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ポイント経済圏を巡る20年にわたる覇権争いの全史を描いている『ポイント経済圏20年戦争』。同書の中では、人脈をチャンスにつなげる方法や、顧客に「刺さる」提案力といった、ビジネスパーソンにとって大いに役立つスキルや仕事術が随所に出てくる。153社、188人が実名で登場する同書の具体的なエピソードは、ビジネスシーンでの実践的な内容として参考になるだろう。同書から一部抜粋し、まずは人脈を活かしてチャンスにつなげた手法について紹介する。(ダイヤモンド編集部)

※この記事は『ポイント経済圏20年戦争』(名古屋和希・ダイヤモンド社)から一部を抜粋・再編集したものです。

キーパーソンに「口利き」を依頼
新日石トップに直接アプローチ

2002年、ビデオレンタルチェーンのTSUTAYAを展開するカルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)副社長の笠原和彦は、日本初の共通ポイント構想を進めていた。プロジェクトにとって、待ち受けていた関門が、加盟店の開拓だった。

 共通ポイントの最大の肝は「どの店で使えるか」である。全国に広い店舗網を持つ大手企業を取り込めなければ、競争力はないに等しい。笠原が狙いを定めた新日本石油(現ENEOSホールディングス)は石油元売り最大手で、全国に巨大な店舗網を持つ。同社に参画してもらえれば、プロジェクトに弾みがつく。問題はどうやって交渉を持ち掛けるかだった。

 プロジェクトの機関決定から間もなく、笠原は一人の人物に会うために鹿児島へ飛んだ。その人物とは九州屈指の規模を誇る卸売業、Misumiの社長を務める三角皓三郎である。

 笠原が三角の元を訪れたのは、三角が持つ強力なパイプが目当てだった。Misumiは、三角の祖父である三角巳之八が1907年に、新日石の前身である日本石油の特約店として創業した。新日石の特約店の中では、九州で最も大きく存在感は際立っている。

 その歴史からもMisumiと新日石は深い関係で結ばれていた。現在のMisumiのグループCEO(最高経営責任者)で、三角の娘婿に当たる岡恒憲も新日石出身だ。そして、三角が親しく交流を重ねてきたのが、当時新日石社長だった渡文明である。

 渡は日石の副社長として三菱石油との合併を指揮し、99年に石油元売りで国内首位となる日石三菱を生んだ立役者である。2000年には社長に就き、現在に至るENEOSホールディングスの基盤をつくった。後に石油連盟会長や経団連副会長を務めるなど、石油元売り業界にとどまらず、財界の超大物となった。

 年齢は三角が渡の2歳上。営業畑を歩んできた渡と三角は深い関係を育んできた。

 鹿児島市内のMisumi本社を訪れた笠原は三角にこう頼み込んだ。「渡さんにポイントビジネスの話を説明させてほしい」。新日石に表玄関から話を持ち掛けても成功の可能性は低い。渡とのコネクションを持つ三角に、いわば口利きを依頼したのだ。

 MisumiとCCCの関係も良好だった。三角は、特約店を展開する傍ら、ケンタッキーフライドチキンといった外食事業などにも参入。強力なリーダーシップで多角化を推し進めてきた。Misumiは86年にビデオレンタル業をスタートしてまだ日も浅いCCCとFC契約を結び、TSUTAYAも展開していた。

 しかも、笠原と三角も古い縁だ。笠原は前職のNEC時代に特約店向けの新たなPOS(販売時点情報管理)端末を三角に売り込んだ。従来のカセットではなく、フロッピーディスクを使って販売数量などのデータが記録できるという点が優れていた。

 だが、誤算が生じる。鹿児島市内では、桜島から降った火山灰が不具合をしょっちゅう引き起こしたのだ。そのときこそ、三角は笠原に大目玉を食らわせたが、長い付き合いの中で、そんな過去のトラブルはお互いにとって笑い話となっていた。

 そんな笠原の頼みに三角は、渡を紹介することを約束した。

 それから1カ月後の02年12月27日。仕事納めの日に、CCC社長の増田宗昭と取締役の三宅恭弘が東京・西新橋にあった新日石本社に足を運び、渡と面会を果たす。

笠原は、表玄関からではなく、キーパーソンともいえる懇意にしていた元取引先に「口利き」を依頼することで、超大物社長に直接アプローチすることに成功する。結局、新日石は、渡の部下の即断即決でCCCのポイント構想に乗ることを決める。新日石が即座に加盟を決めたことで共通ポイント構想は幸先の良いスタートを切ったのだ。

(敬称略)