『豊臣兄弟!』三法師は「武田信玄の孫」なのか?清須会議とお市・柴田勝家の再婚に隠された史実を読み解く

清州城(写真:moku/イメージマート)
2026年のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』は、豊臣秀吉の弟・豊臣秀長にスポットライトが当てられ、そのユニークな視点で話題を呼んでいる。天下人となる秀吉(演:池松壮亮)を、秀長(演:仲野太賀)は右腕としていかに支えたのだろうか。第30回「清須会議」では、亡き信長に代わり、天下人を目指す覚悟を固めた秀吉が、秀長を伴い清洲城へ。織田家の名代を決める評定に参加するが……。今回の放送の見どころについて、『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』の著者・真山知幸氏が解説する。(JBpress編集部)
三法師の後継は既定路線、清須会議で本当に争われたこと
織田信長が「本能寺の変」によって明智光秀に討たれてしまい、さらに嫡男の信忠も自刃に追い込まれた今、織田家を誰が率いていくのか――。
織田家の今後を決めるため、羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興ら織田家の重臣4人が集まったとされる「清須会議」。この会議について後世に広く流布した詳細な叙述を残しているのが、秀吉に仕えた田中吉政の家臣・川角三郎右衛門が江戸時代初期に著した『川角太閤記』である。
『川角太閤記』の記述に従うと、信長の次男・信雄と三男・信孝が、最有力な家督継承者とされる中、勝家が「三七様(信孝)然るべからん」と口火を切った。
信孝を推す勝家に対して、秀吉はというと、信忠の嫡男でわずか3歳の三法師こそ「御取り立てなさるべき事、ごもっともかと存じ候」と言いだしたという。
これに丹羽長秀と池田恒興が賛同すると、勝家も「目出度く三法師様を天下人に、各我らをはじめとして仰ぎ奉るべき覚悟なり」と述べて、三法師が後継者として決まった。
映画や歴史ドラマなどのフィクションは『川角太閤記』を下敷きにしているため、そんな話し合いが清須会議で行われたと広まることになった。だが、近年は柴裕之氏ら研究者による見直しが進んでおり、「三法師が後継者になることは既定路線だった」とされている。
『豊臣兄弟!』は柴氏が時代考証を務めるだけあって、近年の知見を踏まえた内容になっていた。弟の秀長に対して、秀吉がこう説明している。
「すでに織田家の家督は信忠様が継いでおられた。そのご嫡男である三法師様が後を継ぐは、至極当たり前の話じゃ」
秀長が「しかし三法師様はまだ3つではないか」と言うと、秀吉は「だからじゃ元服されるまでは誰かが名代となり、政を預からねばならぬ」と説明を重ねている。

(英俊著、辻善之助編、三教書院/国会図書館デジタルアーカイブ)
戦国〜江戸初期の興福寺多聞院院主の日記『多聞院日記』では、天正10(1582)年7月7日の記述で〈天下ノ様御本所ト三七ト所論故、両人名代ヲ止テ〉とあり、信雄と信孝が対立して、ともに三法師の名代を務める案は取りやめになったことが分かる。やはり、清須会議は「三法師の名代(後見人)を決める」ためのものだったようだ。
なぜ織田信雄は頼りなく見られたのか、信長を激怒させた伊賀攻め
名代としてふさわしいのは、次男の織田信雄か、はたまた三男の織田信孝か。
前述した『多聞院日記』の記述からも、結局はいずれも名代になることなく、4人の重臣たちによる協力体制が打ち出されることになる。
清須会議を物語化する際には、決定するまでのプロセスをどう描くかが、脚本家の腕の見せどころといえよう。今回の放送では、清須会議の前日に重臣だけで集まり、4人の方針を固める様子が描かれた。
秀吉が「筋でいえば、一門衆筆頭の信雄様じゃが……」と、信長の次男・信雄の名を挙げながらも難色を示すと、秀長が「確かに。よいうわさは聞かぬな。失策が続き、上様からも見放されておったからのう」と応じるシーンがあった。
実際に信雄は、父の信長から手紙で「親子の縁を切る」とまで言われた過去を持つ。一体何があったのか。
天正7(1579)年9月、信雄はおよそ1万の軍勢を率いて、隣国の伊賀に攻め込んだものの、伊賀の郷士たちに散々てこずらされた挙げ句、撤退を余儀なくされる。そればかりか、織田氏の家臣・柘植保重(つげ やすしげ)が命を落としてしまう。
このとき、信長は荒木村重が籠もる摂津・伊丹へ攻め込もうとしていたところだった。宿泊先から信長は信雄に「このたび伊賀の国境で負け戦をしたそうだが、誠に天の道理にそむく恐ろしいことで、天罰ともいえる」と手紙で叱責。こうまで言っている。
「三郎左衛門その他を討ち死にさせてしまったのは言語道断、けしからぬことである。親子の縁を切るようなことにもなると思うがよい」
ここまで激しく責められたのは、信雄がこの伊賀攻めを独断で決めていたからだ。自分で勝手に出兵し、仲間を失っておめおめと帰ってくれば、厳しく叱責されるのも当然だろう。
なぜ、信雄はそんな大胆な行動に出たのか。その理由にも信長は書簡で言及しており、「摂津への遠征を嫌がったがゆえだろう」と推測。隣国の伊賀と一戦交えたことにして、遠方への出兵を免れようとしたのではないかと疑っている。
もし、信長の読み通りならば、信雄は愚かな策を弄した結果、ことごとく裏目に出たといえよう。
その後、天正9(1581)年には信長自らが大軍を動員して伊賀へ侵攻。信雄もこれに加わり、伊賀は織田氏の支配下に組み込まれることになった。それでも「何かと頼りない」という印象を拭い切ることはできなかったようだ。織田家の家臣たちは、事あるごとに「三介殿(信雄のこと)のなさることだから……」とたびたび口にしたという。
今回の放送において、信雄は三法師の拉致計画を立てて失敗している。その危なっかしさは、史実上の失策を踏まえたキャラクター設定だといえよう。
しかし、史実において、やがて秀吉への警戒心をあらわにした信雄は徳川家康側につき、秀吉勢と家康勢は天正12(1584)年に「小牧・長久手の戦い」で激突。両陣営が和睦に至る前には、信雄が調整役として活躍したとされる。信雄はキーマンとして、注目すべき存在となりそうだ。
三法師を抱いて現れた秀吉、清須会議で見せた「恐るべき機転」
清須会議で話し合われた結果、三法師の名代は置かないことが決まり、三法師を当主としたうえで、政権運営は前述の織田家重臣の話し合いにより行われることになった。
ドラマでは、清洲城へと出向く際、秀吉と秀長が女性陣に「三法師様に着ていただけるような、立派な小袖を頼む」と依頼。秀吉と秀長の母である「なか」や姉の智、妹の朝日のほか、秀吉の妻・寧々と秀長の妻・慶(ちか)も加わり、5人の女性が奮闘する。
そして、清須会議後にいよいよ政権運営のかたちが決まるも、発表の場を迎えると、秀吉がなかなか現れない。なんでも「腹をこわした」という。
だが、しばらくして現れたのは、小袖を着て秀吉の腕に抱かれた三法師だった。秀吉には「4人で力を合わせる」などという気などさらさらなかった。自らこそ三法師を支える中心人物だと言わんばかりの登場は、まさに秀吉の思惑通りとなった。
ドラマでは、悔しそうな3人の顔が描写されたが、『川角太閤記』で似たような記述がみられる。
会議が一段落して他の重臣たちが退出していく中、秀吉だけが席を立たずに、その場に残った。そして奥の部屋にいる三法師を、乳母ともども自分のそばへ連れてこさせた。しばらくして、秀吉は幼い三法師を自らの腕に抱いた状態で、皆の前に姿を現したという。
織田家の後継者と定まった幼君をすぐさま、自分の腕の中に抱いてしまうという秀吉の行動について『川角太閤記』はこう評している。
〈筑前守殿御きてんこそおそろしけれ〉
(筑前守の機転の速さといったら、実に恐ろしいものだ)
ドラマでもそんな秀吉の抜け目のなさが十分に伝わる展開となった。ただ、これまでのいかにもお調子者といったキャラクターは鳴りを潜めて、亡き信長の遺志を自分が継ぐ、という確固たる覚悟が見えた。
これから天下を取るに当たって、ますます性格が変わっていきそうな秀吉。秀長はどう支えていくのか。見守りたい。
「織田家と武田家の血を継ぐ三法師」という説が生まれた背景
三谷幸喜脚本の映画『清須会議』では、そんな秀吉をも利用した人物として、三法師の母が黒幕として描かれている。映画の終盤では、思わぬ野心を隠し持っていたことを、自身の口でこんなふうに明かしている。
「私の父・武田信玄は私に申しました。くれぐれも武田の血を絶やしてはならぬと。そうすれば、武田の血を引く者がいつか必ず天下を治める時が来ると。そして、武田の血を引くこの子が今や織田家の当主。父上、私はお約束を果たしました。あなたの孫が天下人……」
実際の三法師は、父については信長の嫡男・信忠だと分かっているものの、生母については諸説ある。塩川長満の娘、森可成の娘、和田孫太夫の娘、進藤氏の娘など複数の候補が伝わっているようだ。通説では「徳寿院」という女性が母とされるものの、その素性自体が判然としていない。
なかには「武田信玄の娘・松姫こそが、三法師の母だ」とする説もある。織田と武田の同盟強化のため、信忠(当時11歳)と松姫(信玄の娘、当時7歳)が婚約していることから生まれた説だろう。
その場合には、三法師は父方に織田信長、母方に武田信玄という、当時の二大勢力の血を併せ持つ人物ということになる。
確かに面白い展開で、映画『清須会議』で採用したくなる気持ちもよく分かる。だが、元亀3(1572)年、信玄の西上作戦により、この婚約は破談に。二人は一度も対面することはなかった。
同居した事実も確認されておらず、また、年齢や時期を踏まえても二人の間に実子が生まれた可能性は低い。「松姫生母説」は少し無理がありそうだ。
『豊臣兄弟!』では、まだ三法師について、それほど多くの描写がなされているわけではない。これから織田家の若き当主がどう描かれるのかに着目したい。
市はなぜ柴田勝家と再婚したのか、秀吉との「恋」と史実の違い
織田家を支える体制が固まると同時に、この清須会議を機に、柴田勝家と信長の妹である市との婚姻が決まったとされている。
勝家自身が堀秀政に宛てた書状の中では、秀吉との「申し合わせ」に変更はなく、「縁辺の儀」も予定通りだという趣旨のことが記されている。つまり、織田家中の政治的均衡を保つため、秀吉と勝家双方にとっての妥協的な政略結婚だったと考えるのが自然だろう。
しかし、ドラマや映画では「秀吉が市に思いを寄せていた」という描写がなされやすい。その理由はいくつか考えられる。
まずは、低い身分から身を起こした秀吉と、名門・織田家の血を引く市という対比が、「身分違いの恋」というドラマとして映えやすいということだ。
次に、秀吉が後に市の娘・茶々(淀殿)を側室に迎えているということ。「秀吉は母と娘の両方に執着していた」という創作が生まれやすいようだ。
そして、政治的配慮で秀吉が勝家との縁組を取り計らったことが「秀吉は市を自分のものにできない代わりに、あえて勝家に譲る」というストーリーで、秀吉の葛藤が描かれやすいという背景も考えられる。
だが、今回の『豊臣兄弟!』では、そうした展開を選ばなかった。話し合いでは、重臣たちによる協力体制を敷くことに否定的な勝家を説得すべく、秀吉はこう熱弁している。
「柴田殿が案じられるお気持ちもよく分かりまする。わしには上様より授かった秀勝がおりまする。丹羽殿の奥方は上様のご親族。池田殿は上様と乳兄弟の仲じゃ」
確かに、秀吉は信長の子・於次丸(秀勝)を養子に迎えており、丹羽長秀は信長の養女(桂峯院)を正室にしている。そして、池田恒興の母(養徳院)が信長の乳母を務めていることを思えば、柴田勝家だけが織田家とのつながりを持たないことになる。
勝家の警戒心を解くべく、秀吉が提案したのが「市との婚姻」だった。ドラマでは秀吉がこう続けている。
「となれば、柴田殿にも織田家とより深いつながりを持っていただくほうがよいかもやしれぬ。柴田殿。お市様をめとられよ」
事前に市にもしっかり根回ししていた秀吉。市から「お主らが後見役となることを勝家に受け入れさせるために、私を利用するということじゃな」と提案の意図を見透かされても、秀吉は動じることなく「織田家のためにござりまする」ときっぱり。勝家との婚姻話を、市に受け入れさせている。
新解釈が何かと注目されがちな『豊臣兄弟!』。だが、従来のよくある設定に安易に乗らないこだわりも随所にみられるように思う。
次回の放送では、織田信孝が三法師をなんとか自身の影響下に置こうとして、秀吉と対立することに。信孝の背後には柴田勝家がおり、「賤ヶ岳の戦い」へと突入していく。
この「賤ヶ岳の戦い」において、勝利につながる働きを見せるのが秀長だ。その活躍ぶりも含めて、「勝家vs秀吉」がどう描かれるか楽しみだ。
【参考文献】
『多聞院日記索引』(杉山博編、角川書店)
『多聞院日記 三』(英俊著、辻善之助編、三教書院)
『信長と消えた家臣たち 失脚・粛清・謀反』(谷口克広著、中公新書)
『図説 豊臣秀長 秀吉政権を支えた天下の柱石』(河内将芳著、戎光祥出版)
『豊臣秀長』(シリーズ・織豊大名の研究14、柴裕之編著、戎光祥出版)
『豊臣秀長のすべて』(新人物往来社編、新人物往来社)
『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』(真山知幸著、日本能率協会マネジメントセンター)
筆者:真山 知幸
