“暴れん坊”の武勇伝には事欠かない張本勲氏

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“荒くれ集団”の代表格

 昨年8月5日のガーディアンズ対ホワイトソックスで両軍殴り合いの大乱闘が起き、8人が試合出場停止などの処分を受けたように、メジャーリーグでは近年も派手な乱闘シーンが繰り広げられている。一方、近年のNPBでは、死球などをめぐり小競り合いが起きても、乱闘寸前で回避されることが多い。だが、かつては“野球は格闘技か?”と錯覚させられるようなバトルも数多く繰り広げられてきた。そんな血気盛んだった時代の騒動を5回にわたって紹介したい。第1回は、若き日の東映・張本勲をプレイバックする。【久保田龍雄/ライター】

【写真】張本氏が「サンデーモーニング」に出演するたびにネットニュースが取り上げた。後任のご意見番・上原浩治氏との2ショットも

 昭和30年代から40年代にかけての東映は、荒っぽいチームカラーを売りに、“駒沢(1961年までの本拠地)の暴れん坊”の異名をとった。試合中の暴力事件で2年連続無期限出場停止処分を受けた“ケンカ八郎”こと山本八郎、屈強な外国人選手をパンチ1発でグラウンドに沈めた大杉勝男、ストライク判定に怒って球審を首投げにした白仁天ら、気性の激しい強者が勢揃い。そして、そんな“荒くれ集団”の代表格だった張本勲も、数々の“暴れん坊伝説”を残している。

“暴れん坊”の武勇伝には事欠かない張本勲氏

「張本、あわや乱闘!」の大見出しがスポーツ紙の1面を飾ったのが、1964年3月26日の阪急戦だった。

 事件は3対2とリードした東映の9回表の攻撃中に起きた。1死から4番・張本が右中間三塁打を放ったが、直後、足立光宏のけん制球に誘い出され、三本間に挟まれてしまう。進退窮まった張本は、強引に本塁突入。ボールを持って待ち構えている捕手・山下健に体当たりして押し倒した。張本はアウトになったが、山下は大の字にのびてしまった。

 本塁カバーに入っていた足立が「何だ、その態度は」となじると、張本も「故意ではない」と言い返し、お互い2、3度激しく突き合った。

 阪急ベンチから西本幸雄監督が飛び出し、同年新外国人として来日したばかりのスペンサーも二塁の守備位置から駆けつけて、張本の肩を突いた。

 すると、張本は「(直接関係のない)スペンサーに小突かれるいわれはない」と激高。バットを振り上げて、掴みかかろうとした。当時23歳の張本は、血気も盛んだった。尾崎行雄、安藤順三、白ら駆けつけたチームメイトが必死になだめるのを振り払い、再三掴みかかろうとしたが、最後は渋々ベンチに引き下がった。

一歩間違えば“刑事事件”

 これで騒ぎも収まったかに見えたが、2死無走者で中川忠文球審が試合再開を告げた直後、張本が再びバットを手に脱兎のごとくグラウンドに飛び出し、二塁の守備に就いていたスペンサー目がけて突進するではないか。尾崎を先頭に東映ナインが慌ててあとを追い、最後はみんなで抱きかかえるようにして、ベンチに連れ戻した。

 今なら退場は当たり前、一歩間違えば刑事事件になってもおかしくない暴れようだったが、それでも張本は退場にはならなかった。

 退場を宣告しなかった理由について、中川忠文球審は「咄嗟のことで、どういうことになったのか、私にもよくわからない。これまでにないケースなので、慎重に判断した。もうひと騒ぎあったなら、張本の退場処分は考えたが、私としては退場にすべき状態ではないという見解をとって、そのままプレーを許した。張本選手はじめ、両チームの監督には厳重に注意した」と説明した。試合を司る者として毅然としたものが感じられず、歯切れが悪い。

「あのプレーは、両方ともチームのためにハッスルして起こったもので、米大リーグでは、よくあることだ。私の立場からは、どちらが悪いとも言い難いが、けっして奨励するという意味ではなく、お互いそれだけチームのため意欲を燃やしていれば、ああいうことも起きるかもしれない」という水原監督のコメントにも違和感を覚える人が多いはずだ。

 一方、西本監督は「プロ野球選手としてのプライドもあったものではない。あんなことをされてはたまらない。暴力団のやる行為だ」と非難した。現代人の感覚はこれに近いかもしれない。

「野球できへんようにさすぞ!」

 試合後、事態を重く見た中沢不二雄パ・リーグ会長が夜行列車で大阪入りし、調査を行った結果、中川球審の状況判断が悪かったとして処罰(内容は非公表)、水原監督に戒告的要望書を出す――の2つの措置を取り、張本に対しては、「体当たり自体については問題ない」と裁定。バットを持ってスペンサーに詰め寄った行為も、「暴力的行為と言うより、威嚇行為」と解釈し、「プレー以外の問題なので、直接連盟からは処置しない」と不問にされた。

 要望書を受け取った水原監督は「ハリ、こういうのが来たぞ。バットを持って出ていったあとの行為は悪かった。それ以外は別に悪いことはなかったのだ。これからも大いにハッスルしていいんだぞ」と言い聞かせたという。大らかな時代だったことがうかがえる。

 その後も張本は、1965年4月10日の東京(現・ロッテ)戦で、スパイクを立てて二塁に滑り込むラフプレーが原因で乱闘騒ぎになるなど、何度となくトラブルの主役になったが、23年間の現役生活で退場は1度もない。

 巨人を経て、現役最後の2年間はロッテでプレーし、史上初の3000安打を達成。乱闘寸前の事態をド迫力の“止め役”になって鎮めたのが、1981年4月6日の西武戦だった。

 2回、西武のルーキー・石毛宏典が奥江英幸から左手首に死球を受け、その場にうずくまった。直後、捕手が「バットだ(ファウル)」とアピールしたことから、怒った西武ナインがベンチを飛び出し、本塁付近でもみ合いになった。

 だが、張本が「お前らいい加減にせんと、野球できへんようにさすぞ!」と一喝すると、たちまち全員シュンとなり、一瞬にして騒ぎは収まったという。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

デイリー新潮編集部