ダウン症の書家・金澤翔子の転身。母・泰子「自身の没後、どうすれば幸せに生きて行けるのかと考え続け。喫茶店を開店し、《町に託す》道へ」
2025年下半期(7月〜12月)に『婦人公論.jp』で大きな反響を得た記事から、今あらためて読み直したい1本をお届けします。(初公開日:2025年8月4日)********大河ドラマ『平清盛』の題字を担当するなど、金澤翔子さんは書の世界で活躍してきた。ダウン症の翔子さんに書道を手ほどきしたのは、母・泰子さん。二人三脚で活動を続けてきたが、泰子さんは自分の没後、娘が書家として生きていくのは難しいと考えている。終活を始めた母と娘は喫茶店を開くことに――(構成:田中有 撮影:藤澤靖子)
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<前編よりつづく>
腕を組み歌いながら散歩した
――翔子さんが14歳の時、父の裕さんが急逝。泰子さんは自身の没後、ひとりっ子で知的障害のあるわが子がどうすれば幸せに生きていけるのか、考え続けてきた。
泰子 翔子は商店街にあるマンションで8年以上、ひとり暮らしを続けました。ダウン症のある人が介助者もなくひとりで生活したのは、稀有な例だと思います。正直、私は3ヵ月で実家に戻ってくるだろうと……。
でも、町の皆さんに本当に助けていただいて。できないと思っていた買い物も、ゴミの出し方も、ご近所の方に教わりながら覚えていきました。翔子が自転車でご近所を探索しているのを、皆さんで見守ってくださった。
私が出かけると、あちこちで翔子のことを教えていただき、何も心配はなかったです。書家の仕事がある時は私と待ち合わせて、終われば自分の家に一目散で帰っていきました。
ただひとつだけ困ったことがありまして。翔子はひとり暮らしで好きなものを食べていたせいか、横綱みたいに太ってしまったんですよ。どうしようと思っていたら、コロナ禍になって書道のイベントがみんな中止になった。それで、毎日ふたりで散歩することにしたんです。
翔子 散歩ね。歌、うたいながら。(両手を組み合わせて)♪し〜らない、ま〜ちを、あるいてみ〜た〜い……
泰子 (歌声をバックに)厳しい散歩(笑)。私の左側に翔子がビタッとくっついて、毎日8000歩は歩きました。このあたり一帯は完全制覇しましたよ。ここが開店するまで毎日夕方、5年近く続けました。
翔子 ダイエット、10キロやせました。散歩、喫茶店やってるから、できない。
泰子 そうだね。翔子は方向音痴ではないし、このあたりのことは隅々までよく知っているから、自転車でどこでも行けます。この町に翔子を託していけば、私が亡き後も安心だけど、「町に託す」って具体的にはどうしたらいいか、いつも考えていたんです。
昔、商店街にあったレトロな喫茶店の皆さんがすごくいい方で、翔子も5年くらいずっと遊びに行ってはぺちゃくちゃおしゃべりしていました。この子のことだから、お店で「いらっしゃいませー」なんて始めちゃって。(笑)
翔子 いらっしゃいませ、おつかれさまでしたー。
泰子 帰る時はそう言ってるね。私、そのお店に翔子を託していこうって夢見ていたんですけどね。一昨年かな、そこが突然閉まっちゃったんです。
その頃はまだここは作品を展示するギャラリーだったのですが、そこから、じゃあ「自分たちで翔子の喫茶店を開こう」という夢が本格的に動き出しました。
翔子 (お客さんが入ってきて立ち上がり)……いらっしゃいませー!
泰子 ついに喫茶店を開店することになって、調理やフロアのスタッフを募集したら、いい方ばかりが集まりました。女性スタッフ5人全員がご近所さんで、翔子のことをよくわかってくれている。
古くからの地域のお知り合いの方や、お隣さんが、お客さんとして来てくれますし。さらにお知り合いの輪が広がって、日々、ご縁を感じます。翔子は私がいなくなったら身寄りがなくなるけれど、ああ、町に託すってこういうことだ、と思っているのです。
ダウン症ってどういう人のこと?
――書家として花開いた翔子さんが喫茶店で働くという《転身》は、80歳を過ぎた自身の身じまいと、娘の今後を熟慮した泰子さんの選択だった。
泰子 翔子さんは書道やめちゃうんですか、もったいない、って皆さん言ってくださいます。翔子は突然書家になって、以来、個展、それから何百何千の人の前で大きな筆で書く席上揮毫(きごう)をずっとやってきました。
日本中、それからイギリスやアメリカなど海外でも披露しましたし、国内では9日連続で出張イベントをやり遂げたこともあります。席上揮毫はこれまで、一度も欠席せずに1500回かな。
でも、壇上でのパフォーマンスは、文字を選ぶことから墨や筆の管理、書いた字を押さえる「墨取り」まで、私がつきっきりで動かなくては成立しません。80歳を過ぎてそれを続けることは難しいし、後継者もいない。
少なくとも、頼まれて書くことはもうやめました。いくつかの場所にはまだ行きますが、喫茶店と両方は難しいと思います。……あら、お帰り、翔子さん。
翔子 まかない、シチューだった。ナポリタンも好き。
泰子 ナポリタンもおいしいのよね。……以前はこの子が1000人以上の人の前で拍手喝采されて、傲慢になったら嫌だなと思ったりもしました。でも翔子にとっては、千何百人を相手にパフォーマンスするのも、ひとりのお客さまに「お待たせしました」ってランチを出すのも、まったく同じなんです。
一昨年、翔子のドキュメンタリー映画にご出演いただいた日本画家の千住博さんが、ここで作品をご覧になって「金澤さん、書くのを一回やめたらどう?」っておっしゃったんです。その言葉はわりと当たっていたように思います。
本人は書を、ものすごく喜んでというより、何よりも私や皆さんを喜ばせたいから書いていたんでしょうね。

「翔子にとっては、千何百人を相手にパフォーマンスするのも、ひとりのお客さまに<お待たせしました>ってランチを出すのも、まったく同じなんです。」(泰子さん)
翔子 心をこめて。みんなに笑顔になってほしい。
泰子 皆さんに元気と、何をあげたいの?
翔子 笑顔と、ハッピーと感動。
泰子 以前は翔子の父親が遺してくれた、かなり広い一軒家に住んでいました。でもずっとこの商店街で暮らしたいと思っていたところ、いい場所が見つかって、80歳になる直前に引っ越したのです。
私の住まいは、介護生活のことを考えてエレベーターで部屋の前まで行ける、バリアフリーのワンルーム。持ち物の9割は、思い切ってとにかく捨てました。翔子のマンションにあったものもだいぶ捨てましたね。
翔子 すぐ終わったね。
泰子 引っ越しね。翔子は模様替えが好きで、家具を自分で動かして、もうここに引っ越して10回はやっていますね。この間お部屋に行ってびっくりしたの。ベッドが部屋の真ん中。
翔子 白いのが好き。
泰子 ね、白いカバーかけて、ホテルみたいで素敵だよね、翔子ちゃんの部屋。一般的にベッドは壁際、机は北側、と考えますけどね。これが翔子の感性なんだと思います。
イベントに、ダウン症のお子さんが来てくださると、翔子は「わたしとおんなじだから」と言い、すぐ見つけるのですが、どこまで理解していたのか……。数年前に私、思い切って聞いてみたんですよ。「ダウン症ってどういう人のことだと思う?」って。
取材の場では翔子の前でも何回も口に出していたんですけど、実際に自分のことをどう考えているのだろうと。そうしたら、少し考えてから「書道のうまい人のことかな」って。(笑)
翔子 (顔見知りのお客さんに手を振って)どうぞー。
泰子 障害、ということばも知らないですから。翔子とくっついて散歩しながら、「翔子ちゃん、お母さんもいつか星になっちゃうよね。いなくなっちゃうけど、どうする?」って聞いたんです。翔子の父親が心臓の発作で亡くなってからずっと「お父さまはお星さまになった」って言い聞かせているので、私もそうなるのよ、って。
そうしたら翔子が黙って歩いていて、突然「……お母さま、散歩、どうするの」。散歩なのかーって思いましたよ(笑)。今、目の前のことが大事なの。これが翔子なんですよね。
もう私ができる、机上の作業は全部完了、終活も終わりました。できればお店は続けられる限り、続けてほしい。そして翔子にはずっとこのままでいてほしい。私の願いは、それだけです。
