働きづめになることからまだまだ抜け出せない日本人。「集中」の種類や質、休みとの関係性などについてみてみましょう(写真:zon/PIXTA)

一口に「集中」といっても、長さ、質などさまざまです。マッキンゼーで働いた大嶋祥誉氏は、同僚の仕事量や速さに驚いたといいます。彼らはどのようにして「集中」していたのでしょうか。働きづめになることからまだまだ抜け出せない日本人へ、マッキンゼーで大嶋氏が肌で感じた「集中」の種類や質、休みとの関係性などについてみてみましょう。

※本記事は大嶋祥誉著『マッキンゼーで学んだ 時間の使い方がうまい人の一瞬で集中する方法』の内容を一部抜粋・再編集したものです。

マッキンゼーで学んだ「集中のメリハリ」

人間の生活がツールによって激変したのは、AIによるものが初めてではありません。人間の生活は技術の進歩により、どんどん便利になってきました。

鉄道や自動車、飛行機の登場で、以前は何週間もかけていた場所へ短時間で移動することが可能になりました。わざわざ手紙や書類を届けなくても、メールで即座に送ることができるようになりました。図書館に行かないと得られなかったような情報が、今では家に居ながらにして手に入ります。

ツールがこれほど発達したのに、なぜ忙しさが変わらない(むしろ増している)のか、という議論があります。これについてはさまざまな説がありますが、私はその理由の1つとして、「現代人はぼーっとすることに慣れていない」ということがあるのではないかと思っています。

日本人は特に、休暇の過ごし方がうまくないという話をよく耳にします。せっかくのバカンスに仕事のパソコンを持ち込んだり、四六時中メールチェックをしたり……。それは結局、「仕事とは、集中して時間を使うこと」だという意思から抜け出せないからではないでしょうか。

そして、その根底にあるのは、「欠乏感」のように思えてなりません。

欠乏感は人を行動に駆り立てます。しかし、欠乏感は同時に、常に刺激を求めます。刺激というのは不思議なもので、最初は弱い刺激で満足していたとしても、もっと強い刺激を欲して心がそわそわしてしまうのです。

私はこの欠乏感もまた、現代の人たちの集中力を奪ってしまっている要因だと思うのです。人がスマホを見る理由の1つは、「刺激」なのだそうです。ニュースを見るのも同じ理由でしょう。つまり、集中できないのは「スマホがあるから」ではなく、「常に何かをやっていないと気が済まない」「常に刺激がないと満足できない」という欠乏感が関係しているのです。

「思考」「行動」のための集中

今でこそ、「集中しない集中」を心掛けている私ですが、以前はまさにオールドスタイル、いわゆる「がんばる働き方」をしていました。私は大学を卒業後、マッキンゼーに入社しました。当初、私はひたすらがむしゃらに働きました。毎日深夜まで集中して働き、一つの仕事が終わればすぐ次の仕事に……という毎日の繰り返しだったのです。

しかし、そんな生活を長く続けられるわけもなく、あるとき急に緊張の糸が切れ、いわゆる「燃え尽き症候群」になりかけました。そんなとき不思議といきいきしている先輩やメンバーがいることに気づき、何が違うのか観察しました。

そこでわかったのは、「集中の質の違い」があるということです。彼らはもちろん集中して働いていたのですが、毎日朝から晩まで集中しているわけではなく、「無駄な仕事」と「必要な仕事」を見極め、必要な仕事だけに短時間集中するという働き方をしていました。

周囲には、「午後6時に帰るのに、成果はきっちり上げる先輩」や「マシーンと呼ばれるくらいのスピードで資料を仕上げる先輩」などがいて、「これが集中するということか」とあっけにとられたのを覚えています。

あるとき、印象深い出来事がありました。その先輩はもともと仕事ができる人だったのですが、一時期、あまりにハードな案件にアサインされて、周囲の目から見ても大丈夫だろうかという状況に追い込まれているような印象でした。

その様子を見ながら私は、「このままいくと、倒れるか、退職するかしか選択肢はないのでは……」とハラハラしていました。実際、ハードな仕事が続くと、服装もヨレヨレになり、立っているのもやっとではないかという状態になっていることもしばしばありました。しかし、それでもしばらくすると、さっぱりした表情をして、これまでの様子がウソのように、はつらつと仕事をしているのです。

私の頭の中は「?」でいっぱいになってしまって、意を決して、「何かあったんですか?」と聞いたところ、「瞑想をやっているんだ」と教えてくれました。

がむしゃらにやるだけではダメ

このとき私の中で、周囲の人たちが集中して質の高いアウトプットを出す姿と、先輩が瞑想によって心をリラックスさせたうえで、集中できる状態を自ら創出している姿が一本の線でつながりました。

「ただがむしゃらにやるだけではダメなのではないか」「もっとリラックスして働いたほうが、結果的によいアウトプットを出せるのではないか」「身体が疲れている状態で集中するのは不可能で、休息を取り入れながら集中できる状態にもっていく必要があるのではないか」――そんなことを私が悟った瞬間でした。

「休みつつ働く」という意味での最先端は、やはりアメリカだと言えるでしょう。グーグルやアマゾンといった巨大IT企業のオフィスにはさまざまな仕掛けがあることはよく知られています。

グーグルのオフィスには無料の食堂はもちろん、マッサージルームや瞑想ルーム、バスケットボールコートなど、リラックスできるさまざまな場所があります。アマゾンではペット同伴で働くことも可能です。

IT企業でなくても、社内あるいはビル内にジムがあるのは珍しいことではありません。「会社は働くために来るところだ、遊ぶところではない」と言う人もいるかもしれませんが、「適度な休息をとったほうが効率がいい」ということは、現在の日米格差からも証明されているのかもしれません。

人間がAIに勝る「考える」ための集中

今まで世の中になかった新しいものを生み出す仕事、いわゆる「ゼロイチ」の仕事は、まだしばらく人間の専売特許になりそうです。

人間の複雑な感情に寄り添うような仕事もまた、少なくとも現段階では、人間にしかできない仕事だといえるでしょう。「データ上はこの選択をすべきだが、メンバー1人ひとりの意思を考えると、あえて違う選択をする」などという判断は、AIには難しいでしょう。


私がマッキンゼー時代、よく言われていたことの1つに「情報はセクシーに使え」というものがあります。コンサルティングファームである以上、当然、情報は重要なのですが、それをそのまま分析しただけだと「セクシーではない」と言われてしまうのです。

つまり、得た情報を元に自分なりに「創造」をしなくてはならないということ。そして、そのためには「考える」ということが不可欠だと思うのです。

そう考えると、おのずと求める「集中」の姿も変わってくると思います。記憶や分析のための集中は、いわば今までの集中のイメージです。誰にも邪魔されない別室にこもり、ひたすら長時間、一つの作業をこなしていく。

一方、考えるための集中においては、そうした根を詰めた姿勢からは何も生まれないどころか、むしろ思考を阻害してしまう可能性もあります。

だからこそ私が提唱したいのは、「がむしゃらにがんばる集中ではなく、集中しない集中」なのです。

より具体的に言えば、「適度に休み、適度に集中する」を繰り返す。これは、「リラックスした集中」とも言えるかもしれません。

(大嶋 祥誉 : センジュヒューマンデザインワークス代表取締役)