『豊臣兄弟!』いよいよ天下統一へ、秀長が総大将として秀吉の出陣を押しとどめた「四国征伐」の舞台裏

清洲城の天守閣(写真:n.s.d/イメージマート)
2026年のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』は、豊臣秀吉の弟・豊臣秀長にスポットライトが当てられ、そのユニークな視点で話題を呼んでいる。天下人となる秀吉(演:池松壮亮)を、秀長(演:仲野太賀)は右腕としていかに支えたのだろうか。8月2日の放送はお休みで、次回の8月9日には「清須会議」がクローズアップされる。いよいよ秀吉が主導権を握り、弟の秀長とともに天下統一へと動き出す。立ちはだかる諸大名たちとの戦いにおいて、秀長はどんな役割を果たしたのか。『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』の著者・真山知幸氏が解説する。(JBpress編集部)
清須会議と賤ヶ岳の勝利、秀吉が天下取りへ踏み出した転機
天正10(1582)年6月27日、織田信長と嫡男の信忠亡きあとの織田家について、混乱の収拾を図るべく、清須会議(清洲会議)が行われた。
会議には、羽柴秀吉・柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興の4人が出席。おおむね秀吉の意向に沿って議論は行われた。秀吉が率いる軍勢が中心となり明智光秀討伐を成し遂げたことが、秀吉の発言力を強めたようだ。
会議では、信忠の子・三法師が織田家の家督を継ぐことを確認し、四宿老らが支える体制が定められた。亡き信長の遺領分割も行われ、秀吉は28万石の加増を受けて、領地を拡大した。
秀吉と対照的に勢いを失ったのが、重臣の柴田勝家である。勝家は従来の越前領を維持した上で、再配分によって得た領地は、秀吉の旧領であった近江長浜のみ。これまで勝家は信長の重臣筆頭だったが、光秀討伐に加われなかったことで、秀吉と完全に立場が逆転することになった。
天正11(1583)年に秀吉と勝家の両者が激突する「賤ヶ岳の戦い」が『豊臣兄弟!』でどう描かれるかは、見どころの一つだろう。この戦いで勝家に勝利した秀吉は、いよいよ弟の秀長とともに、全国制覇へと動き出す。
そんな2人の前に立ちはだかったのが、信長と清洲同盟を結んでいた徳川家康である。
小牧・長久手で甥の秀次が大敗、秀吉の怒りを鎮めた秀長
きっかけは、秀吉に対する織田信雄の反発だった。秀吉は摂津の池田恒興・元助父子を美濃に移すと、自身は大坂城の築城に着手。信長の安土城を上回る規模の城を築きだし、天下人として振る舞い始める。
われこそが信長の後継者と言わんばかりに、諸大名に書状を出す秀吉のことが、信雄は疎ましくなってきたようだ。秀吉に対抗するべく、信雄は家康に接近。天正12(1584)年3月6日、信雄は家臣のなかでも、秀吉と内通していると思われる岡田重孝(しげたか)、浅井長時(ながとき)、津川義冬(よしふゆ)の三家老を誅殺する。
それに呼応して、家康は3月7日に浜松城を発つと、13日には清洲城に入って信雄と合流。その2日後の15日には尾張の小牧山城に本陣を敷いた。
一方、信雄による三家老の誅殺を知った秀吉は、みずから大軍を率いて出陣した。両軍はにらみ合いながらも、伊勢方面では早くも3月9日に緒戦の火ぶたが切られており、態勢を整えた両者は、そのまま尾張・伊勢各地での衝突を重ねながら、本格的な戦いへと突入する。ここに「小牧・長久手の戦い」が幕を開けた。
秀長はこの戦いにおいて、約7000もの兵を率いて伊勢に入ると、伊勢松ヶ島城を落城させるなど、対信雄の主力を担うリーダーとして活躍している。
秀長らしい働きぶりは、戦場の外でも発揮された。長久手における局地戦で甥の秀次(のちの豊臣秀次)が家康方に大敗を喫すると、秀吉は激怒。厳しい処分が下されてもおかしくはなかったが、秀長が秀次をかばったことで、秀吉から大きな咎めを受けることはなかったという。
これまでの『豊臣兄弟!』では、信長の厳しい指令に、兄弟が力を合わせて立ち向かう場面が多かった。だが、これからは秀吉が掲げる方針の下で皆が一丸となる一方、思うような成果を上げられない家臣を秀長が支える──。そんな場面も描かれることになりそうだ。
秀長が初めて総大将となった四国征伐、秀吉の出陣を断った理由
「小牧・長久手の戦い」は序盤こそ家康ペースで進んだものの、情勢を見極めた秀吉は、相手の総大将は家康ではなく、信雄だということに着目。信雄方の城をターゲットに攻め始めると、一進一退の攻防戦が続く中で信雄と和議へとこぎつけている。
秀長は「賤ヶ岳の戦い」に「小牧・長久手の戦い」と立て続けに大きな戦に加わった上に、その後の紀州征伐にも参戦。そしてついに、重要な戦において秀長がこれまでにない大役を担うことになる。
秀吉は四国の長宗我部元親を討つべく、自らが乗り込んでいこうとしたが、病によって難しくなってしまった。秀長は天正13(1585)年5月27日、秀吉が病に伏せた坂本城へと見舞いに訪れている。
病床で秀吉は「ここは秀長にやらせるほかはない」と考えたらしい。秀長が初めて総大将となり、四国征伐へと乗り出すことになった。
秀長は約3万の兵を率いて堺を出発すると、6月16日に淡路に到着。そこで明石経由でやってきた甥の秀次軍約3万と合流している。
その後は大小の船を用いて淡路から阿波へと進軍。まず木津城の攻略に取りかかり、8日間の激闘の末に見事攻め落とした。そこから秀長は兵を三手に分けて、同時に攻める作戦を展開している。長宗我部軍は少ない戦力を分散して対応しなければならなくなり、大いに翻弄されたようだ。
破竹の勢いで阿波の諸城を攻略していき、見事な戦いを見せた秀長だったが、一宮城を落とすのに手間取ってしまう。戦況を受けて病から回復した秀吉が出陣しようとするも、秀長は「たとえ日数がかかっても、期待に背くようなことはない」という趣旨を書状で伝えて、断っている。
その後も、秀吉は再三出陣しようとするも、秀長はそれを押しとどめた。秀長には、総大将として作戦を完遂するだけでなく、長宗我部元親との交渉の余地を残す意図もあったのだろう。結果的に秀長は四国征伐を成し遂げることになる。
『豊臣兄弟!』では「小一郎、今から行くから待っとけ!」「兄者は来んでいい!」といった兄弟らしいコミカルなやりとりが描かれるかもしれず、応酬が今から楽しみである。
島津との開戦を最後まで回避しようとした秀長の巧みな交渉力
四国平定を無事に完了した秀長は、天正13(1585)年8月、秀吉より大和国を加増されることになる。
同年10月に秀吉は、交戦中である島津義久と大友宗麟に宛てて、停戦令を発給する。後に秀吉は「惣無事」(私的な争いを禁止して平和な状態にする)を成立させるべく、全国の大名に向けて私闘を禁じるが、このときの停戦令がその原型だと考えられている。
秀吉の働きかけを受けて、大友側はすぐに停戦を受け入れるも、島津側は拒否。「戦は大友に対する防戦である」と主張する島津側に、秀吉は「九州の領土はこのように分けろ」と国分案を提示するも、九州の制圧が見えていた島津側はこれを拒否している。
やりとりの際に島津側と大友側の間に入ったのが、秀長だった。書状を見るに秀長は大友側をバックアップしながらも、島津とも関係を構築し、できるだけ穏便に事を進めようとしていたようだ。豊臣政権内で潤滑油としての役割を果たした秀長が、諸大名間の交渉でも、巧みな調整力を発揮することとなる。
結局、島津から合意を得られず、「九州征伐」へと展開することになるが、現代の組織になぞらえるなら、交渉の余地を最後まで探り、解決が難しい場合にはトップの判断を仰ぐという姿勢は、補佐役に求められる役割の一つと言えるだろう。対外的な秀長の立ち居振る舞いは、現代のビジネスパーソンにとっても、大いに参考になるだろう。
この九州征伐において、秀長は軍事作戦の中核を担いながら、秀吉本隊との見事な連携を見せることになる。
島津も降伏させて、いよいよ天下統一の仕上げへと向かう、秀吉と秀長。ドラマで現在描かれている2人からは想像もできないような飛躍が、これからの放送で楽しめそうだ。
【参考文献】
『現代語訳 信長公記』(太田牛一著、中川太古訳、新人物文庫)
『信長と消えた家臣たち 失脚・粛清・謀反』(谷口克広著、中公新書)
『図説 豊臣秀長 秀吉政権を支えた天下の柱石』(河内将芳著、戎光祥出版)
『豊臣秀長』(シリーズ・織豊大名の研究14、柴裕之編著、戎光祥出版)
『豊臣秀長のすべて』(新人物往来社編、新人物往来社)
『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』(真山知幸著、日本能率協会マネジメントセンター)
筆者:真山 知幸
