「大きなトランクを開けたら軍票がギッシリですよ」 政財界のフィクサー「児玉誉士夫」が愛した「女性」が語っていた秘話【ロッキード事件から50年】
1984年1月17日、政財界の陰のフィクサーと呼ばれた児玉誉士夫が72歳で逝去した。公判中のロッキード裁判は中止に。それでも、事件の「闇」を知る人物の素顔に迫ろうと、週刊誌記者は奔走する。取材の結果、児玉が愛した女性の自宅へたどり着く。突然の来訪に女性は驚くべき告白を始めた。(前後編の後編)
【写真を見る】戦後史の「闇」を知る男「児玉誉士夫」の数奇な人生
「私は児玉と別れます」
昭和13年頃、Sさんは、銀座の喫茶店で働いていた。当時、銀座に2人しかいないといわれた“刈り上げヘアスタイル”女性として、新聞に載ったこともあったという。そして昭和15年、上海に開店する〈タイガー〉という大きなダンスホールがダンサー兼ホステスを募集していると聞き、上海にわたる。

「そのお店で、たくさんのお客の1人が児玉だったんです。カーキ色の国防服のようなものを着てました。仕事は“軍関係”というだけで、はっきりとはいいませんでした。30歳くらいだったと思います。私、正直いって器量好みなので、とても好きになれるタイプではありませんでした」
しかしとにかくSさんを気に入った児玉は、毎晩通ってきて「一緒になってくれ」と迫って来る。次第に情が移ってきて……。
「当時児玉は“婚約者がいる”といっていたから、お妾さんになってくれということだと思いました。そこで“私には病身の父と若い弟がいるけど、2人の面倒を見てくれますか”と条件を出すと、難なく“かまわない”というじゃありませんか。そのあとすぐ、私は児玉と2人で日本に帰ってきたのです」
児玉は、約束通りSさんの父と弟も一緒に引き取り、世田谷・松原に大きな屋敷を借りてくれた。
「お金は十分くれていました。ある時など、大きなトランクを一抱え持って帰りましてね。『数えるの手伝ってくれ』というから、何かと思ったら、中はギッシリ、軍票の山ですよ」
軍票(軍用手票)とは、軍隊の中でだけ現金代わりに通用する、一種の“模擬紙幣”である。
やがて太平洋戦争がはじまり、昭和18年、Sさんは、児玉の子(男子)を産む。しかし、そのころ、児玉はほとんど家に寄りつかなかった。実は海軍のために密かに物資を調達する〈児玉機関〉の仕事で奔走していたのだ。しかも終戦時には、戦犯として逮捕され、4年ほど巣鴨プリズンに収監されていた。
「子どもは戦後、4歳くらいまで育てましたが、相変わらず児玉は家に帰ってこない。私は手鍋を下げてでも、家族そろっての生活をしたかった。このままでは息子のためにもよくないと、児玉には内証で、柿の木坂にいらした本妻のKさんに会いに行ったんです。するとKさんは『Sさんて、松原の方? 児玉はいつも“世田谷のS閣下のお宅へ行く”と出ていきましたけど……』と驚いていました」
Sさんは、「このままでは息子が気の毒なので、奥様のもとで引き取って育ててくれませんか。私は児玉とは別れます」と頼みこんだ。
「すると奥様、喜んでくださいましてね。この本妻さん、お子さんがいらっしゃらなかったんですね」
息子との最後の別れは……
そして今度は、本妻Kさんが、Sさんの前で“告白”をはじめた――「実は、もう一人、このそばにいるんですよ。私がいくら防空壕を作ってくださいと頼んでも、ここには作ってくれない。それなのに、あちらには大きな防空壕ができている。そのうえ、あちらには子どもがすでにできていて、児玉は私のハンコを偽造してその子の籍を私のほうに入れているんです」
この本妻Kさんの話を聞いて、Sさんは心底から同情してしまったという。ところが結局、息子を本妻Kさんのもとへ連れていく前に、児玉の部下がやってきて何処へか、連れ去った。
「それが息子との最後の別れでした。その後、児玉の使いが来て、“今後、児玉とも息子とも一切かかわりはもたない”との念書を書かされました。それっきり、児玉とも息子とも、連絡はとっていません。児玉が亡くなったとのニュースを聞いても、“ああ、そんなに体が悪かったのか……”と感じるくらいですね。もちろん、お線香をあげになんか行けませんよ。ただ、息子を今日まで育ててくださったことは、本当に感謝しています」
A記者が話を聞き終えたのは、もう夜11時近かった。編集部へもどったのは深夜零時近く。取材班は意気消沈していた。
「現夫人は取材拒否。むかし付き合っていた赤坂芸者の、“児玉のアレはカラスの行水。いつどんな危険があるかわからないので、とにかく早く済ませるのが習慣なの”とのコメントが取れた程度で、あとはすべて、第三者の間接証言だけだったのです」
そこへSさんの貴重な3時間の“告白”が加わることになり、取材班は、ようやくホッと息をついた。A記者が自分の担当部分を書き上げたころは、朝の6時を過ぎていた。結局、4頁のうち、半分以上がSさんのコメントで埋まった、“ミニ・スクープ”記事になった。それが《「児玉誉士夫」が遺した「女」たちの「暗い勲章」》(1984年2月2日号)である。
ロッキード事件の発覚から今年で50年。その後、児玉誉士夫は1984年に没。「記憶にございません」の流行語を生んだ小佐野賢治(国際興業創業者)が1986年に没。そして田中元総理も1993年に没した。現在、事件の逮捕者は、全員が鬼籍に入っている。
※記事本文の引用は、主旨を変えない範囲内で一部文章を修正しています。
【前編は「〈ロッキード事件から50年〉秘密代理人にして超大物右翼『児玉誉士夫』を知る“愛人”が告白していた『別にたいした話もないけれど、それでもいい?』」】
森重良太(もりしげ・りょうた)
1958年生まれ。週刊新潮記者を皮切りに、新潮社で42年間、編集者をつとめ、現在はフリー。音楽ライター・富樫鉄火としても活躍中。
デイリー新潮編集部
