ロシアのプーチン大統領

写真拡大

 2022年2月から始まった「プーチンの戦争」は5回目の夏を迎え、ロシア社会はいたるところに綻びが見え始めている。中でも深刻化しているのがロシア人の心の病だ。戦争の長期化がロシア人の心を蝕み、それはかつて、旧ソ連が苦しめられた心理的・社会的疾患の後遺症である「アフガニスタン症候群」や「チェチェン症候群」になぞらえられ、「ウクライナ症候群」とも囁かれている。

【前後編の後編】

【佐々木正明/ジャーナリスト、大和大学社会学部教授】

***

【写真12枚】“お忍び”でディズニーランドを訪れたプーチン氏の長女・マリヤ氏 険しい表情で楽しそうには見えない

深刻化するDV事件

 ウクライナ軍のドローン部隊の猛反撃で、ついにロシア国内も本格的な攻撃に晒されるようになっている。20〜40代の健康な男性は召集令状による動員への恐怖が頭から離れない。女性にとっても、戦場に行った夫や息子が棺に収められて帰ってくるかもしれないという不安に苛まれる。その現象は、市民の精神疾患やアルコール禍の増加という数字で表れている。特に帰還兵が妻や恋人らに加えるDV事件の実態は深刻だ。

ロシアのプーチン大統領

 2026年1月、朝晩はマイナス30度にもなるシベリアの極寒の地イルクーツクで凄惨な事件が起きた。

 ウクライナの戦地から帰還した32歳の男は数か月にわたり妻と7歳の息子に激しいDVを繰り返していた。母子は身の危険を感じ、シェルターへ避難したが、後に男は居場所を突き止め、シェルターの近くで待ち伏せした。

 しかし、男は妻と子に会えなかった。その代わり、妻の別の知人女性をナイフで脅して自宅に監禁し、警察の説得もむなしく殺害した。

硝酸を頭に浴びせ…

 2026年5月、ロシア第2の都市サンクトペテルブルク。ウクライナへの戦争に参加した27歳の帰還兵が元恋人を襲撃する事件が発生した。

 女性は帰還兵から復縁を迫られ、しばらく付きまとわれていた。警察にも複数回、相談していたが有効な手立ては取られなかった。帰還兵は女性を待ち伏せ、ナイフで複数回切り付け、硝酸を頭部に浴びせた。

 女性は顔や目、まぶたなどが損傷し、皮膚への化学熱傷が約3分の1に広がるなどの重傷を負った。

事件の共通点とは

 2つの事件には共通点がある。

 2人の男は、かつて女性への傷害事件で有罪判決を受けていた。服役中に、戦地へ出向けば恩赦が与えられるというプーチン政権の兵員調達策によって、刑期を終えず社会復帰していたのだ。

 2人は戦地に戻ることを希望していたとの証言もある。特にサンクトペテルブルクの男は犯行時に「自分は戦争参加者だから大丈夫だ」と語っていたことが報じられており、男は戦地に戻れば元恋人への事件でも刑事責任を免れると認識していた可能性が高い。

 独立系メディアは、こうした事件が起こる背景に、戦地に出向いた愛国者である元帰還兵を英雄視する社会の風潮があると指摘する。さらに2024年に改正された刑法、および刑事訴訟法は、「特別軍事作戦」――ウクライナでの戦争の参加者に、事実上の免責を与えている。動員された兵士は、有罪判決を受けていたとしても、後に勲章を授与されたり、動員解除で除隊さえすれば、刑事上の処罰を一時停止し、終結させることができるという。

暴力のブーメラン

 ヘルシンキ大学のユリヤ・ブリン研究員は研究成果を発表し、ロシア国内で起こっている帰還兵の問題について「戦時下の残虐行為が家庭におよび、女性たちが矢面に立たされている」と指摘した。

 旧ソ連時代、アフガニスタンやチェチェン戦争の後で見られた「暴力のブーメラン」が、ウクライナ侵攻によって繰り返されている。

 報告書にはさらに重要な言及がある。前述の2024年の法改正の規定には、「未成年者への性的虐待を除くほぼすべての暴力犯罪に適用され、被害者への同意も賠償も必要としない。実際には、殺人、強姦、家庭内暴力で有罪判決を受けた男性は、戦争に従事していれば処罰を免れることができる」のだという。

 家庭内暴力事件においてはウクライナでの戦闘経験を情状酌量の要素として扱い、 裁判所では執行猶予や大幅減刑を言い渡すケースも常態化している。

アルコール渦の再来

「ウクライナ症候群」とは、「アフガニスタン症候群」や「チェチェン症候群」のように精神医学的には確立した疾患ではないものの、政権が勝利を最優先にする姿勢や、戦争の悲惨さが帰還兵・市民に及ぼすPTSD、アルコール・薬物問題など複合的な要素がからむ症候群であることが浮かんでくる。

 独立系メディア「ビョールストカ」は昨年12月、ウクライナ戦争に参加した帰還兵は、2022年2月から4年間で1000人以上の親族や友人を殺害、または負傷させたとする独自調査の結果を発表した。

 ビョールストカはメディア報道や裁判記録を丹念に積み上げ、この数字を割り出した。帰還兵が起こす事件について「そのほとんどは家庭内で発生し、飲酒の影響下で行われている」と説明した。

 アルコール禍はかつてソ連時代末期に猛威を振るった。国家の崩壊に伴う社会不安と貧困が、アルコールに依存する状況を生み出し、問題が爆発的に表面化した。

 飲酒に起因する凄惨な殺人事件やDVが猛威を振るい、製造業の工場では、勤務中にウォッカを飲む労働者が後を絶たず、機器の誤操作による火災や労災事故が頻発した。

 ウォッカや密造酒の多量摂取は、成人男性の早死の主要因にもなった。アルコール禍に関連する自殺も平均寿命を押し下げ、1990年代初頭の成人男性の平均寿命は57歳にまで落ち込んだ。

増加するアルコール依存症

 ウクライナ戦争の長期化は再び、ロシア社会にあの悪夢を呼び起こすリスクを高めている。

 ロシア保健省は毎年、アルコール依存症、またはアルコール性精神病と初めて診断されたロシア人のデータを発表している。それをもとに、独立系メディア「Important Stories」が分析したところによれば、2025年は、住民10万人あたりの患者が56.9人となった。前年比30%も増加し、ここ10年で最多の患者数となっている。

 問題はこのアルコール依存症増加の背景を公的機関や国営メディアが詳細に発表していないことだ。プーチン政権がウクライナへの勝利を最優先にし、戦争の長期化に伴うネガティブな社会状況を結びつけまいと厳しい検閲をかけていることが背景にある。

売上を伸ばす抗うつ剤

 戦争の長期化がロシア社会にもたらしている「不都合な真実」は、抗うつ剤や精神安定剤の売上の傾向にも表れている。

 ウクライナ侵略に伴うロシアへの制裁では、人道的な見地から、医薬品の販売は除外されている。ロシア国内の製薬ヘルスケアの市場動向を分析している「AlphaRM」のデータをもとに、今年5月、露メディア「РБК」が報じた記事によれば、ロシア国内では抗うつ剤や精神安定剤の販売が「記録的なペースで伸び続けている」という。主にデンマークやイタリアの製薬会社の製品が売れているようだ。

 この4年で、販売量ベースで2.4倍に拡大。さらに、2026年第一四半期も昨年同時期に比べ22%増加しており、ウクライナからの攻撃を受ける国境沿いのベルゴロド州などでは、さらに売り上げが急増していることがわかっている。

 プーチン大統領は露軍が勝利するまで戦闘を継続するよう命令している。しかし、その一方でロシア国民の心の病は深刻化している。かつて、戦争を経験した国がそうだったように、「ウクライナ症候群」はたとえ停戦を結んだとしても、その後、長期間、ロシア社会を苦しめていく未来が予想される。

【前編】では、プーチン氏が北方領土を訪問せざるをえなくなった理由について詳述している。「やめられない戦争」の継続によって、大統領が抱えた“深刻なジレンマ”とは――。

佐々木正明(ささき・まさあき)
ジャーナリスト、大和大学社会学部教授。岩手県一関市生まれ。大阪外国語大学ロシア語学科(現・大阪大学)卒業後、産経新聞社入社。モスクワ支局長、リオデジャネイロ支局長を経て、運動部次長、社会部次長などを歴任。2021年より現職。8年前はウクライナのマイダン革命やロシアによるウクライナ併合を現地で取材した。専門分野はロシア・旧ソ連諸国情勢、国際情勢に加え、オリンピック・パラリンピック、捕鯨問題などにも詳しい。単著に『シー・シェパードの正体』、『環境テロリストの正体』、『「動物の権利」運動の正体』など。

デイリー新潮編集部