アメリカへの「忖度」も…陸海軍の元将校が「硫黄島の悲惨な状況」を報告書で伝えなかった理由

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なぜ日本兵1万人が消えたままなのか、硫黄島で何が起きていたのか。

民間人の上陸が原則禁止された硫黄島に4度上陸し、日米の機密文書も徹底調査したノンフィクション『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』が8刷決定と話題だ。

ふだん本を読まない人にも届き、「イッキ読みした」「熱意に胸打たれた」「泣いた」という読者の声も多く寄せられている。

壕の捜索は「におい」に導かれて

1952年報告書は、公文書ならではの事務的な記述に加え、叙情的とも言える情報も多く記載されているのが印象的だった。読んでいるうちに、まるで自分が時空を超えて戦後初の遺骨調査団に参加しているような臨場感を抱いた。興味深かった情報の一つが次の一文だ。

〈調査は、洞窟の入口発見より始まるのは当然であるが、一行の間に、自然に生まれて来た言葉に『においがする』というのがある。これは別に洞窟の屍臭を指すのではなく、地形の関係上『ここには、どうも洞窟があるらしい』という意味である。ともあれ、この合言葉が生れた所以のものは、この島の地形の特性になじんで来るに従い、又当時の将兵の心になつて見ての地形眼を体得するに伴い、自然に壕のあり場所をよく発見できるようになつたということを物語つている〉

調査団の3人はいずれも陸海軍の元将校だった。白井氏は元陸軍中佐、中島氏は元海軍中佐だった。まだ戦争の記憶が風化していなかった時代。彼らの軍隊経験と五感を研ぎ澄ませた捜索は、この時代ならではのものだったのだろう。

こうして苦心の末に見つかった壕で彼らは壮絶な光景を見たと伝えている。

〈洞窟の中では、白骨が巻脚絆を巻いたまま、折り重なつてほんとうに足の踏む場所もないところもあり、担架に寝たままで横たわつている姿もあり、拳銃で又手榴弾で自らの命を絶つたあとをそのまま示しているものも見られ(中略)思わず眼をそむけることがたびたびであつた(従つて、遺族としては、この光景に到底耐え得られないと考える)。しかし、その洞窟より外界に出れば、ジヤングルの木漏れ日、小鳥の声、(中略)疾駆する自動車の音、全く悪夢からさめたような感に打たれる〉

そして、こう問題提起している。〈平和な村、平和な町でも、若し仮に、その墓地をあばいたとしたら、そこには、悲惨な世界ものぞくことはできるであろう。ただ、その村又町とこの島が違つているところは、この幽明の境に、前者は、きまりがつけられ、道徳的な又宗教的なしつかりした扉があるに反し、後者はきまりがつけられておらず、その扉が立てられていないということにある〉。

〈幽明〉とは「冥土と現世」という意味だ。つまり、調査団員は、硫黄島はあの世とこの世の境がない超常的な島だと指摘しているのだ。その上で〈政府としては、どうしても、この遺体を収容し、多数の霊を内地に迎え入れ、そしてこの島に幽明のきまりをつけ、その扉を立てなければならないと思う〉と訴えた。

悲惨な状況は極力記載せず「口頭報告」に

報告書を読んで感じたのは、調査団員は多様な項目について詳細に伝えようとしていたということだ。一方で、意図的に記述を避けた情報もある。それが、彼らが目撃した遺骨の情報だ。情報は先に記した〈洞窟の中では──〉から始まる記述のみ。

〈生々しき壕内の光景については、この報告書にことさら記述するを避け、細部を帰還後の口頭報告に譲りたい〉とした。

それには二つの理由があったと推察される。一つは遺族感情への配慮だ。〈遺族は、たとえ熱烈なる希望を表明するものがあっても、一行に加えることは、不適当である〉との一文がある。悲惨な状況が伝わることは遺族にとって良からぬことだという判断を彼らは下したのだろう。

もう一つの理由と推測されるのは、米国側への忖度だ。

調査団が上陸した初日、大手全国紙の記者とカメラマンがチャーター機で硫黄島に上陸し、数時間だけ調査団を同行取材して本土に帰った。そして各紙は翌日以降「白骨の山」「死の島」などの見出しでセンセーショナルに硫黄島の状況を報じた。このことを本土から知らされた調査団員たちの懸念が報告書には記されていた。

〈非常なる好意をもつて、重要なる島をオープンにした米側に対しても、非常なる悪影響を及ぼしたのではなかろうか〉

日本政府が以後、沖縄など米国施政下の地域で遺骨収集を行うには当然、米国側の了承が必要だ。しかし、このようなセンセーショナルな報道がなされ、日本側の対米感情が悪化するのであれば了承を得られなくなるのではないか。そんな懸念が現実とならないよう、報告書では遺骨の状況に関する記録は最小限に抑えられたのではないか。

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