連載 怪物・江川卓伝〜センバツ後の喧騒(後編)

前編:江川卓フィーバーは個人情報だだ漏れの時代に過熱はこちら>>

 江夏豊は言った。

「野球はひとりでもできるもんや」

 そして江川卓は言った。

「野球はひとりではできないことがわかりました」

 両者の違いは何だろう? 野球に対する姿勢なのか、それとも思想なのか。

 プロの投手で成功するタイプは唯我独尊、自分ひとりで野球をやっていると信じて疑わない人種だと言われている。往年の大投手、金田正一、別所毅彦、稲尾和久、江夏らは間違いなくこの部類に入る。だが江川は、それとは違う。もっと別次元でモノを考えるタイプである。

 400勝投手である金田は、江川についてこう断言する。

「プロで長くやれば、ワシのつくった記録をことごとく破ることができる男や」

 間違いなく江川は、プロ野球界にとっても何十年にひとり出るか出ないかの"日本の至宝"だった。


試合後、多くの報道陣に囲まれる江川卓 photo by Sankei Visual

【スピードは明らかに落ちていた】

 センバツから戻り、江川はひと時も休まることはなかった。そして週刊誌には『契約金は1億円』『実弾は2億から3億だ!』といった無責任な記事も目立ち、夏の県大会が近づくにつれ報道は加熱していった。

 たかだか18歳の少年が、高校野球のスター選手という枠組みを通り越し、"日本のトップスター"のような扱いを受ける。1973年の夏は、日本中が"江川一色"となった。

 経済効果も計り知れず、栃木県高等学校野球連盟は毎年赤字を抱えていたが、江川のおかげで初めて黒字に転じた。さらに連日、新聞や雑誌に『江川卓』の文字が躍り、作新学院のPR効果も半端なく、宣伝費にすれば数億円とも言われるほどだった。そのおかげで作新学院高等部は、定員1400人に対し1万1000人の受験者が集まった。

 だが"江川フィーバー"の盛り上がりに反比例するかのように、江川のピッチングの調子は徐々に落ちていく。

 江川の高校1年、もしくは高校2年の時に戦った元球児たちに話を聞くと、高校3年は明らかにスピードが落ちていたと答えている。遠征が続き、登板過多による肩の消耗もあっただろうが、一番はやはり走り込み不足だろう。下半身をしっかり鍛えられなかったため、著しい球威の低下が見られた。

 フォームに関しても、高校1年、2年に比べるとダイナミックさがなくなり、全体的に小さくなっていった。1年前はテイクバックが大きく、巨躯がさらに大きく見えるほどの力感があった。だが高校3年になると、手投げのような感じで、右腕の振りも小さくなっていた。

 センバツ大会以降、夏の県大会までに招待試合、沖縄国体、関東大会など、全国の強豪校と対戦し、作新学院は27戦24勝2敗1分。2敗は、沖縄国体の岩国高(山口)と親善試合での那須工業高(栃木)のみ。那須工業戦は先発して4回を無失点に抑え降板し、そのあとリリーフ陣が失点し敗戦。実際、江川が黒星を喫したのは岩国戦のみだった。

【県大会5試合すべて満員御礼】

 そして最後の夏の甲子園をかけた県大会が始まった。

 作新学院が登場する日は警備員の数を3倍に増員し、車での来場者も激増したため、隣接する軟式野球場を開放して臨時駐車場にするなど万全を期した。

 準決勝では徹夜組が約100人、決勝戦は悪天候にも関わらず150人以上の徹夜組が出た。地方大会で徹夜組が出るなど前代未聞である。

 試合開始の2時間前には入場券が完売し、球場内は立錐の余地がないほど人で溢れかえった。

 球場周辺の道路は朝から渋滞が続き、球場関係者によると「プロ野球の巨人戦もやりましたが、その時など比べものにならないほどの人気です」とのことだ。栃木県営球場の収容人数は15000人であり、江川が投げた5試合の入場者を見ると、初戦の真岡工業が18000人、2回戦の氏家が15000人、準々決勝の鹿沼商工が15000人、準決勝の小山が15000人、そして決勝の宇都宮東が17000人と、5試合で80000人もの観客を集めた。

 マスコミの数も凄まじく、準決勝は約50人、決勝はカメラマンも含め100人以上が詰めかけた。だが江川は、勝ち続けるごとに口が重くなっていった。

 準決勝の小山戦のあと、群がる報道陣の矢継ぎ早の質問に辟易している様子がうかがえた。

── 調子はどう?

「わかりません」

── 5分のできですか?

「わかりません」

── 7分のできですか?

「わかりません」

 マスコミ報道が過熱するのも、江川のピッチングがすごかったからだ。高校3年夏の栃木大会で、江川は怪物の名にふさわしい結果を残した。

1回戦  4−0真岡工業(ノーヒット・ノーラン/21奪三振)
2回戦  2−0氏家(ノーヒット・ノーラン/奪三振15)
準々決勝 5−0鹿沼商工(被安打1/奪三振15)
準決勝  6−0小山(被安打1/奪三振10)※8イニング
決勝   2−0宇都宮東(ノーヒット・ノーラン/奪三振14)

投球回数44イニング/被安打2/奪三振75/与四球5

 5試合に登板してノーヒット・ノーラン3回、打たれたヒットはわずか2本。しかも驚くべきは、江川曰く「3年の夏は調子がよくなかった」と6割の力で投げていたというのだ。

 ちなみに打たれた2本のヒットは、鹿沼商工戦でショート後方に落ちるポテンと、小山戦は当たりこそよくなかったが飛んだコースがよく、ライト前に転がったもの。クリーンヒットは1本も打たれていない。

【唯一本気で投げた幻の1球】

 そして江川伝説の最終章とも言える出来事が初戦で起きた。

 真岡工業戦は正捕手の亀岡(旧姓・小倉)偉民がケガのため、控えの中田勝昭がマスクを被った。江川は発熱もあり体調不良のなかでの登板だったが、5回までノーヒットに抑える。そして6回のマウンドに上がるところで江川は中田に言った。

「次の回から本気で投げていいか」

 中田は「どんどん投げてこい!」と快諾。

 その1球目、キャッチャーミットにかすりもせず、ボールはそのまま球審のマスクを直撃した。球審は昏倒し、交代を余儀なくされる。

 ベンチでその様子を見ていた亀岡は、忘れられないシーンとして鮮明に覚えていた。

「あの光景は今でも覚えています。ボールがバックスクリーンからちょっとズレると、ものすごく見えづらいんです。慣れていないと捕れない。いきなり見づらい部分と重なってしまったんでしょう。球審はムチ打ちになってしまったようで......審判の方から『出てくれないか』と頼まれ、急遽出場することになったんです」

 江川が唯一本気で投げたと言われる幻の1球。この球を最後に、県大会では力むことなくマイペースなピッチングを続け、結果的に5試合中ノーヒット・ノーラン3回、被安打2という伝説的な数字を残して自身2度目の甲子園に乗り込むことになる。

(文中敬称略)


江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している