【『思考のストレッチ』書評】メルロ=ポンティに惹かれた哲学者・田村正資、その思考の魅力とは

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誰かが考えた「正解」もいいけど、自分だけの「?」を探す贅沢な遠回り。田村正資さんの『思考のストレッチ』の刊行を記念して、難波優輝さんによる書評「伸び縮みする術式と曖昧な式神」(『群像』2026年7月号掲載)を特別にお届けします。

田村正資の伸縮する思考

哲学者とその研究者の関係は、式神とその術師だ、と私は考えている。術師は、式神として哲学者を蘇らせ、その力=思考を使役する。だがもちろん、そこには盟約と贖いが必要である。術師たちは、相当な時間と忍耐を強いられる。ときに、式神に束縛される。

あまりにも磁力の強い哲学者=式神に近づくと、その式神に飲み込まれる。たとえば、しばしば、ヘーゲルを研究していくと、「ヘーゲル語」でしか喋れなくなる人がいる、というのを聞いたことがある。飲み込まれても偉大なる哲学者の力を使えるのならば、それはそれでいいことかもしれないけれど。

メルロ=ポンティはどうだろうか。この式神を使いこなす人はどんな人なのだろうか。

メルロ=ポンティについて私はほとんど何も知らない。彼との接点があるとすれば、田村に声を掛けてもらって、「メルロ=ポンティ・サークル」でドキドキしながら発表したことだ。その学会後の打ち上げで、私はメルロ=ポンティについてよりよく分かったと思った。

メルロ=ポンティ学会の打ち上げでは、みな和気藹々としていた。メルロ=ポンティのメの字も分からぬ私にも親しく話しかけてくれ、年長者とより若い者たちは楽しく話していた。そこで私は確信したのだ。メルロ=ポンティという人は、相当に良い人なのだろうと。

もちろん、クールでユーモアのある文体を持つ夏目漱石自身が相当な癇癪持ちだったように、書き手の生の生と作品とはある程度までは交差してずれていく。けれども少なくとも、メルロ=ポンティの文体は、風通しのよい身体を持っていたのだろうと思った。

田村とメルロ=ポンティの関係が気になる。田村は、メルロ=ポンティとどんな契約を結び、どんな力を譲り受けるのか。その具体的な姿の表面を『問いが世界をつくりだす』で、裏面を『思考のストレッチ』で読むことができる。

では、田村はどんな術師なのか。田村という術師は、伸縮性の術式を用いる。田村は、現象の謎に近づいていく。道具やモノではなく、他人が他人として立ち上がる瞬間、ロト6と賭け、ゲームと遊び、ちいかわと肉。こうしたトピックに対して、白黒つけることもできる。何らかの教訓をシャープに引き出すこともできる。

だが、田村は、曖昧さを担保し続ける。その曖昧さとは、広いポケットのようだと思う。田村の言葉は、よくのびる、手触りの良いストレッチ素材でできている。そのすべらかなポケットには、田村以外の思考が入る余地がある。田村が広げてくれた空間に、読み手である私たちも入ることができる。そのストレッチのきいた言葉は全然千切れない。何人だって入っていける。

おそらくは、メルロ=ポンティの思考の中にもまた、こうした伸縮素材が潜んでいる。だからこそ田村はそんなメルロ=ポンティを式神として呼び出すことになったのだ。

「曖昧さ」を宿す文体

文章を読むときは、その内容と同時に、語りのスタイルに着目することもできる。

この本の文章の内容については読むことで味わえると思うので、そのスタイルを味わう読み方を私は提案したい。田村は、どのような仕方で言葉をストレッチさせるのか。田村は、本人が感じた日常的な経験だけではなく、読み手である私たちが感じた、けれど忘れていた日常的な経験をどのように呼び出すのか。田村の経験と読者である私たちの経験をどう重ねるのか。その言葉の運動に私は妙味を見出す(この技法は『独自性のつくり方』でクリアにガイドされている。一読を勧める)。

読めば読むほど、読み手である私は、田村という書き手が遠く離れていくことに気づく。変な言い方かもしれない。田村の文章は伸縮して手触りがよく、人々を受け入れる。なのに離れていくとはどういうことか。

田村は、激しい経験でさえも、読者に直接、鋭くは届けない。大学二年生のときに同棲していたパートナーとの別れを描くシーンも、あくまで曖昧としている。別れを告げられた時、「起きたばかりでまだ頭がぼんやりとしていた僕が、いつもの朝のやり取りのように「うん」と返事をすると、彼女はそのまま家を出て講義へと向かった」。もちろん、その田村の経験自体が曖昧であったことが書かれているけれど、田村の書き方自体もスムースである。その匂いや温度はここには書き込まれていない。

それゆえ、読み手である私たちは、田村の思考に近づいていけるのだけれど、近づきすぎることはできない。その思考と一体となることはできない。その距離感の作り方が、私にはとても興味深い。

例えば、同じくメルロ=ポンティを式神としているであろう鷲田清一もまた、どこか似た曖昧さと距離の遠さをその文体から醸し出している。身体と肉というフレーズが響いているメルロ=ポンティの使い手たちが、いずれも曖昧さと距離感を持っているというのはどういうことだろうか。まだ私には分からない。とてもおもしろい。ストレッチ素材の向こうの皮膚にたどり着くことはない。

この曖昧さは、メルロ=ポンティを研究する人のあいだで、ある意味で継承された曖昧さでもあるかもしれない。同時にもちろん、その継承者、術師一人ひとりが非常にユニークな仕方でこの世を生きて、文章を書いている。田村の『思考のストレッチ』を読み、私はこの伸縮性と曖昧さと距離感を楽しみながら、どこか自分も真似してみて遊ぶことはできるだろうか、と文章のフォームを眺めつつ考えていた。

そういえば、以前田村と対談をしたとき、私は不思議な感覚になった。私が彼の主張に烈しいツッコミを入れようとするたびに、すべて受け止められたのだ。そのときはどんな術式が使われているのか分からなかったが、いまや明らかになった。私のツッコミのハリセンは、ストレッチ素材によって衝撃吸収されていたのだ。

その素材は、他方で、テンションを掛けられ張りつめるなら、ぐっとたわんでボヨンとボールを弾き返すトランポリンみたいにもなる。『思考のストレッチ』ではいろいろなボヨンが見られるから、そのありさまが楽しい。いろんな様子で跳ね返るさまを、さらに見たいと思った。

【もっと読む】「高校生クイズ王者の哲学者が実践!一度しかない人生を最高に楽しむための「思考のストレッチ」法」では、『思考のストレッチ』の「はじめに」をお読みいただけます。

高校生クイズ王者の哲学者が実践!一度しかない人生を最高に楽しむための「思考のストレッチ」法