「亡くなる一ヵ月前の電話でした」…俳優・渡哲也の従兄が明かす「仁義がありすぎる秘話」

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日活黄金期の銀幕スター

日活黄金期の看板俳優としてアクション映画で活躍し、歌手としては「NHK紅白歌合戦」に出場する。そんな昭和最後の大スターと言えば渡哲也だ。

'41年に生まれた渡は、青山学院大学在学中にスカウトされて日活に入社。「第二の裕次郎」という触れ込みで売り出されると、派手なアクションや出演作の主題歌がヒットして、スターの座を不動のものにする。

渡に殺陣を指導していた殺陣師の菅原俊夫氏はこう振り返る。

「もともと身体が弱い人なのですが、どんな過酷な殺陣であっても弱音や愚痴は吐かなかった。いつも『菅原さんの言うことを100%やります』と言うんです。プロ中のプロでした」

裕次郎を慕い続けて

日活がロマンポルノ路線に舵を切ったことを契機に会社を辞めた渡は、日活の先輩として尊敬していた石原裕次郎についていくことを決意。当時、石原プロは経営難に陥っていたため、裕次郎はスターである渡の入社に難色を示した。しかし、渡が全財産を「社員の皆さんで使ってください」と差し出したことに感銘を受け、入社を認めたという。

それから渡は松竹、東宝作品などで主演を務め、石原プロを再建させる。特に大ヒットしたのがドラマ『西部警察』と『大都会』だった。

かつて軍団の若手として行動を共にしていた俳優・石原良純氏はこう振り返る。

「社長(裕次郎)と渡さんは、余人の想いを超えた固い絆で結ばれていたと思います」

'87年に裕次郎が52歳の若さで逝去すると、遺志を継いだ渡が軍団を率いることとなる。

義理人情を貫き通した

裕次郎の後を継いで石原プロの社長に就任した渡は、多くのスタッフや役者を路頭に迷わせないために、俳優と経営者の両面にいっそう尽力するようになった。

社長となって初の石原プロ制作作品『ゴリラ・警視庁捜査第8班』で共演した女優の田中美奈子氏は、当時の撮影についてこう語る。

「石原プロの撮影は総勢100人に及ぶ大部隊で、野外ロケの際には十数台のバスで全国を移動し、撮影をするんです。それほど大所帯でも、渡さんはキャストからスタッフまで一人一人を気遣っていました。

過労で私が倒れたときは、『美奈子をこんな状況に追い込んではいけない』と私を現場から帰してくれました。撮影に穴が空くと各所に迷惑がかかる。ただ、渡さんの指示となれば誰も文句は言えません。私を守ってくれたことを今でも感謝しております」

舘ひろし、神田正輝、徳重聡など数々の名優たちが渡を慕って幅広く活躍した。渡自身も映画やドラマの出演はもちろん、災害時は石原軍団を率いて炊き出しを行うなどボランティア活動も精力的にこなした。

そして'11年に社長の座を退くまで、24年間もの長きにわたって事務所を守り続けた。これは、裕次郎が社長を務めた期間も24年間だったことから「敬愛する裕次郎さんの在任期間を超えてはいけない」と考えていたからだとされている。

そして'20年、裕次郎の命日に石原プロの解散が発表されると、それから3週間後に渡は肺炎で亡くなった。

故郷・淡路島に暮らす従兄の吉田昌美氏が振り返る。

「みっちゃん(渡さんの本明・道彦より)は、自分の体調が悪くても定期的に電話をくれました。故郷に対する思いも強かったのでしょう。亡くなる1ヵ月前、自分の旧友が亡くなった話をしたら『それは香典を出さんといかんな。葬式の花代も払わせてくれ』と言うんです。最後の最後まで義理を欠かさない男でした」

昭和を駆け抜けた「忠義のひと」の軌跡は、今でも私たちの心に深く刻み込まれている。

「週刊現代」2024年9月7日号より

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