本記事はRokt松田誠氏による寄稿です。
記事のポイントリーバイスやウールワースは、AIの活用によって業務効率化や自動化を推進し、人間がサプライヤーとの交渉などより深い戦略的業務に集中できる体制を構築しているケリングやLVMHなどのラグジュアリーブランドは、AIで業務の摩擦を排除し、人間同士の本物の関係性や温かみのあるつながりというプレミアムな価値を高めているAIと人間の役割分担に唯一の正解はなく、自社の業種や顧客層に合わせて最適な重心を模索し、運用を継続的に調整し続けるキャリブレーションの姿勢が不可欠である
2026年6月、シンガポール・マリーナベイサンズ。80カ国・1万1000名以上が参加した「NRF '26 Asia Pacific」が閉幕した。世界2500以上のリテールブランド、300の出展企業が一堂に会したこの場で繰り返し語られたキーワードは「多様性」「AI導入」、そして「人間とAIの境界線」の3つだった。本稿では、Roktが最終日に主催したラップアップセッションの内容をもとに、現地で語られた議論のエッセンスをお届けする。

◆ ◆ ◆

AIが何でもできる時代に、何を人間が担うべきか。各社の答えは一致していない。だからこそ、この問いは難しい。リーバイス(Levi's)のアジアパシフィック担当マーチャンダイズ計画VP、シェーン・ハンナ氏のセッションは、AIが実務をどう変えているかを具体的に語った点で印象的だった。世界120カ国以上で60億ドル以上の売上を持つリーバイスは、製品開発プロセスを直線から同時並行へと移行させた。デザイン・生産・在庫計画がそれぞれ順番に進んでいたプロセスが、AIによって並行して走るようになった。毎週月曜日の朝、世界中の小売業者が共通して経験することがある。週末の売上を追いかけ、何百本ものレポートが走り、重要な発見事項を把握しようとしている。かつてはプランナーが半日から1日かけてまとめ、報告していた。今はAIがはるかに速く答えを出す。そしてハンナが挙げた具体例が面白い。BLACKPINKのROSÉが約2カ月半前にリーバイスのルーズブーツカットジーンズを着用して登場したとき、その商品が爆発的に売れた。従来のプロセスなら影響の全容を把握するのに半日以上かかっていたが、AIがほぼ即座に「何が売れているか」だけでなく「その周辺商品にも何が起きているか」を示した。女性向け売上全体が増加するという連鎖反応まで捉えられるようになった。「新機能を生み出すスピードが、顧客側の導入や活用のスピードを上回るようになった」。これはオーストラリア小売業のウールワース(Woolworths)のグループ補充ディレクター、ジャスティン・ヘンダーソン氏の言葉だが、リーバイスにも同じことが言える。AIが処理速度を上げた先に、人間がやるべき仕事が変わるという現実がある。

AIによる業務高速化がもたらす人間の役割の変化

ヘンダーソン氏が言うように、AIの役割は「人を置き換えること」ではなく「人が深い仕事に集中できるよう解放すること」だ。かつて100〜300人がかりで行っていた補充の再計算を、AIがほぼ自動化することで、担当者はサプライヤーや輸送会社との戦略的な対話に集中できるようになった。しかしラグジュアリーの領域では、AIの役割についてまったく異なる哲学が語られた。グッチ(Gucci)やバレンシアガ(Balenciaga)、サンローラン(Saint Laurent)などを傘下に持つラグジュアリーグループ・ケリング(Kering)のペイメント担当プロジェクトマネージャー、ヴァンサン・ビボンヌ氏は、テクノロジー活用の目的をこう定義した。「ラグジュアリーにおける最良のテクノロジーとは、体験する人が気づかないものだ」。ケリングは2017年からアディエン(Adyen)とのパートナーシップのもとで決済インフラの統合を進め、8カ月で27カ国700店舗・3500以上の端末を標準化した。その目的は効率化ではなく、セールスアソシエイトが顧客との会話を中断しないためだ。iPhoneでのタップ決済が象徴するのは速さではなく「流動性・品位・セリングセレモニーの継続」テクノロジーが見えなくなることで、人間同士のインタラクションがより豊かになる。「エージェントが摩擦を取り除けば、その分だけ人間的な接触の時間が生まれる」。エージェンティックAIは「脱人間化」ではなく「より深い人間化」だというケリングの立場は、ラグジュアリーにおける関係性の本質を突いている。

ラグジュアリーブランドが重視する人間的なつながりの希少価値

LVMH セッション

LVMHノースアメリカ前会長兼CEOのアニッシュ・メルワニ氏は、さらに踏み込んだ視点を提示した。ルイ・ヴィトン、ディオール、セフォラなど75ブランドを抱えるLVMHで10年以上を過ごした彼が語ったのは、人間的なつながりそのものが希少価値になる時代への確信だ。コロナ禍に起きたある出来事が象徴的だった。ニューヨークのルイ・ヴィトンのセールスアソシエイトたちは、外出制限下でVIPクライアントに「お元気ですか?」とテキストを送り始めた。それが本物の関係から生まれた本物の気遣いだった。やがてEコマースのインフラを活用して、セールスアソシエイトが商品をデジタルで見せ、支払いリンクを送り、在庫と連動させる仕組みが生まれた。物理的な接触がゼロでも、人間同士の関係は続いた。「もしすべてのカスタマーサービスがAIになるなら、地球上に最後まで残る人間のカスタマーサービスはLVMHのものになる。なぜなら、人間的なつながりそのものがラグジュアリーになっていくからだ」。

中田浩二氏(資生堂 代表取締役社長)

資生堂の代表取締役社長・中田浩二氏のセッションも、人間の役割への強い確信を示した。創業150年を超える資生堂が誇る「美容部員」制度(現在世界3万人)は、「人」をデジタルに置き換えたのではなく、「人」がデジタルでも活躍できるようにした。2021年にローンチした「オンライン美容部員」は当初40名程度から始まり、今では230万人以上のフォロワーに高いエンゲージメントで情報を届けている。手話によるオンラインコンサルテーションも全国展開した。注目すべきは、このオンライン美容部員が全員、リアル店舗での勤務経験を持つ社員であることだ。だからこそ、デジタルでも資生堂のDNAが届けられる。AIや外部インフルエンサーでは代替できない何かがある。「私たちが決して忘れてはならないのは、テクノロジーが人々の生活をどう豊かにするか、ということだ」。

課題への明確な絞り込みで成果をあげる家具ブランドの視点

一方、シンガポールの家具ブランド・スキャンティーク(Scanteak)のCEO、ジェイミー・リム氏のセッションは、大企業とは異なる現実から生まれた判断として際立っていた。夜8時にカスタマーサービスの電話が鳴っても誰も取れない、祝日前日に対応できる人が見つからない。そうした切実な問題からAI導入が始まった。「絶対に病気にならず、24時間働いて、月250ドルで動くものを作れる」と言われたとき、それがAIだとは知らなかったと笑いながら語った。スキャンティークが実践したのは明確な絞り込みだ。AIをあらゆる領域に展開するのではなく、「最もコストがかかる問題」か「人間では解決不可能な問題」だけに使う。その結果、顧客クレームが50〜60%減少し、運用コストが5〜20%削減された。さらにリード対応にAIを活用したことで、販売員の疲弊感が解消され、売上が20〜30%向上した。AIが返信の速い販売員にリードを優先的に振り分けるようになり、頑張る社員が報われる循環が自然に生まれた。しかしリム氏が最後に語った言葉が、このセッションで最も印象に残るものだった。最近、両親が「見ているドラマは本物の人間か、AIか」について議論していたという。父は「絶対に本物だ」、母は「指の動きを見ると、AIだと思う」と言い合っていた。「すべてが人工的になる時代だからこそ、本物であること、人間的な温かさは今後プレミアムな価値を持つようになる。AIを探求しながらも、どこでお客様に対してより人間的に戻れるかを考えること。それが私のメッセージです」。

自社の顧客層に合わせて最適なバランスを模索し続ける重要性

では、AIと人間の役割をどう分けるか。各社が出した答えは一致していない。リーバイスのように積極活用する企業、ケリングのようにテクノロジーを見えなくする企業、LVMHのように人間を守る企業、スキャンティークのように絞り込む企業。フェアプレイスグループ(FairPrice Group)のCEO、ビプル・チャウラ氏が提示した言葉が、この問いへの誠実な答えだ。「キャリブレーション(継続的な調整)」。フェアプレイスでAIを大量に導入した結果、店舗スタッフが疲弊しカスタマーサービスの質が低下したという実例も共有された。AIが解決しようとした問題が、新たな問題を生んだ。どこに重心を置くかに唯一の正解はない。自社の業種・国民性・顧客層に合わせて、問い続け、調整し続けることが求められている。
松田 誠(まつだ・まこと)Rokt合同会社 日本マイクロソフトでOffice 365を始はじめとした各種ソフトウエア・サービスのビジネスをリード。ケルヒャーでコンシューマービジネスの責任者を担当した後、2019年にRokt合同会社に入社。ビジネスデベロップメントとして日本市場におけるRoktビジネスの立ち上げと拡大に従事している。
写真:Rokt提供