「自炊できない」のは果たして真に「恥ずかしいこと」なのか…「自炊せよ」というプレッシャーの不思議さ
とくにコロナ禍以降、「自炊」について語られることが増えた。YouTubeやXなどのSNSではバズったレシピが頻繁に登場し、手軽でラクな料理の仕方を私たちに教えてくれる。しかし、一方でその簡単さが強調されればされるほど、「どうしても自炊ができない」ことに対するプレッシャーは強まっていく。美学者の難波優輝さんは「自炊できないことは恥ではない」、さらに「そもそも自炊しなくてもいい」と主張する。それはなぜなのか。
自炊と恥
自炊には恥がまとわりついている。自炊をしない人には、「ちゃんとしていない」というプレッシャーがかけられる。むろん、女性ならば「女性なのに料理しないのか」と差別的な判断がくだされがちであり、男性なら何も言われないことが多い、あまつさえ「料理上手な彼女ができるといいね」という言葉さえかけられる(自分でやればいいのに)。だが、自炊をしないことは「ちゃんとしていない」ことになるのだろうか。
自炊をしないには自炊をしないなりの理由が様々にある。たとえば、日本の賃貸住宅の問題(一口コンロではパスタを作るのも一苦労だ!)、家に帰ってくるのが遅くなりがちな労働環境(21時に帰ってきても、開いているスーパーがない!)、子どもたちの世話(何を作っても食べなくてたいへん!)、そもそも料理が得意かどうか(どうしてもうまく手順が飲み込めない!)、などなど、自炊に取り掛かるには無数の困難がある。いまリストアップした難しさから分かるように、自炊をするぞ、と思った個人がどうこうできる障害は考えられているほど多くはない。
お門違いな励まし
個人ではどうこうできないにもかかわらず、世の料理書は様々なやり口で、個人に「自炊せよ」と努力を求める。いや、彼らは励ましているだけなのだろう。たとえば、映画学者である三浦哲哉による『自炊者になるための26週』において、三浦はこれは「自炊の入門書です」(三浦 2024, 2)と言う。なるほど、タイトル通り、自炊ができるようになるとうれしいな、と思った人が手に取ると何が書いてあるのか。読み進めていくと、目利きをしないこと、という項目があり、「店主がいいものを選んでくれるお店を知っていれば、そもそも目利きをする必要はありません」(75)と言って、八百屋、魚屋、肉屋に行くことを勧める。
うーん、そうは言っても周りにもはや八百屋や魚屋や肉屋はなく、特に夜遅く帰ってくる人にとっては、おそらく、イオンやまいばすけっとや100円ローソンがギリギリ開いているくらいなのだが……と思いながら頁をめくる。そして、いい店主がいなければ「引っ越しを考えてもいいと思います」(77)と。ここで少なくない人はひっくり返るだろう。自炊者とは料理の求道者のことなのだろうか、と。ほんとうに自炊が初めての人がこれを読んでやる気を削がれないかが私は心配である。三浦はともかくも「風味」を大事にすることで自炊が好きになると言う。「風味」を追い求めることで、面倒を上回って、自炊ができるようになる、と。ほんとうだろうか。
三浦の本に打ちひしがれた人は別の本に救いを求める。自炊料理家®である山口祐加『自分のために料理を作る 自炊からはじまる「ケア」の話』では、自分のために料理ができないことを悩む人々に対して、山口、そして精神科医の星野概念によるカウンセリングを行う。その対話を通して、自分のために料理ができるようになっていく。それが「セルフケア」である、と山口は言う。「自炊ができるということは、自分の体調の移り変わりや生活の変化に合わせて、自分をいたわり養っていけるということです」(山口 2023, 13)。なるほど、たしかに自分の世話を自分でできるのはいろいろと便利だろう。
しかし、自分のために料理ができないことはそれほど悪いことなのだろうか。私はそうは思わない。人間というものは、基本的には自分のために何かをやれるようにはできていないように思うからだ。もし私たちが一人で生きていける生き物だとしたら、一人で誰ともかかわらずに、私たちは生きてこれたはずだ。しかし、ケアというものは、そもそも、自分ではない何かに呼びかけられて、ついしてしまうものだろう。自分自身に対してケアをする、というのは自炊に限らず実のところ不可能に近いのではないか。
セルフケアもうまくいかない人は、最後に伝統やより大いなる自然とのつながりに可能性を見出すかもしれない。料理家、土井善晴の『一汁一菜でよいという提案』でも著者は先程の二人と同じように「この本は、お料理を作るのがたいへんと感じている人に読んでほしいのです」(土井 2021, 14)と言う。土井の提案する一汁一菜とは、次のようなものだ。「一汁一菜とは、ただの「和食献立のすすめ」ではありません。一汁一菜という「システム」であり、「思想」であり、「美学」であり、日本人としての「生き方」だと思います」(16)。料理という行為から様々な障害を切り離そうとしている。
おいしくつくることを目指さなくていい、いい塩梅でよい、こだわりすぎないでよい。これは多くの人々に安堵をもたらすものかもしれない。そうか、自炊のハードルは低いのだと、読み手は安心するかもしれない。さらに、土井はハードルを下げるだけではなく、むしろ、その素朴な自炊のあり方が自然、伝統、そして家庭における温かなつながりを回復することにもなるのだという。毎日、日本の伝統に棹さす一汁一菜を食べることで、様々なものを労り、調和を取り戻すことができる。
自炊できなければしなくていい
彼らは「自炊に難しさを抱える人を自炊できるようにしてあげよう」という思いから発信している。しかし、それは裏目に出る。どういうことか。なぜなら、あることを意識すれば自炊ができるようになる、と彼らは約束するが、その約束は呪いになるからだ。「風味」を味わえば自炊ができるようになる。だとしたら、自炊できないことは「風味」を楽しめない野暮な人だということになってしまいかねない。同じように自炊できないということは「セルフケア」のできない正しくない人であり、「自然な」身体の働きに感性を働かせられていない人になってしまう。「風味」「セルフケア」「一汁一菜」いずれにせよ、自炊をしなければというプレッシャーに立ち向かうための一時的な覚醒剤になるかもしれないが、持続的ではなく、よりプレッシャーの強度を高めることになる。問題を解決しようとして、事態はどんどんと悪化していく。彼らは決して悪意からこういうことを言っているわけではないだろう。彼らの語りからは、料理がふつうにできる私が、料理がふつうにできないあなたがたを励ましてあげたい、という善意を感じる。けれども、善意はいつも素敵な結果をもたらすとは限らない。
彼らのアプローチは根本的に間違っている。自炊へのプレッシャーに対処するためのもっともよい提案、それは「自炊をしなくてもよい」という提案である。風味を味わうことでもなく、セルフケアを実施することでもなく、一汁一菜でよいとすることでもない。自炊しないことである。これがおかしいと思うなら、そのおかしいという感性がどこから由来するのかを私たちは問いただしてみるべきだ。まずもって、自炊とはただの料理行為でしかない。やらなくても人生は十分豊かである。喩えて言うなら、楽器演奏と同じである。楽器演奏は確かに素晴らしい経験だ。人生を豊かにする。だが、やりたい人だけがやればいい。それだけの話である。料理はとても素晴らしい経験だ。料理でしかできない経験、料理がつないでくれる縁、料理がもたらす癒やし、いろいろある。だが、それだけだ。
人々が自炊に負わせる価値のほとんどは、自炊ではなくても可能だ。創造的行為がしたければ楽器を習えばいいし、セルフケアをしたければお酒をやめて運動したほうがよいし、暮らしのリズムを整えたければもっとよく寝たほうがいい。自炊を外在的な目的のためにすべきだというすべての言葉を黙らせよう。たまたま私たち人類にとって食が重要だから、自炊がさも重要なものに見せかけられているに過ぎない。服も大事だけれど「自服」する人はあまりいないし、住居は大事なのに「自建」する人もほぼいない。結局、自炊はたまたま材料が手に入りやすく専門知識がそれほど必要ではなく、食という毎日のことで、経済的に家計に優しそうだから重要そうな顔をしているだけである。お腹が減ったらコンビニでもなんでも食べればよい。自炊は楽器演奏や演劇や模型作りと同じレベルの趣味活動の一つでしかない。だから、自炊はやりたい人だけがやればいい。人生は豊かで複雑で可能性と選択肢に満ちている。料理は幸せになるための趣味の一つでしかないのだ。
料理はしたい人だけがしたらよろしい。にもかかわらず、自炊が好きな人はなぜ自炊を勧めるのだろうか。それはきつい言い方になるが、彼らが自分の手で誰かを救いたいというお門違いな妄執を抱いているからである。個人が個人を救うことなどできない。個人を救えるのは制度であり仕組みである。だから、自炊に悩む現代人を救うのは、料理が得意でふつうにできてしまう人が自炊をするための理由をあれこれ手を変え品を変え提示することではない。自炊に悩む人に向けて「自炊ってこんなに素晴らしいよ」と語っても「そんなに素晴らしいものをできない自分たちは惨めだ」と思わせるだけだろうから。
たとえばアメリカで低所得者の人々などを対象に実施されている補助的栄養支援プログラム(SNAP)のように、社会全体で食料政策を考え、栄養状態や食の喜びを公正に分配することのほうがずいぶんとましだろう。こんな解決策はつまらないだろうか? だが、世界をよくするというのはたいていつまらないものだと私は思う。そこに英雄やジャンヌ・ダルクはいらない。私たちの地道な知恵の組み合わせと制度や社会全体での持続可能なサポートが人々を救えるのだ(Bowen et al. 2019; Sugar 2019)。
自炊をめぐる問題を社会化せよ
以上の話から、自炊などという実践はたいしたものではなく、なくなっても差し支えない文化である、という主張を読み取ることもできるかもしれない。私は料理という行為を愛している。だから、自炊という文化それ自体が消え去ることを私は望んでいない。しかし、自炊がそもそも難しい状態にある人々にもっと自炊せよ、と命じることでは、自炊文化はどんどんとやせ細っていくだろう。だとすればどうすべきか。私が提案したいのは、自炊をめぐる問題を個人化するのではなく、社会化することで、自炊の課題に向き合うことだ。
たとえば東京で一人暮らしをする人を考えよう。この人は別のところから進学や就職で東京にやってきた。そのワンルームにはキッチンが付いているが、一口コンロのIHで火力も弱い。シンクも小さく浅いため鍋を洗うのも一苦労。おまけに乾かす場所も狭い。仕事終わりに閉まる直前のスーパーに行っても二人分以上の材料しかなく、何日も同じものを食べるのは苦痛である。さて、この人に先ほど挙げた料理本の筆者たちはかける言葉を持つのだろうか。私は持たないと思う。なぜなら、彼らのアプローチは問題の個人化アプローチの罠にハマっており、それは個人をさらに自炊の圧力で苛むだけだからだ。
社会化アプローチとは、自炊をめぐる課題を社会問題化することである。すなわち、誰しもにとって少なからず重要で、社会全体でサポートしたり問題解決に取り組むにふさわしい問題である、と広く人々に説得的な理由を示す、ということである。そこで私は「料理する権利」という権利を主張したい。私たちにはみなすべて、料理する権利がある。料理する権利とは、自分たちで材料を選んだり、自分たちに合う食事を作ったり、自分たちの好きなものを食べたりする権利であり、それらを労働環境や社会制度によって侵されない権利である。それは、たとえば家にトイレがあること、服を着られること、プライバシーの確保された住居で生活できることなどと並ぶ、基本的な人権と結びつく権利だと私は考えている。
料理的実践の価値
私たちには料理をする権利がある、と主張するだけの価値が料理行為にはある。その理由をリストアップすることはそれほど難しいものではない。権利が利益を保護するものだとすれば、栄養状態をよくし、文化的な価値を有し、自律的な生活を営む利益もあるだろうし、個人の自律性を反映するものだとすれば、個人の幸福にとって不可欠な選択を行う能力を尊重することでもあるし、より道具的な価値があるとすれば公衆衛生の改善につながり、食事に関連する疾患に関連する医療費を削減する、といった言い方もできるだろう(cf. Wenar 2023)。こうしたイシュー化できる理由を作ることは大事だ。
しかし、おそらく美学者である私のメインの仕事ではない(頼まれれば作るかもしれないが)。私はむしろ、特段社会にかかわらない価値の方が気になっている。特段、権利の源泉として、政治家や国民を納得させられるとは思わない価値の方が気になっている。とはいえ結局こうした価値の方が人々を心から動かし、権利の理由を裏から支えているのではないか、とも思っている。
それは何か。私は、料理行為には、世界理解の営みとしての独特な価値がある、と考えている。料理は世界を独特の仕方で理解できるからおもしろく、価値があるのだと主張する。(1)素材、(2)化学変化、(3)調理スキル、(4)料理、(5)食べる人、これらへの理解が深まることが私に喜びを与えてくれる。ピーマンやにんじんがどのような硬さや特性や味を持った素材なのか、それらにどのように火が入り、調味料が染み込んでいくのか、それらにどのような調理を行えるのか、最終的にどのような料理が生まれ、食べてくれる人はどんな好みがあるのか。自分で料理をつくるおもしろさとは、これら複数の要素をより深く理解することそれ自体のおもしろさに由来していると私は考える。
もし世界から自分で料理をする文化が失われたら、それは世界を理解する一つの方法が失われるということを意味する。それは私にとって残念であるし、人類にとっても残念なことだと思う。なぜなら、人類というものはおそらくその本性上、何かを深く知ることそのものを味わえる生き物なのだから。その生き物にとって、世界を味わう料理というアプローチの損失は手酷いものになるだろう。それゆえ、私は、料理行為という世界理解の方法を基本的な価値の一つとして主張したいと思うのだ。私たちは、料理行為を通して世界をみじん切りにしたり、世界を蒸したり、世界をカラッと揚げたりしている。世界を料理することでしか理解できない世界のありようを、私はこよなく愛している。私たちが料理を通じて自分らしさを表現したり、他人と語らったり、世界と交渉したりすることの価値がこれからも人々の生を豊かにしてほしいと思う。
人々の多様な幸福を実現するために
現在、料理する権利はいたるところで奪われている。ワンルームについているおもちゃのようなキッチンは、人々の料理する権利を奪っている。役立たずのキッチンは、トイレのないアパートと同じくらい人間の住むところではない。これは過激と思われるかもしれないが、もし自炊することの価値を私たちがほんとうに認めるならば、建築にまつわる法の中に「料理基準」が設けられ、料理ができる適切な器具とスペースを備えることが義務付けられてもよいはずだ。そして、スーパーに関しても、一人暮らしの人々が料理できるようなサイズと量の具材を販売すべきである。そして何より、現在の長い通勤時間を平然と強いるような労働環境に対して批判を行うべきであり、たとえば仕事終わりや休憩中にさっと買い物に行けるフルリモートが義務付けられてもいいくらいだと私は考えている。
そして、社会に対して、もっと生活を改善せよ、と声を挙げていくべきである。これらの要求はあまりに過大で強欲だろうか。私はそうは思わない。個人に「風味」を感じよと命じたり、「セルフケア」を奨励したり、「伝統」とのつながりを夢見させたりするほうがよっぽど傲慢で苛烈である。私たちは、生活がつねに社会的なものであることに気づくべきだ。様々な人々によって個人化されてしまう自炊の問題、それを引き受けなくていいのだ。私たちは、自炊できないことに焦りや恥を感じなくてもよい。むしろ、感じないことから、自炊をめぐる問題を社会化し、真に社会問題として解決していけるようになる。
〈参考文献〉
Bowen, Sarah, Joslyn Brenton, and Sinikka Elliott.2019. Pressure cooker: Why home cooking won't solve our problems and what we can do about it. Oxford University Press.
Sugar, Rachel. 2019. How did home cooking become a moral issue? https://www.vox.com/the-goods/2019/3/5/18250471/home-cooking-moral-pressure-cooker.
Wenar, Leif. 2023. "Rights", The Stanford Encyclopedia of Philosophy. The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Spring 2023 Edition), Edward N. Zalta & Uri Nodelman (eds.), URL = https://plato.stanford.edu/archives/spr2023/entries/rights/.
土井善晴.2021.『一汁一菜でよいという提案』新潮社.
三浦哲哉.2024.『自炊者になるための26週』朝日出版社.
山口祐加.2023.『自分のために料理を作る 自炊からはじまる「ケア」の話』晶文社.