写植機誕生物語 〈石井茂吉と森澤信夫〉 第43回 【茂吉と信夫】海軍水路部からの注文
フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。リリース予定の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)
○潮汐表などへの活用
茂吉と信夫の写真植字機研究所は、1929年 (昭和4) 秋から翌年春までかけて、5大印刷会社に1台ずつ邦文写真植字機を納入した。この最後の2台の仕上げを急いでいたころだから、1930年 (昭和5) のはじめごろのことだろうか。海軍水路部の技官・松島徳三郎 [注1] が写真植字機研究所にやってきた。[注2]
海軍水路部の技官だった松島徳三郎。写真は67歳のときのもの。写真植字機研究所をたずねてきたときは39歳だった (『日本印刷人名鑑』日本印刷新聞社、1955 p.290より)
海軍水路部は1871年 (明治4) に創設された組織で、測量、製図、水路書誌の編集と供給などをおこなっており、印刷所も備えていた。松島は東京高等工業学校 (現・東京工業大学) で写真製版を学び、東京高等工芸学校でも教鞭をとっていた伊東亮次の教え子でもあった。彼は邦文写真植字機の試作第2号機を東京高等工芸学校の開校記念日に見て関心をもち、その後もたびたび茂吉のもとを訪れては、開発の進捗を気にかけていた。そうして、5大印刷会社が発注したことを聞き、かけつけたのだった。[注3]
松島は、かねてから水路部で、海図や航海図、潮汐表、水路誌などに写植を利用すれば、品質向上と製作時間短縮に役立つと上長に進言していた。
「進言がようやく受け入れられたから、水路部でも邦文写植機を1台注文したい」
それが松島の用件だった。[注4]
5大印刷会社に合計5台の機械が売れたとはいえ、この納入で得られた売上は、ほとんど前債を埋めるだけで消えてしまった。同1930年 (昭和5) には石井家が経営していた米屋・神明屋を廃業し、いくは写研の営業担当に専念したこともあり、[注5] この年の暮れには「どうやって年の瀬を越したらよいのか」という目算も立たない状態だった。そんなところに舞い込んだ海軍水路部の注文のおかげで、茂吉たちはなんとか年を越すことができた。[注6]
機械は、10カ月後に納入された。水路部では、一般の印刷会社が手がけるような印刷物とは異なり、潮汐表のように数字を中心にしたものや海図の標題など、限られた書体を限られた体裁で組む仕事が多かった。複雑な組版や書体のバリエーションをそろえる必要がなかったため、邦文写真植字機は導入直後から順調に稼働し、成果をあげることができた。この背景には、試作機の段階から写真植字機に関心を寄せ、機械の製作意図をじゅうぶんに理解し、それを活かして活用した松島の存在……、彼の努力と熱意があったこともわすれてはならない。[注7]
海軍水路部での写真植字機印字の様子 (『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.20より)
○順調な導入のいっぽうで
邦文写真植字機の成績良好を受け、翌1931年 (昭和6) には海軍水路部からもう1台の注文が入った。潮汐表や海図に使われる数字は水路部独特の書体だったため、専用の文字盤も製作された。[注8]
潮汐表用に製作された文字盤 (『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.20より)
水路部からの追加注文による収入を得て、ほっとひと息をつくことができたものの、その後はぱったり注文が止んだ。写研やモリサワのオフィシャルな資料ではないが、当時を綴る雑誌記事には、「その後はまだ1台も売れてはいない。目下できあがっているものが10台、製作中のものが10台ある」とある。経済上の圧迫は、なおも写真植字機研究所を苦しめていた。[注9]
1931年 (昭和6) 3月12日に海軍水路部と写真植字機研究所のあいだに交わされた、邦文写真植字機注文の契約書より (3枚とも/写研所蔵)
しかも、1930年 (昭和5) 春までに機械を買ってくれた共同印刷、凸版印刷、秀英舎、日清印刷、精版印刷の5社からは、機械を扱ってみたうえで「邦文写真植字機は、まだ実用には不十分である」と厳しい指摘が届いていた。いくつも挙げられた欠点のなかでもっとも大きかったのは、文字盤 (書体) の欠点と、ルビの印字ができないということだった。 [注10]
(つづく)
[注1] 松島徳三郎 (まつしま・とくさぶろう):1892年 (明治25) 5月、徳島県生まれ。没年不詳。1914年 (大正3) 、東京高等工業学校写真製版専修過程を修了後、海軍水路部に海軍技官として25年勤務。その間、亜鉛透写版製法、平版校正機の色刷合方法の改良などの研究で多大な業績をおさめた。1937年 (昭和12) 秀美堂印刷を設立、取締役社長に就任。1949年 (昭和25) 写真印刷取締役会長に就任。著書に『新しい写真術の字引』(実業之日本社、1922) 、『ヂンク応用写真平版術』(修文館、1928) など。
※参考資料:「印刷図書館:印刷史談会/印刷アーカイブス - ぷりんとぴあの小箱 印刷史談会」( https://www.jfpi.or.jp/printpia4/part3_01.html )より、1967年1月26日に開催された史談 松島徳三郎「大正時代の海軍水路部印刷所」https://www.jfpi.or.jp/files/user/pdf/printpia/pdf_part3_01/part3_01_002.pdf (2024年2月24日参照)
[注2] [注3][注4]『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.111、「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.20
[注5]『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.353
[注6] 倭草生「写真植字機の大発明完成す」『実業之日本』昭和6年10月号、実業之日本社、1931 p.161
[注7] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.111、「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.20
[注8] 「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.20
[注9] 倭草生「写真植字機の大発明完成す」『実業之日本』昭和6年10月号、実業之日本社、1931 p.161
[注10] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.112-113
【おもな参考文献】
『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969
「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975
森沢信夫『写真植字機とともに三十八年』モリサワ写真植字機製作所、1960
馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974
産業研究所 編『わが青春時代 (1) 』産業研究所、1968
倭草生「写真植字機の大発明完成す」『実業之日本』昭和6年10月号、実業之日本社、1931
『日本印刷人名鑑』日本印刷新聞社、1955
【資料協力】株式会社写研、株式会社モリサワ
※特記のない写真は筆者撮影
○潮汐表などへの活用
海軍水路部の技官だった松島徳三郎。写真は67歳のときのもの。写真植字機研究所をたずねてきたときは39歳だった (『日本印刷人名鑑』日本印刷新聞社、1955 p.290より)
海軍水路部は1871年 (明治4) に創設された組織で、測量、製図、水路書誌の編集と供給などをおこなっており、印刷所も備えていた。松島は東京高等工業学校 (現・東京工業大学) で写真製版を学び、東京高等工芸学校でも教鞭をとっていた伊東亮次の教え子でもあった。彼は邦文写真植字機の試作第2号機を東京高等工芸学校の開校記念日に見て関心をもち、その後もたびたび茂吉のもとを訪れては、開発の進捗を気にかけていた。そうして、5大印刷会社が発注したことを聞き、かけつけたのだった。[注3]
松島は、かねてから水路部で、海図や航海図、潮汐表、水路誌などに写植を利用すれば、品質向上と製作時間短縮に役立つと上長に進言していた。
「進言がようやく受け入れられたから、水路部でも邦文写植機を1台注文したい」
それが松島の用件だった。[注4]
5大印刷会社に合計5台の機械が売れたとはいえ、この納入で得られた売上は、ほとんど前債を埋めるだけで消えてしまった。同1930年 (昭和5) には石井家が経営していた米屋・神明屋を廃業し、いくは写研の営業担当に専念したこともあり、[注5] この年の暮れには「どうやって年の瀬を越したらよいのか」という目算も立たない状態だった。そんなところに舞い込んだ海軍水路部の注文のおかげで、茂吉たちはなんとか年を越すことができた。[注6]
機械は、10カ月後に納入された。水路部では、一般の印刷会社が手がけるような印刷物とは異なり、潮汐表のように数字を中心にしたものや海図の標題など、限られた書体を限られた体裁で組む仕事が多かった。複雑な組版や書体のバリエーションをそろえる必要がなかったため、邦文写真植字機は導入直後から順調に稼働し、成果をあげることができた。この背景には、試作機の段階から写真植字機に関心を寄せ、機械の製作意図をじゅうぶんに理解し、それを活かして活用した松島の存在……、彼の努力と熱意があったこともわすれてはならない。[注7]
海軍水路部での写真植字機印字の様子 (『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.20より)
○順調な導入のいっぽうで
邦文写真植字機の成績良好を受け、翌1931年 (昭和6) には海軍水路部からもう1台の注文が入った。潮汐表や海図に使われる数字は水路部独特の書体だったため、専用の文字盤も製作された。[注8]
潮汐表用に製作された文字盤 (『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.20より)
水路部からの追加注文による収入を得て、ほっとひと息をつくことができたものの、その後はぱったり注文が止んだ。写研やモリサワのオフィシャルな資料ではないが、当時を綴る雑誌記事には、「その後はまだ1台も売れてはいない。目下できあがっているものが10台、製作中のものが10台ある」とある。経済上の圧迫は、なおも写真植字機研究所を苦しめていた。[注9]
1931年 (昭和6) 3月12日に海軍水路部と写真植字機研究所のあいだに交わされた、邦文写真植字機注文の契約書より (3枚とも/写研所蔵)
しかも、1930年 (昭和5) 春までに機械を買ってくれた共同印刷、凸版印刷、秀英舎、日清印刷、精版印刷の5社からは、機械を扱ってみたうえで「邦文写真植字機は、まだ実用には不十分である」と厳しい指摘が届いていた。いくつも挙げられた欠点のなかでもっとも大きかったのは、文字盤 (書体) の欠点と、ルビの印字ができないということだった。 [注10]
(つづく)
[注1] 松島徳三郎 (まつしま・とくさぶろう):1892年 (明治25) 5月、徳島県生まれ。没年不詳。1914年 (大正3) 、東京高等工業学校写真製版専修過程を修了後、海軍水路部に海軍技官として25年勤務。その間、亜鉛透写版製法、平版校正機の色刷合方法の改良などの研究で多大な業績をおさめた。1937年 (昭和12) 秀美堂印刷を設立、取締役社長に就任。1949年 (昭和25) 写真印刷取締役会長に就任。著書に『新しい写真術の字引』(実業之日本社、1922) 、『ヂンク応用写真平版術』(修文館、1928) など。
※参考資料:「印刷図書館:印刷史談会/印刷アーカイブス - ぷりんとぴあの小箱 印刷史談会」( https://www.jfpi.or.jp/printpia4/part3_01.html )より、1967年1月26日に開催された史談 松島徳三郎「大正時代の海軍水路部印刷所」https://www.jfpi.or.jp/files/user/pdf/printpia/pdf_part3_01/part3_01_002.pdf (2024年2月24日参照)
[注2] [注3][注4]『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.111、「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.20
[注5]『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.353
[注6] 倭草生「写真植字機の大発明完成す」『実業之日本』昭和6年10月号、実業之日本社、1931 p.161
[注7] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.111、「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.20
[注8] 「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.20
[注9] 倭草生「写真植字機の大発明完成す」『実業之日本』昭和6年10月号、実業之日本社、1931 p.161
[注10] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.112-113
【おもな参考文献】
『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969
「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975
森沢信夫『写真植字機とともに三十八年』モリサワ写真植字機製作所、1960
馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974
産業研究所 編『わが青春時代 (1) 』産業研究所、1968
倭草生「写真植字機の大発明完成す」『実業之日本』昭和6年10月号、実業之日本社、1931
『日本印刷人名鑑』日本印刷新聞社、1955
【資料協力】株式会社写研、株式会社モリサワ
※特記のない写真は筆者撮影