RKK

写真拡大

熊本県の人吉・球磨地方で作られる米焼酎ブランド「球磨焼酎」。

【写真を見る】「溺死です」警察の連絡で知った母の死 残った写真はパスポート1枚…焼酎蔵で4年ぶりに向き合った“母が大事にしたモノ ”

27ある蔵元全ての球磨焼酎が揃う熊本市の球磨焼酎専門バーには、製造が止まっている貴重な焼酎もあります。その一つが、球磨村に唯一ある蔵元『渕田酒造本店』の銘柄です。

球磨焼酎専門バー 69spirits 星原克也さん「渕田さんの特徴はやさしい焼酎。昔からある銘柄 “園乃泉(そののいずみ)” は僕が初めて飲み始めた焼酎で、僕のスタートラインはここ。すっきりした口あたりの中に、最後まろやかな米の甘みが残ります」

熊本県内最大の河川・球磨川のほとりに佇む渕田酒造本店は、200年以上続くとされる老舗です。

なぜ、焼酎作りが止まっているのか…。現在の蔵元には、亡き母の思いを継いで奮闘する息子の姿がありました。

20年間蔵元を守り続けた女性

50年前、1974年に撮影された渕田酒造本店の映像には女性の杜氏(とうじ)、故・渕田勝子さんが映っていました。勝子さんは夫が亡くなった後、息子の嘉助(かすけ)さんが継ぐまで20年間、杜氏を務めてきました。

渕田勝子さん(当時のインタビュー)「焼酎屋としては小さいところです」

それから30年後の2004年。引退した勝子さんの笑顔からは、蔵を守り抜いた安堵感がうかがえました。

渕田勝子さん(当時のインタビュー)「私はもう卒業してますから。ずっとやっていました 杜氏として」

しかし4年前。「2020年7月豪雨」が球磨村を襲いました。

土砂に埋もれ水没した蔵 

渕田酒造本店は、豪雨で壊滅的な被害を受けました。前日から降り続く雨で蔵が水没したのです。

息子の嘉助さんは屋根に上って水が引くのを待ちましたが、蔵は土砂に埋もれ全壊しました。

渕田酒造本店 5代目 渕田嘉助さん「ガラス戸の下から30cmのところまで水が来た。水が来たのは2階、床上30cmですね」

そして、球磨村の特別養護老人ホーム『千寿園』では入所者14人が亡くなりました。

そのうちの一人が、勝子さんでした。

渕田嘉助さん「『死亡されました。溺死です』と警察から連絡がきた。生きていると思っていたから、3秒くらいたって、あぁ、14人の中に入っていたんだと」

写真はすべて流され、残ったのはパスポートの1枚だけでした。

蔵の再建とさらなる試練

被災当時の嘉助さんは72歳。焼酎作りを再開するのは困難と思われましたが、去年、全壊した蔵を再建しました。柱と梁、そしてわずかに残った甕(かめ)を使っています。

やっと焼酎を作れると思った矢先…熊本県から土地をかさ上げする必要があると知らされました。

本来なら今年にも焼酎作りを再開できるはずでしたが、地域全体で補償の問題がまとまるまで、工事に入れません。

それでも嘉助さんは。

渕田嘉助さん「やめようと思ったことは全然ありませんでした」

現在は蔵の2階で被害を免れた貯蔵タンクに残った原酒を使って焼酎を出荷していますが、ほとんどのタンクはまだ使えない状況です。

泥まみれのタンクが4年ぶりに元の姿へ

6月14日、嘉助さんは泥まみれになっていたタンクを被災後初めて水で洗いました。タンクの錆も取っていきます。

被災から4年経ち、ようやくここまできました。

渕田嘉助さん「これまではやろうとは思わなかった。やっとできる気がしてきた」

このタンクは50年前に母・勝子さんが導入し、大事に使ってきたものです。

渕田嘉助さん「仕事熱心な人でした、焼酎を作る時は一日も休みがないんですよ。一年で休みは5日くらいしかなかった。子どもの頃は、大変な仕事だと思っていました」

「球磨焼酎」が生まれる場所

嘉助さんが、水を引いている場所へ案内してくれました。 

蔵の焼酎は山の伏流水で作られていて、水源のタンクから蔵まで通る水道を使って、水を送っています。

球磨焼酎は人吉・球磨地方の水でもろみを仕込むなどの定義があり、豊かな自然の中で作られてきたのです。

もう一度焼酎作りを

ある日、蔵にフルーティーで芳醇な香りが広がっていました。月に4回ほど行う瓶詰の作業です。

仕込みからすべて手作業で、隣村の水上村から杜氏が毎回手伝いに来てくれます。

渕田嘉助さん「半年くらい出荷はゼロだった、それから回復するのは時間がかかった。まだ半分にもなっていない」

注文が入ると商品を出荷します。車で20分ほどの場所にある人吉市内のスーパーマーケットには「頑張れ!!渕田酒造本店」と書かれた特別なコーナーが設けられていました。

酒の量販店にも定期的に納品していて、愛好家からも根強い人気があります。

田村商店 人吉店 黒木涼太さん「ファンの方々が渕田さんの焼酎を買ってずっと飲まれている。しっかりと、いいものを改めて作って頂ければと思っています」

嘉助さんも焼酎作りの再開を楽しみにしています。

渕田嘉助さん「今まで200年くらい経っていますから、できればあと200年って、そういう思いはあります」

かさ上げ工事が終わり、再び焼酎作りができるようになるまで――。渕田さんは、いまできることを続けていきます。