広がるアジアの網〜ボゴール 【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】

インドネシア・ボゴールにある、「インドネシア国立研究イノベーション庁」、通称「BRIN」の博物館にて。今からおよそ100年前(!)の1927年、「オランダ領東インド」時代に作られたというキクガシラコウモリの標本。
長かったベトナム調査を終え、最後の目的地はインドネシア。疲労を抱えながらも、新たな共同研究と出会いを求めて南へ向かう。
* * *
【さらばベトナム、そして最後の目的地へ】まる一日かけてサパからハノイまで戻ってきた私たち大旅団は、集めた大切な検体をNIHE(国立衛生疫学研究所)の実験室にある冷凍庫に収めた。
すべての片付けを終えると、トンさんやルンたちベトナムチームに別れを告げ、大旅団は解散した。
それから日本チームは、行きつけの「ビアホイ」に再び集まって、旅の無事と成功を祝した打ち上げを催した。出発前と同じビアホイで、やはり出発前と同じ「チュック・バック」というベトナム産のビールで乾杯を繰り返した。そして、疲労と酔いが体をめぐる中、きれいで清潔なシティホテルの、アイロンの効いたシーツの張られた気持ちの良いベッドをひさしぶりに堪能した。

宿泊したハノイのホテル。清潔!
しかし、そんな心地よいベッドでの安息も束の間。翌朝4時には起きて荷物をまとめ、Grabでノイバイ国際空港へ向かう。そして8:40発の飛行機で、最後の目的地であるインドネシアへ飛んだ。

ハノイ→ジャカルタ(移動時間4時間半、ジャカルタとハノイの間に時差はない)。しかし余談だが、ジャカルタの日の入りの時間は、2日前までいたベトナム北西部のラオカイ省よりも1時間近く早かった。これは緯度の違いのせい? と思って地図を見て初めて、インドネシア(ジャワ島)が南半球に位置していることに気づいた。
コウモリのサンプリングに集中していたせいもあるのか、クアラルンプール(183話)で悩まされていた「めまい」はいつの間にかすっかり消えていた。ただ、休みなく続いたダッカの混沌(184話)とラオカイ省での連夜のサンプリング(188話)で、抱える疲労は限界を迎えつつあった。
【エディ登場】ジャカルタのスカルノ・ハッタ国際空港。つい10日ほど前、クアラルンプールのタクシーで流れていたインドネシアのバンド「Nidji」の「Hapus Aku」という曲を、Apple Musicで見つけて流してみた。90年代のJ-ROCKのようなちょっと気だるいセンチメンタルな曲調が、この長い旅の終わりの旅情によく合った。
初上陸のインドネシア。ジャカルタの空港には、事前に連絡を取っていたインドネシア人研究者のエディが迎えに来てくれていた。

エディ。宮崎大学で博士号を取得し、現在はボゴールで研究者として働いている。好きな日本食はチキン南蛮。ムスリム(イスラム教徒)のエディは、宮崎に住んでいた頃、ハラル認証を受けたチキンを手に入れて、それをレストランに持ち込んでは、チキン南蛮を作ってもらっていたという。
エディは、宮崎大学で博士号を取得してからインドネシアに戻るまでの間に、G2P-Japanのコアメンバーでもある宮崎大学のSのところでポスドクをしていたことがある。今回はそのつながりからの紹介である。
今回の訪尼(インドネシアは漢字一文字で「尼」)の目的は、ダッカ(184話)と同じく、アジアのネットワークを広げ、新しい共同研究を立ち上げるための研究打ち合わせにあった。
目的地は、首都ジャカルタから南へ1時間ほど、ボゴールという街にある「インドネシア国立研究イノベーション庁」、通称「BRIN(ブリンと読む)」という研究機関である。
ジャカルタからボゴールに向かう車中、車窓には初めて映るものがたくさんあった。しかし、蓄積した疲れのせいで、運転席のエディに質問する言葉が出なかった。
BRINに着く前に、エディの行きつけという軽食屋で「ソト・アヤム」というスープを食べた。初めての味だったが、やさしくほっこりした、どこかホッとする味だった。しかし、インドネシア人のエディは、それに大量のチリ(唐辛子)を入れて食べていた。

(左)「ソト・アヤム(チキンのスープ)」と甘くて冷たい紅茶。どちらもおいしい。(右)後入れのチリ。ちょっと入れただけでもめっちゃ辛い。
BRINに着くとすぐに、エディと、「コウモリのプロ」という研究者と3人で打ち合わせをした。タイ、ベトナム、カンボジア、そしてバングラデシュでの経験から、この手の打ち合わせはもう慣れたものである。エディのサポートもあって、話し合いはうまく進んだ。
それから、「コウモリのプロ」という研究者に、BRINの博物館のような保管室を案内してもらった。そこは冷蔵室で、何万という動物の標本が保管されているという。
そこには、コウモリの標本もたくさんあった。そしてその中にはなんと、およそ100年前、「インドネシア共和国」がまだ「オランダ領東インド」の時代につくられた標本もあった。
【「スンダ(Sunda)」の晩餐】ちょうど別の打ち合わせのために訪尼していた、G2P-Japanのコアメンバーである宮崎大学のSと合流し、みんなで夕食に出かけることになった。

「スンダ料理」のレストランにて。私と宮崎大学のS。こうやって改めて見ると、疲れが顔に滲み出ている。
インドネシアは島嶼国。
エディいわく、彼の出身でもあるスマトラ島はマレー文化の影響が色濃く、インドネシアの文化は、ジャワ島の東と西で大きく違うらしい。ジャワ島の中でも、ジャカルタやボゴールのある西ジャワはその昔、「スンダ王国」として栄えていたという。
――ということで、この日の夜は「スンダ料理」。バナナの葉に載せたご飯や具材を、現地の風習に倣(なら)って、エディの真似をして右手で手づかみで食べた。

(上)「スンダ料理」の夕食。(左下)こんな感じで、ご飯と具材を混ぜてグッと固めて口に運ぶ。(右下)美味しいのでペロッと食べた。
これまでに私は、サウジアラビア(71話)やアラブ首長国連邦(UAE、102話)、アルジェリア(140話)にバングラデシュ(183話)など、イスラム教の色濃い国々を訪れてきた。
インドネシアは「イスラム国家」ではないが、多くの国民がムスリム(イスラム教徒)である。「アザーン(イスラム教の礼拝を告げる呪文のような音楽)」ももちろん聞こえる。であるからして、インドネシアもやはりアルコールを見つけるのは簡単ではなく、この「スンダ料理」のレストランのメニューにもアルコールは載っていなかった。
初めて訪れたインドネシア。初めて目にするその国の姿は、私の想像からかなりかけ離れていた。
まず、小さな交差点に信号はなく、人による手信号。それに加えて、ハノイやバンコクにも劣らない原付バイクの群れ。しかし、ベトナムやタイを走るスクーターよりも、どこか無秩序で乱暴な印象を受けた。
肌の色が濃い人が多く、動きもどこかアグレッシブで、その街並みの姿は、隣国のマレーシアよりもむしろ、南アジアのバングラデシュ・ダッカ(184話)を思い出させた。語弊を恐れずに、あるいは言葉を選ばずにあえて言えば、「野蛮」というのが、そのときの私の印象を率直に表す言葉だった。
実際に訪れるまで私は、「インドネシアとマレーシアは地理的に近いから、インドネシアの文化はきっと、マレーシアのそれと似たようなものだろう」という先入観を持っていた。しかし半日いただけで、いろいろな側面から、「おそらくそうではなさそうだ」ということに気づく。
やはり、現場に足を運ばなければわからないことはたくさんある。それを実感するインドネシア初日となった。
文・写真/佐藤 佳

