セリカGT-FOURはトヨタがWRCで勝つために設定したホモロゲモデルですが、映画『私をスキーに連れてって』の劇中者として使われたことで、80年代の若者が熱狂しました。その思い出を振り返ります。

今でこそ世界で確固たる地位を築いている日本車だが、暗黒のオイルショックで牙を抜かれた1970年代、それを克服し高性能化が顕著になりイケイケ状態だった1980年代、バブル崩壊により1989年を頂点に凋落の兆しを見せた1990年代など波乱万丈の変遷をたどった。高性能や豪華さで魅了したクルマ、デザインで賛否分かれたクルマ、時代を先取りして成功したクルマ、逆にそれが仇となったクルマなどなどいろいろ。本連載は昭和40年代に生まれたオジサンによる日本車回顧録。連載第14回目に取り上げるのは、トヨタセリカGT-FOURの初代モデル(ST165)だ。

4代目セリカはスカイラインとほぼ同時にデビュー

1985年8月に登場した7代目スカイラインセダンだったが、 コンセプト自体が不評で日本のクルマ好きの期待を大きく裏切る形となってしまった

私が大学浪人中の1985年は話題のクルマがいろいろ登場した。この年の最大のトピックは、当時日本人の心のクルマとも言われた日産スカイラインが8月にフルモデルチェンジしたことだろう。7代目ということで”7th(セブンス)”と呼ばれたスカイラインは、打倒マークIIを掲げて豪華に快適に生まれ変わったが、それが仇となってしまった。1986年5月に2ドアクーペを追加して失地回復も、4ドアセダンはマークII/クレスタ/チェイサーにまったく歯が立たなかった。

そのスカイラインと同じ8月にデビューしたのが4代目セリカだ。新たにカリーナED、コロナクーペというブランニューモデルを加えて3兄弟を形成した。

4代目セリカも賛否あった

スカイラインに負けず劣らずビッグネームのセリカのフルモデルチェンジということで注目されていたが、クルマ好きの間で議論されていたのが、FR(後輪駆動)からFF(前輪駆動)になったこと。すでに免許を持っていた先輩は「セリカもFFかぁ」、「FFじゃ魅力ないな」と嘆いていたが、免許を持っていなくて運転もしたことがない私や私の友だちにとっては、そんなことはどうでもいいことで、大事なのはカッコいいか、カッコ悪いか。

その点セリカは、『流面形、発見さる。』というキャッチコピーよろしく、エアロフォルムを纏った斬新なデザインが衝撃的だった。

今見ても美しい4代目セリカのエクステリアデザイン

私は3代目セリカが嫌いだった。後期のブラックマスクでカッコよくなったが、前期のせり上がるセミリトラクタブルヘッドランプが残念で、バリカンみたいな顔がカッコ悪いと思っていた。

それが4代目では3代目後期のブラックアウトされたリトラクタブルがさらに洗練され、流面形ボディと合わせて、子ども心にほかのクルマよりも先に行っている先進性を感じた。

3代目は日本車初にして唯一のポップアップヘッドライトを採用。チャレンジングではあるが、セリカ=カッコいいというイメージが崩れてしまった

とは言え、クルマが運転対象ではないため、”かわいい娘は3日で飽きる”ではないが、見慣れれば特に意識するクルマではなかったのは事実だ。慣れってある意味残酷だ。

後期モデルになると完全リトラクタブルヘッドライトに変更。フロントマスクが黒いため、ブラックマスクと呼ばれている。前期型より圧倒的にカッコいい

WRCで勝つために追加されたGT-FOUR

4代目セリカのデビューから約1年後にモデル追加されたのがセリカGT-FOURだ。トヨタ初のフルタイム4WDというのも話題になった。ちなみに日本初は1985年にデビューしたマツダファミリア4WDだ。

セリカは2代目、3代目とトヨタの世界ラリー選手権(WRC)参戦マシンのベース車となっていたが、それは4代目も変わらず。市販モデルから大きな変更ができないグループAレギュレーション時代では、ベース車のポテンシャルが重要になる。当時WRCで勝つには4WDターボが必須だったため、セリカにフルタイム4WDが設定されたのだ。

セリカGT-FOURは自慢の4WDターボにより戦闘力も高く、WRCで活躍。1988年にデビューし、1990年にはカルロス・サインツがチャンピオンを獲得

セリカGT-FOURに対するプロの評価

セリカGT-FOURの登場は、クルマ雑誌でも大きく取り上げられ盛り上がりを見せていた。クルマ雑誌はクルマ好きの情報源であり、クルマを購入する際には自分のひいきの自動車評論家の試乗インプレッションがよりどころとなっていた。クルマ雑誌に長年携わってきているが、凄い時代だったと思う。

4WDのトラクション性能を活かしたコーナリングは安定感があるが、1350kgの車重はヘビーすぎたため警戒感に欠けた

では、セリカGT-FOURの評価はどうだったのか? 結論はおおむね高評価。特に4WDによる安定性の高さから、誰もが安心して高性能を楽しむことができる点の評価が高かった。しかし、どの評論家も重すぎる1350kgの車重をネガとして指摘し、走りに軽快感がイマイチ足りないという評価。ライバルのファミリア4WDは1.6Lエンジン(145ps)でボディもひと回り小さいハッチバックだったが、車重は1090kgだったからなおさら。

4気筒エンジンでは当時最強スペック

セリカGT-FOURは、FFモデルがノンターボエンジンだったのに対し、2L、直列4気筒DOHCターボを搭載。185ps/24.5kgmのスペックは当時の4気筒エンジンとして最強だった。FFモデルでは4速オートマチック(4AT)が人気だったが、GT-FOURは5速マニュアル(5MT)のみの設定となるなど差別化されていた。

しかしエクステリアはFFモデルと比べてフロントバンパー両サイドに丸型フォグランプが埋め込まれる程度で極小。フロント、リア、ドアのGT-FOURのエンブレム、ステッカーが妙に誇らしげだったものの当時は物足りなかった。このさりげなさって子どもに理解しろっていうのは無理な話。

マニアのクルマからミーハー車へ

セリカGT-FOURは前述のとおり、トヨタのWRCマシンのベース車両ということで、最も注目していたのは日本のラリー関係者たちだった。ある一定数いる新しい物好きなども食指を動かした。

簡単に言えばセリカGT-FOURはマニア寄りのクルマだったのだ。見た目はナンパだけど、中身は超硬派ってやつ。万人受けするという意味ではソアラやプレリュードにはかなわなかった。

真横から見ても美しいセリカGT-FOUR

しかし、1987年に上映されたホイチョイ・プロダクション原作の『私をスキーに連れてって』(以下わたスキ)の劇中で使われて状況は一変。私のようなミーハーな輩のターゲットとなったのだ。

最初に憧れたのはマットビハイクル

私はテレビドラマや映画に登場するクルマにアレコレ憧れてきた。最初が『帰ってきたウルトラマン』(1971〜1972年)のマットビハイクル(マツダコスモスポーツ)。広島生まれだが、実車のコスモスポーツなんて見たことなかったので、こんなカッコいいクルマが東洋工業(現マツダ)のクルマとは夢にも思わなかった。ウルトラマン系では『ウルトラマンタロウ』(1973〜1974年)のウルフ777(3代目トヨタクラウンを改造)も好きだった。

マットビハイクルは市販のコスモスポーツほぼそのままのデザインで登場していた

外国の映画やドラマでも感化

そして映画『007 私を愛したスパイ』(1977年)のボンドカーで潜水艇に変身するロータスエスプリ、特撮テレビドラマ『ナイトライダー』(1982〜1986年)のナイト2000、

映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985年)のデロリアンDMC-12など、多くのクルマ好き同様に、健全に影響を受けてきた。

直線基調のペキペキのデザインが超スポーティ。映画で潜水艇に変身して海中を潜る様は世の子どもたちのドギモを抜いた。それほど衝撃的だった

私は対象外だったが、ドラマ『あぶない刑事』(1986年)の2代目日産レパード、ドラマ『ビーチボーイズ』(1997年)のルノー4、ドラマ『ビューティフルライフ』(2000年)のオペルヴィータなどに感化され、実際に購入した人も少なくないはずで、日本中を巻き込んでブームとなったクルマはいろいろある。ともかくどれもが懐かしい。

スキーはお金持ちが行くものという認識

何かと影響を受けやすい私が最も熱くなったのがセリカGT-FOURだったのだ。自動車雑誌『ベストカー』では長きにわたりモータースポーツを担当。しかし、セリカGT-FOURに憧れたのは、WRCで活躍したからではなく単にミーハーだっただけ。

『わたスキ』上映された1987年といえば私が大学2年生の時。広島生まれということで、子どもの頃にスキーに行くのはお金持ちの家だけという認識で生きてきたが、大学入学時には東京の大学生は頻繁にスキーに繰り出していた。私も何度か行ったがまったく上達せず。

『私をスキーに連れてって』はキャスティングが絶妙

『わたスキ』は今見返せば突っ込みどころ満載なのだが、当時の貧乏学生の私には何から何までがキラキラしていた。主演の原田知世さんのほか、原田貴和子さん、高橋ひとみさん、鳥越マリさんなどがいろんなタイプの女子を演じていて、どの子がいい? なんて友だちと話題になっていた。私は鳥越マリさん演じるちょっとお間抜けな恭世派だった。

しかし、私が『わたスキ』にハマったのはもうひとりの主演の三上博史さん。『華やかな誤算』(1985〜1986年・TBS)で初めて見て以来憧れ、三上さんのタバコの吸い方、酒の飲み方などを真似ていた。彼が主演だったからこそ私の心に刺さるものがあった。体を回転させながら素早くビンディングを外すしぐさなどまぁいろいろ真似した。まぁ思い返せば赤面モノだが、そんな輩はスキー場に溢れていた。

1980年代中盤は今では考えられないくらいスキーブームで、『わたスキ』放映後はさらに競技人口を増やした

雪道での走りに衝撃!!

で、本題のセリカGT-FOUR。劇中には2台のセリカGT-FOURが登場。佐藤真理子(原田貴和子)は白、羽田ヒロコ(高橋ひとみ)は赤だ。そして運転席のドアを開けて、路面の雪をつまんで、「凍ってるね」、とお約束の言葉をつぶやいてフルスロットルで発進して雪道やゲレンデを激走するのだが、そのセリカGT-FOURはカッコよすぎた!! 雪の降らないところで生まれ育った私は雪道での走りなど想像もつかずひと目見て衝撃的だった。劇中ではGT-FOURを駆る女性2人とも腕自慢で、運転していない時とのギャップもナイスだった。

アマチュア無線、防水カメラも流行った

「わたスキ」の影響でブームになったモノ、売れたものなど多数あり、写真を撮る時に「ハイチーズ」ではなく「とりあえず」というのも「わたスキ」発祥。アイコムIC-μ2・IC-28のアマチュア無線、キヤノンAS-6(防水カメラで当時高価だった)も売れていた。クルマ関係で言えば、NAEBA、APPIなどのステッカーをクルマに貼る、そしてルームミラーにストップウォッチをぶら下げるのが流行った。

1986年2月に販売開始となったキヤノンAS-6。水深10mでも撮影できたため、スキーだけでなくマリンスポーツでも重宝した若者必携アイテム

スキー場で見る女性は3割可愛く見えた

あとはやはり主演の原田知世さんが演じた池上優。白いワンピースウェアにニット帽とサングラスという出で立ちだったが、”池上優もどき”がスキー場に大増殖。「夜目遠目傘のうち」というフレーズがあるが、ゲレンデ美人という言葉も流行り、当時はゲレンデで見ると女性は3割可愛く見える、とまで言われたものだ。

ユーミンは若者の教祖様

あと「わたスキ」と言えばユーミン(松任谷由実さん)。主題歌の『サーフ天国、スキー天国』をはじめ劇中の挿入歌の『恋人がサンタクロース』、『BLIZZARD』は映画の後も長らく冬の定番ミュージックとして君臨。

まぁ、恋愛の神様と呼ばれたこの頃のユーミンは若者にとって教祖様的存在で、絶大なるパワー、影響力を持っていた。ユーミンのCDはもちろん、カセットテープに録音して独自のオムニバスを作ってカーステ(カーステレオ)で彼女と聴く、というのも定番。

エクステリアデザインはフロントバンパーに埋め込まれた丸型フォグランプ程度。変更箇所はさりげない感じだが、そのオーラは凄い

雑誌のユーミンのインタビュー記事で、東名高速の乗り口近く、イエスタデー、プレンストンウッド、デニーズがあった”用賀アメリカ村”で若者を観察している、というのを読んで、もしかしたら俺も観察されていたかも、と思ったのは私だけじゃないハズ。結婚後用賀アメリカ村のあった近くに居を構えたため、2012年5月6日、最後の砦のデニーズの閉店を見届けたのも何かの運命を感じる。

スキーに行くならヨンクの先駆け

スキーブームをさらに加勢したこの作品でのセリカGT-FOURにより、「スキーに行くならヨンク」というのが大学生の間では合言葉のようになっていた。残念ながら私をはじめ私友人はクルマを持っていなかったため、格安で有名だった新宿西口発のスキーバス(サミーツアー)だった……。

映画で人気となり、憧れの存在となったGT-FOURだったが、若者の間でバカ売れしたかと言えばそうでもなかったように思う。でも、このクルマほど若者(特に大学生)をワクワクさせてくれたクルマはなかったのではないだろうか。

今も昔も映画やドラマに登場したクルマの影響は絶大だが、セリカGT-FOURほど若者を熱狂させたクルマはない。実際には販売に大きくは貢献しなかったかもしれないが、イメージ戦略として大勝利!!

【セリカGT-FOUR主要諸元】
全長4365×全幅1690×全高1295mm
ホイールベース:2525mm
車重:1350kg
エンジン:1998cc、直列4気筒DOHCターボ
最高出力:185ps/6000rpm
最大トルク:24.5kgm/4000rpm
価格:297万6000円(5MT)

【豆知識】
6代目ファミリアは、赤いファミリアブームを巻き起こした5代目のキープコンセプトのデザインで登場。最大のトピックが日本車初となるフルタイム4WDを搭載したことだ。軽量コンパクトなハッチバック+4WDは軽快なハンドリング、天候、路面コンディションに左右されない安定性が魅力で、日本車の4WDブームの先駆けとなった。欧州ではマツダ323の車名で販売されていて、欧州のマツダ323をベースとしたラリーマシンがセリカ同様にWRCにも投入され活躍した。

市原信幸
1966年、広島県生まれのかに座。この世代の例にもれず小学生の時に池沢早人師(旧ペンネームは池沢さとし)先生の漫画『サーキットの狼』(『週刊少年ジャンプ』に1975〜1979年連載)に端を発するスーパーカーブームを経験。ブームが去った後もクルマ濃度は薄まるどころか増すばかり。大学入学時に上京し、新卒で三推社(現講談社ビーシー)に入社。以後、30年近く『ベストカー』の編集に携わる。

写真/TOYOTA、ベストカー