ロシアのスパイは「新しい貴族」か「弱点」か? プーチン大統領と情報機関の蜜月

秘密のベールに包まれたロシアのスパイ組織。かつてモスクワ特派員を2度務めた朝日新聞編集委員の駒木明義氏は、「スパイ組織なしにロシアを語ることはできない」と指摘する。近年相次ぐプーチン政権と対立する人物の不審死や国外での暗殺事件は、その不気味な暗躍を裏付けるものだ。ドイツ・ベルリンでの現地取材や、軍事情報機関に詳しいイギリスの研究者マーク・ガレオッティ氏へのインタビューを交え、駒木記者の解説を基に「スパイ大国ロシア」の実態と国家が抱える致命的な弱点に迫る。
「ロシアにおいてスパイ組織が果たす役割の重みは計り知れない」と駒木記者は言う。中でも「暗殺」は政権の意思を誇示する最も直接的かつ衝撃的な手段だ。ロシア側の関与が濃厚とされる近年の主な事件だけでも8つの事例が浮かび上がる。背景にあるのはプーチン大統領と厳しく対立した人物や、組織を裏切った者への凄惨な処罰だ。
2006年にチェチェン共和国(ロシア連邦の一部)での人権侵害を告発して射殺されたジャーナリストのアンナ・ポリトコフスカヤ氏、2015年にウクライナへの軍事介入を批判して銃殺された野党指導者のボリス・ネムツォフ氏の死はその一端に過ぎない。近年では、プーチン大統領への反乱後に不審な専用機墜落死を遂げた軍事会社ワグネル創設者のエフゲニー・プリゴジン氏や、ロシア北極圏の刑務所内で謎の死を遂げたアレクセイ・ナワリヌイ氏の事件が世界に衝撃を与えた。特にナワリヌイ氏の死について、欧州の共同捜査はヤドクガエルが持つ天然毒と同じ成分の神経毒を使った毒殺の可能性が極めて高く、実行可能なのはロシアのみと強く示唆している。
ベルリンを現地取材
国外を舞台にした非合法工作の生々しさを、駒木記者は2019年にドイツの首都ベルリンで白昼堂々と発生した暗殺事件の現地取材から説き起こす。市民が憩うのどかな公園で、チェチェン独立派の元司令官ハンゴシビリ氏が、自転車に乗ったロシア人工作員ワジム・クラシコフに追われ射殺された。事件を追った現地のジャーナリスト、シュテーバー氏によると、犯人は倒れた被害者に確実に絶命したことを確認するために3発目の銃弾を放ったという。クラシコフは偽名のパスポートを所持して「ただの観光客」を装い、裁判でも一貫して容疑を否認していたが、英国の調査機関「ベリングキャット」などの執念深い調査により、ロシア連邦保安局(FSB)の工作員であることが暴露された。ドイツの裁判所は「ロシア政府の指示による殺害」と断定して終身刑を言い渡した。のちに欧米との身柄交換で帰国したクラシコフを、モスクワの空港でプーチン氏自らが出迎えてハグを交わし、その忠誠を公然と称賛する異様な光景が世界に配信された。
なぜプーチン大統領は公の場で非合法な工作活動をこれほど賞賛するのか。駒木記者は、ロシアの軍事情報機関の事情に詳しいイギリスの研究者、マーク・ガレオッティ氏に取材を行い、その深層を分析している。ガレオッティ氏によると、旧ソ連のKGB出身であるプーチン氏は、情報機関に対して強い愛着と尊重を抱いており、工作員たちを「新しい貴族」と呼んで最も優秀な人々だと捉えているという。国家が外交特権のない過酷な環境で活動する「非合法工作員」の身柄回収に多大な努力を払うことは、スパイ活動への強い依存の裏返しであると同時に、工作員に「国は決して見捨てない」という強いメッセージを送り、組織の忠誠心を維持するための極めて有益な政治的手段なのだとガレオッティ氏は語る。
ロシアの情報機関は大きく3つに分類されると駒木記者は整理する。国内治安や防諜を担い、ベルリンの暗殺事件にも深く関与したとされる最大の中枢「FSB(連邦保安局)」。外国を舞台に情報収集や裏の工作を担う対外情報部門「SVR(海外情報局)」。両局はKGBの流れをくむ組織だ。そして、KGBとは別に旧ソ連軍時代から軍独自の情報機関として存続する「GRU(軍参謀本部情報総局)」である。
「お宅の回線は特殊なので、ADSLを繋ぐことはできません」
こうした不気味な情報機関の影は、現地で活動する外国人記者や外交官の日常にも、ごく当たり前に潜んでいる。駒木記者自身も、初めてモスクワ特派員として赴任した2006年に、その監視網の存在を肌で実感する奇妙な体験をしたという。当時、現地ではADSL方式によるインターネットの高速接続サービスが始まったばかりだった。「これはいいものができた」と喜んだ駒木記者は、さっそく自宅に回線を引くよう地元の電話会社に依頼した。ところが、電話会社から戻ってきたのは「お宅の回線は特殊なので、ADSLを繋ぐことはできません」という不可解な拒否回答だった。実は駒木記者が暮らしていたのは、ソ連時代から外国人が住むことを強制されていた、ロシア外務省の関連組織「ウポデカ」が管理するアパートだった。かつては外交官もジャーナリストも全員がこのアパートに隔離されるように住まわされており、彼らが使う電話回線は、外部から容易に傍受できるよう、はじめから盗聴用のシステムに直結していたのである。
ロシアのスパイ活動は機密情報の収集にとどまらず、「積極工作」、つまりは実際に現地で「情勢や物理的環境を変える」点に大きな特徴があると駒木記者は指摘する。ニューヨーク・タイムズが報じたところでは、ウクライナ侵攻後に欧米から追放された多数のロシア工作員が日本を新たな拠点とし、兵器に転用できる電子部品を第三国経由で密輸している実態が明らかになっている。しかし、駒木記者はこのように強力かつ秘密に包まれたスパイ機関の存在こそが、皮肉にも現在のロシアにとって最大の「弱点」を形成していると分析する。ウクライナ戦争の決断において、プーチン氏は完全に情報機関の「ウクライナはすぐに打倒でき、国民はロシアを歓迎する」という偏った報告を盲信し、外務省など他の専門家の批判を一切許さない独裁構造ゆえに致命的な判断ミスを犯したのだ。法の枠外で非合法な工作を行う組織が批判から守られ、その闇を誇る国となったことの危険性は、日本のスパイ対策や「スパイ防止法」の議論においても、民主主義の弾圧リスクという観点から忘れてはならない教訓を示している。
(朝日新聞/ABEMA)
