「死にたくないんです。切ってください」麻酔なしで腕を切断した少女、瞼も唇も真っ黒に腫れあがり「この仇、討って下さい」と息絶えた少年…原爆投下直後に“広島の離島で起きていた知られざる被害の実情
広島への原爆投下直後、広島市南部の島「似島」は、数万人の被災者を収容する臨時野戦病院となった。「死にたくないんです」と懇願する少女の腕を麻酔なしで切断する軍医。「水をください」という悲痛な叫びに対し、「火傷に水は禁物」という噂から水を与えられず、目の前で命が消えていくのを見届けるしかなかった救護兵たち……。阿鼻叫喚の地獄と化した似島でどのような救護活動が行われていたのか。広島市立大学で教授を務める歴史家の永井均氏による『被爆者が眠る島 知られざる原爆体験』(岩波ブックレット)の一部を抜粋して紹介する。
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搬送される負傷者たち
午前10時頃より、宇品(編集部注:広島市南区に位置する海の玄関口)の浅橋で負傷者を乗せた数隻の機帆船が似島検疫所の第三桟橋に到着し始めた。逆に、家族を捜そうと広島市内に赴く島民もいた。宇品・似島間の輸送を担当した暁部隊所属の坂下直重(当時18歳)によれば、宇品の軍用桟橋に船を横着けにした途端に負傷者が船になだれ込み、中にはバランスを崩して海に沈んでいった人もいたという(*1)。
*1 坂下直重「永遠に帰ってこない人達へ慰めてやる言葉がない!!」大阪被団協「原子雲」編集委員会編『原子雲』大阪府原爆被害者団体協議会「原子雲」広報部、1982年、197頁
似島に運び込まれてきた被災者の姿は、負傷者の上陸を援助する病院船衛生班や検疫所(船舶防疫部)の職員たちに強い衝撃を与えた。というのも、そこには自分たちの想像をはるかに超える無残な人たちの姿があったからだ。被災者を迎えた時の光景について、船舶防疫部の錫村満陸軍見習士官は次のように描いている。
〈 瞼も唇も真っ黒に腫れあがり、鮮血のまじった涙と唾をたらし、腫れあがった頸部がただれるのか、どの人も空を仰ぎ、これも腫れあがった双腕と腋の下の皮膚がただれて剝離し、血まみれなボロ切れのように垂れさがっているので、多くの人は上腕部を両脇に張って、肘から下をだらりと垂らしていた。よろめいて倒れそうになり、傍の人にぶつかると誰かがその腕をかかえた。かかえた腕もかかえられた腕も、黒い皮膚がズルリと剝けて血を噴きだした。何人もの人が倒れ、駆け寄った衛生兵たちによって運ばれてきた。その中にはすでに息絶えた人も少なくなかった(*2)。〉
*2 錫村満『似島原爆日誌⒡⒢若き軍医の回想録』汐文社、1986年、21頁。
臨時野戦病院に続々収容「傷者500名」「更に患者700名」
いまや似島の島全体が異様な興奮に包まれていた。搬送されてきた被災者は重傷者が多く、手術が必要な切迫した状況であった。その頃、暁部隊司令部から似島に向けて手旗信号で病院船衛生班に命令が発せられた(電話線は不通となり、通信手段は途絶されていた)。「似島に救護所を開設して傷者500名を収容する準備せよ、患者は当方より送致する」。その後も、「更に患者700名を収容する準備せよ」、「最大限に患者収容の準備をせよ」との命令が矢継ぎ早に届いた(*3)。
*3 大坪一郎「『キユウゴ シヨ』オ〔ママ〕カイセツセヨ」前掲『われら病院船』178-179頁
こうして、検疫所附属病院は原爆被災者の救護を担う臨時野戦病院となり、病院船衛生班や船舶防疫部の将兵・軍属、島の対岸にある江田島の幸之浦(幸ノ浦とも記載)から6日の午後に急派された海上挺進戦隊、そして島民や逗留者たちが負傷者の救護活動に従事した。島外から応援部隊が駆けつける一方で、似島駐屯の船舶防疫部から爆心地に派遣され、現地で救護活動に従事する兵士もいた。例えば、船舶防疫部の森富軍医(森鷗外の孫)は、8月6日当日の午前中には市の中心部に向かい、比治山で救護作業に当たっている(*4)。
*4 森富「被爆体験について」『被爆体験記集(被爆地別五十音別) 広島被爆』第105巻、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館所蔵
福星丸と交通船2隻、野戦船舶本廠の女子100人を増派
6日の午後1時52分、暁部隊の佐伯司令官は野戦船舶本廠長に対して、患者を似島に輸送するために福星丸と交通船2隻を差し出すよう命じた。さらに夕方6時に、似島で救護の担い手が不足しているとの報に接すると、直ちに野戦船舶本廠の女子100人を現地に増派した。
前述のように、原爆被災者は宇品から軍の舟艇や漁船、あるいは筏に乗せられるなどして似島に搬送された。例えば、広島工業専門学校3年生の坪井直(当時20歳)は通学途中、富士見町(爆心地から南東に約1kmに位置する町)付近で被爆し、御幸橋(富士見町からさらに南に約1.5kmの位置にかかる橋)辺りでトラックに乗せられて宇品まで送られ、似島に移送された。彼は到着後すぐに人事不省に陥ったが、数日後に家族に発見され、自宅に戻ることができた(*5)。
*5 被爆者証言ビデオ、坪井直氏、1988年8月1日制作、広島平和記念資料館平和データベース、https://hpmm-db.jp/list/detail/?cate=testify&search_type=detail&data_id=13775 2025年7月5日アクセス
他方、朝鮮半島出身の辛泳洙(当時26歳)は幟町(編集部注:広島市中心部の町。爆心地から北東に約1kmに位置する)の電停で電車を待っていた時に被爆、顔面に大火傷を負って、宇品から似島に運ばれた。数日間、昏睡状態になった後、呉線沿線の陸軍病院の分院に移された(*6)。
*6 辛泳洙「臨時の陸軍病院で迎えた解放記念日」朴秀馥・辛泳洙・郭貴勲編『被爆韓国人』朝日新聞社、1975年、135-137、140-141頁。
大火傷を負い全裸に近い被災者たちで埋まった病院までの道
当初、負傷者たちは宇品から搬送されたが、満潮時になると舟艇が河川を遡行するなどして、宇品以外の方面からも運ばれてきた。
検疫所の桟橋から附属病院までは約150メートルあった。大火傷を負い、全裸に近く、年齢や性別の区別もつかない姿の被災者たちは、桟橋から病院まで歩かねばならなかった。その途上で息絶える人が続出し、病院までの道はほどなく足の踏み場もないほどの死者で埋まってしまった。
病床や衛生用品、医薬品が底を突き…
80床の病床数しかない附属病院に膨大な数の重傷者が搬送されたため、すぐに満床となった。8月6日の午後2時頃には、追加の収容が困難な状況に陥った。負傷者の一部――島西部の家下の桟橋に到着した人々――は、島民が「寺」と呼んだ似島説教場(説教所)に一時収容されたが、十分な治療ができないため、その後、峠を越えた検疫所まで搬送された。
検疫所の構内では、屋根のある場所は倉庫、廊下を問わず全て利用したものの、収容スペースが足りず、死者と死者の間に患者を横たえる有様であった。そのため馬匹検疫所まで利用しなければならず、春舎に唳(むしろ)を敷いて軍用毛布を重ねて病床とした。遺体が横たわる中で肉親を捜す家族の姿も見られた。膨大な数の患者のため、被服倉庫に備蓄していた5000人分の毛布やシーツはもとより、病院裏の防空壕に保管してあった5000人分の薬やガーゼや脱脂綿などの衛生用品も瞬く間に使い切ってしまった。薬不足のため、藁を焼いて灰にし、殺菌消毒薬(マーキュロクロム)に混ぜて火傷に塗り、あるいは海水を濾過した水とリンゲル液を調合して生理食塩水として利用した。
原爆直後に似島で起きたもう一つの悲劇
ところで、第二総軍の教育参謀で朝鮮皇族の李紲陸軍中佐(朝鮮王朝の末裔、当時32歳)は、馬に乗って総軍司令部に出勤途中、爆心地近くで被爆した。李公の出勤時に同伴していなかった御附武官の吉成弘陸軍中佐をはじめ、軍関係者は李公の身の上を案じ、炎が各所で上がる中を必死に捜索した。その結果、6日当日の午後に本川橋(編集部注:爆心地から500mほど西にかけられた橋。現在の平和記念公園そばに位置する)の西詰で倒れていたところを発見され、その日の夜半までに宇品経由で似島に搬送された。その後、李公は将校用の宿舎に収容されるも、翌7日の未明に容態が急変し、そのまま息を引き取った。御附武官の吉成中佐は責任を痛感し、李公の遺骸が(朝鮮の公邸への移送のため)似島を離れる8月8日当日の未明、官舎の外で自害した(*7)。
*7 井本〔熊男〕大佐の吉成〔まきの〕御奥様宛書簡、1945年8月16日付、松本龍織氏資料C1993-358、広島市公文書館所蔵
原爆直後、似島で起きたもう一つの悲劇である。
難航する救護活動
膨大な数の重症患者を前に、そして医療従事者が不足し、医薬品や衛生用品も欠乏する中、似島での救護活動は困難を極めた。手術や治療を主管したのは病院船衛生第53班(検疫所附属病院)である。ひどい火傷を負った患者に対して、垂れ下がった皮膚をハサミで切り取って消毒薬を塗るなどの応急措置が講じられた。火傷で皮膚が損傷し、傷口から細菌に感染して筋肉の組織が壊死するガス壊疽を罹患する患者も多く、西村軍医大尉と片平保軍医中尉は不眠不休で外傷治療や手術に追われた。「治療上止むなく切断した上肢或は下肢が手術室の窓外にうず高く積まれるまでに至った(*8)」。西村軍医の回想である。
*8 前掲、西村「あの時私は……」184頁
麻酔薬が底をついたため、麻酔なしで手術したケースもあった。「死にたくないんです。どうしてもお家へ帰りたいのです。切ってください」。麻酔なしでも手術を望む一人の女学生の声に、西村は逡巡の末、どうしても助けたいとの気持ちから、ガス壊疽が進行する彼女の左手の切断手術を決断した。「子どもと思うな。女の子と思うな」。西村は自分に言い聞かせるように部下に語りながら、少女の腕をバンドで止め、頭と足を押さえさせて切断刀を握って麻酔なしの手術を敢行した。8月9日のことであった(*9)。
*9 西村幸之助「寝ないで手術」『似島――廣島とヒロシマを考える』原水爆禁止似島少年少女のつどい実行委員会、1988年、11頁。西村幸之助「似島の記」『追悼記 増補』広島女子高等師範学校附属山中高等女学校、1993年、169-171頁。大東市原水爆禁止協議会編『似島を心に抱きつづけて――小原好隆さん遺稿集』非売品、2001年、53、160-162頁
他人の世話をしていた元気な人が突然…
治療室では全身に突き刺さったガラスの破片を取り除く処置もなされた。その一方で、外見は無傷で、他人の世話をしていた元気な人が、突然、全身に多数の血の斑点が出たかと思うと、口内出血し、あるいは吐血し、倒れてそのまま亡くなってしまうこともあった。多量の放射線を浴びたため、急性障害を引き起こしたものと推察される(*10)。
*10 市中心部でも同様の現象が見られた。例えば、爆心地から約800メートルの大手町で姉の山下博子(旧姓・吉田、当時18歳)と被爆した末弟の祐策(6歳)は、一見無傷で元気だったが、被爆の2週間後に突然、髪の毛が抜け落ち、高熱を出し、鼻から大量に出血して急逝した(山下博子『私の被爆体験――末弟・祐策のことなど』私家版、1998年)。放射線を浴びた影響が数年以上も経って現れる例もあった。最も有名なのは佐々木禎子であろう。禎子は2歳の時、兄の雅弘と楠木町(爆心地から約1.6キロメートル)で被爆し、その約10年後の1955年10月、亜急性リンパ性白血病により12歳の若さで死去した(佐々木雅弘『禎子の千羽鶴』学研パブリッシング、2013年
重傷者を間近で撮影することの残酷さ
以上のような悲惨極まりない似島の光景を現場で「記録」した人がいた。暁部隊の写真班員、尾糠政美(当時24歳)である。彼は8月7日の午後に似島に渡った。島内の救護所の活動状況を写真撮影することが任務であった。彼は焼けただれた負傷者、あるいは一カ所に集められた死体を次々に撮影した。重傷者を写す時、その人と視線が合い、何とも言えない気持ちになったという。軍命令とはいえ、彼は重傷者を間近で撮影することの残酷さを感じずにはいられなかった(*11)。
*11 広島原爆被災撮影者の会編『被爆の遺言――被災カメラマン写真集』私家版、1985年、57頁。被爆者証言ビデオ、尾糠政美氏、1992年8月1日制作、広島平和記念資料館平和データベース、https://hpmm-db.jp/list/detail/?cate=testify&search_type=detail&data_id=13987、2025年7月5日アクセス
「痛いよーお母さん痛いよー」「兵隊さんこの仇、討って下さい」
米軍による核攻撃は人類史上、前例のない大惨事を引き起こしたが、似島の状況はその縮図であった。附属病院内は阿鼻叫喚の様相を呈した。病室のあちこちで「軍医さん助けて!、衛生兵さん助けて!」、「痛いよー痛いよーお母さん痛いよー」といった悲痛な声が響き、ある少年は「兵隊さんこの仇、討って下さい」と救護兵に言い残して息絶えた(*12)。
*12 梅宮日出子「被爆患者を救護した悲録」『平和へのねがい』第8号、原水爆禁止西宮市協議会、1996年3月、16頁。丸山直治「被爆者の眠る島 似島被爆救援の七日間」『原爆と文学 2007年版』2007年3月、27頁。笠江春美「ヒロシマの願い 私の願い」前掲『追悼記 増補』174頁
犠牲者の多くの無念に接し、救護に従事する者たちは無力感にさいなまれた。彼らは被災者の情報を記録すべく努めたけれども、重傷者から名前等を聞き取ることはもとより、意思疎通を図ることさえ難しかった。患者の数が膨大なため、被災者に個別に食事を配布することができず、やむなく応急的に薄い粥食をバケツに入れて、竹製の食器と柄杓を数個ずつ各病室に置いた。しかし、重傷者などには、実際に食事をとることは難しかったであろう。火傷で苦しむ負傷者にとっては排泄も難事であった。身体が不自由なために、(羞恥心を抱きながらも)やむなく異性による介助を受けなければならないこともあった。救護の現場は被災者の体臭や火傷の臭いなどが入り混じり、猛烈な悪臭が漂って、看護者たちのマスクは黄ばみ、臭いがしみついた。
「兵隊さん、オナカノナカガ燃エテイマス。早ク水ヲクダサイ」
「兵隊さん、オナカノナカガ燃エテイマス。早ク水ヲクダサイ(*13)」
*13 山野道雄「被爆体験について」『被爆体験記集(被爆地別五十音別) 広島被爆』第111巻、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館所蔵
船舶兵の山野道雄(当時21歳)が、ある負傷者から訴えられた言葉だ。救護をする者にとって辛かったのは、患者から水を所望されても与えられず、そのうちその人たちが相次いで死亡したことである。水道のそばでは水を求めた多くの被災者が息絶え、その光景に救護者たちは衝撃を受けた。当時、重傷者に水を与えると死んでしまう、との噂が市民の間に広まっており、野戦病院の関係者も、捜しに来た肉親たちに会わせたいとの願いから、患者に水を与えないように努めた。病室には、水を与えることを禁じる掲示も貼り出された。こうした指示があったために、例えば検疫所獣医課の久保千恵(当時20歳)は「お姉ちゃん、水をちょうだい」と子供から懇願されても、水を差し出すことができず、そのことで彼女は後年まで「辛く悲しく、やり切れない気持ち」を抱え続けた(*14)。
*14 久保千恵「平和な島・似島が一転して地獄の島に」創価学会婦人平和委員会編『ヒロシマの心・母の祈り――平和への願いをこめて(4) 広島・被爆その後編』第三文明社、1982年、129頁
水を運んで患者たちに飲ませるも…
「軍命に背き与えし一杯の水を末期に被爆者は逝く(*15)」
*15 前掲、丸山「被爆者の眠る島 似島被爆救援の七日間」29頁。
船舶練習部第一棚教育隊の笠江春美(当時18歳)が詠んだ歌だ。教育隊の少年兵・丸山直治(当時17歳)によれば、当初「火傷〔を負った者〕に水は禁物」と水の提供が厳禁されていたが、3日目からあまり言われなくなった。同じ所属で台湾出身の周宜隆(当時20歳)も、兵舎の各所で水を求める患者の声を耳にし、戦友と相談して水道管から水を運んで患者たちに飲ませた。だが、翌朝には多くの患者が息絶えたという(*16)。
*16 平野伸人編・監修『台湾の被爆者たち』長崎新聞社、2012年、62頁
似島の野戦病院では「水をください、水をください」と、水を求める患者の声が合唱のようにそこかしこから聞こえた(*17)。
*17 「ヒロシマの証言 被爆者は語る」橋本ノブエ氏、1996年録音、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館所蔵。服部春一「似島救護を偲ぶ手帳」「船舶特幹第三期生の記録」編集委員会編『若潮三期の絆――船舶特幹第三期生の記録』陸軍船舶特別幹部候補生第三期生会、1995年、460頁
〈「遺体の手首をつかむと腐った肉がズルッと剥げて」火葬すら追いつかず、防空壕に数十人を“集団土葬”…この世の地獄を見た少年兵が明かした“過酷すぎる任務”とは〉へ続く
(永井 均/Webオリジナル(外部転載))
