろうか。

 公園の中、レールの途切れた端っこには「旧国鉄西寒川駅 相模海軍工廠跡」と書かれた碑が置かれていた。西寒川駅はわかるが、それより大きな文字で刻まれた海軍工廠とはいったい何なのか。これをヒントに、西寒川支線とはどんな路線だったのか、探ってみよう。

じつは関東大震災の復興を助けた

 そのためには、まずJR相模線の原点にまで遡らねばならない。

 相模線は1921年に相模鉄道によって開業した路線だ。開業と同時期には寒川から相模川河川敷まで線路を伸ばし、川砂利の採取と輸送を始めている。さらに1922年に寒川から南西の河川敷、四之宮までの支線も建設。1923年には支線の中間に東河原駅を設けた。これが、西寒川支線と西寒川駅のはじまりである。

 この支線の役割も、もちろん砂利の輸送だ。開業直後は苦しかった経営も、関東大震災後の復興で砂利の需要が急増した。おかげで持ち直し、それどころか相模線とその支線は貨車に山と積まれた砂利を運び、復興を支える陰の立役者になったのだ。

 ただ、砂利の需要は昭和に入ると減少し、砂利輸送一辺倒ではなかなか立ちゆかなくなってくる。そんなところに、この小さな支線に新たな役割が与えられた。

 1939年、沿線に昭和産業の工場ができて、通勤輸送を担うようになったのだ。このとき、東河原駅は昭和産業駅に改称している。

“毒ガス開発”をしていた

 さらに1942年には、海軍が昭和産業の工場を買収。海軍技術研究所を経て相模海軍工廠になった。この海軍工廠では、毒ガスをはじめとする化学兵器の開発が行われていたそうだ。跡地では2000年代に入ってから工事中に化学剤が入った瓶が見つかり、作業員が被災する事件も起きている。

 そして、ここに至って砂利を運んでいた小さな支線は、軍需輸送を担う路線へと変貌したのだ。駅名は四之宮口駅を経て西寒川駅に改められ、海軍工廠で働く人たちの通勤輸送、また資材輸送などが行われるようになる。1944年に相模線は支線を含めて国有化されており、帝都・東京を支えたかつての“砂利鉄”は、名実共にザ・軍事路線になったといっていい。

 しかし、国有化から1年ちょっとで戦争は終わる。すると海軍工廠は米軍が接収、しばらくは米軍の貨物輸送に従事することになる。

 米軍施設になったため、旅客輸送は休止・廃止されてしまい、時折米軍の物資を満載にした貨物列車が行き交うばかり。沿線の子どもたちが集まってチョコレートをねだった……という、いかにも教科書に書いてありそうなエピソードも伝わっている。

「1日30人しか利用せず…」廃線に

 その後、海軍工廠の跡地には昭和ゴム(現・日東タイヤ)や旭ファイバーグラスの工場が進出し、工業団地に生まれ変わってゆく。支線もしばらくはこうした工場への貨物輸送専業だったが、通勤輸送のニーズが増加してくると1960年には旅客輸送を再開している。寒川町の要請を受けてのことだったのだとか。

 しかし、ちょっぴり時代が悪かった。

 旅客輸送再開当初は西寒川駅も1日1600人が利用するほどに賑わったが、マイカーで通勤する時代が到来しつつあった。支線のお客は右肩下がりで減り続ける。最末期の1980年代、西寒川駅のお客は1日30〜40人程度だったという。

 この頃には、田畑が目立っていた沿線もすっかり住宅地になっていた。が、支線のダイヤは工場への通勤輸送に特化したもので、廃止時には朝1往復に夕方3往復、1日わずか4往復しか走っていない。とうてい地元の人が日常的に使うようなダイヤではなかったのだ。それに、支線はわずか1.5km。工業団地の入口の西寒川駅まで歩くくらいなら、運転本数がもっと多い寒川駅から乗ればいいじゃない、てな話である。

 そうして西寒川支線は、1984年3月31日をもって廃止された。国鉄の最末期、民営化を控えた不採算路線の整理のひとつといったところだろうか。地元の反対運動が激しかったというようなこともなかったようだ。かつては砂利を運びに運び、首都圏の復興・発展を支えたローカル支線も、末期にはすっかり存在感を失っていたのである。

“消えた”本当の終着駅へ…

 大正時代、東河原駅として開業した当時は中間駅だった西寒川駅。ただ、1944年には西寒川〜四之宮間が廃止され、以来廃線まで終着駅となっていた。裏を返せば、西寒川駅よりも先まで線路が続いていた時代もあったというわけだ。

 廃線跡をハッキリと確認できるのは西寒川駅までだが、そこから先も少し歩いてみよう。

 西寒川駅跡の八角広場の向かいには、西松建設の平塚製作所。その脇の道が、かつての廃線跡なのだろう。すぐに圏央道の高架をくぐり、工業団地の脇を南に進んでゆく。民家は少なく、行き交うのは大型のトラックばかりだ。

 そんな武骨な工業団地の先で、相模川の土手を登る。河川敷の野球場では親子連れがキャッチボールをしていた。夏の日の、のどかな土手の風景だ。かつて、西寒川支線が砂利を運んでいた時代には、このあたりに砂利の採取場があったのだろうか。

 相模川の砂利採取は1964年に廃止され、いまでは相模線にも砂利輸送列車は走っていない。川の向こうには、砂利鉄が走った時代ときっと変わらない姿のままの丹沢山地の山並みが横たわっていた。

(鼠入 昌史)