【インタビュー】川崎の主力に成長した瀬古樹の“原点”、三菱養和SCと「三笘薫と対戦した」明治大時代
2023年、苦しいシーズンを過ごしながら徐々に本来の強さを取り戻し、最後には天皇杯優勝という“花”を咲かせた川崎フロンターレ。
加入2年目の瀬古樹は後半戦、脇坂泰斗、橘田健人とともに中盤で欠かせない戦力となり、プロとして自身初のタイトルを手にした。
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— 瀬古 樹/Tatsuki Seko (@tatsuki_seko_6) December 9, 2023
2020年に明治大から横浜FCでプロ入りした瀬古。昨年末に26歳の誕生日を迎えた彼は、小学校から高校までを東京の“街クラブ”である三菱養和SCで過ごした。
また、進学した明治大では4年次の2019年、大学サッカー史上に残るチームの一員として「5冠」を達成している。
現在、川崎に欠かせない選手となった瀬古は、どのように選手としてのキャリアを歩んできたのか―。
Qolyによるインタビュー前編では、現在日本代表として活躍する中村敬斗を輩出したことでも知られる三菱養和SCから、明治大、プロ入りした横浜FC時代までのキャリアを紐解く。
「高体連という感覚は全然なかった」三菱養和SC時代
――小学生の時に三菱養和SCの巣鴨に加入しました。三菱養和を選ばれたのはどういった理由からでしたか?
養和に入る前、僕はマリノスのプライマリーに1年間通っていました。そこへ通うのに僕の実家からだと少し時間がかかり過ぎてしまうことと、朝…土日だと小学生は一番早い時間にやると思うので、なかなか通うのが厳しくなってしまう状況だったんです。
そこで、(三菱)養和を紹介してもらい移ったという形でした。
――そのまま高校卒業まで、三菱養和一筋でした。高校生だと選手権なども大きな目標になりますが、ずっと養和でプレーされた理由は?
高体連という感覚は全然ありませんでした。
養和のジュニアからジュニアユースに上がる時も、クラブチームとしてJクラブと同等の扱いというか雰囲気がありました。トップチームはないかもしれないですが、ユースに上がる時も当時はU-18プレミアリーグでプレーできるというのがありました。
養和を離れる選択をする感覚が全くなかったので、ジュニアユースに昇格できる、ユースに昇格できるという話をいただいた時にはもうそれをすんなり受け入れるというか、逆にありがたいことだなと思って養和でずっとプレーすることを選んでいました。
――三菱養和はどういった部分を重視しているチームだと今思い返して感じます?
本当にサッカーとして一番基本的なこと、チームとして協力することやチームの中でも和を養うというチームだと思います。仲間と協力するといったところが一番売りのチームというか。
――三菱養和では高校2年生の時、クラブユース選手権で優勝しました。1学年上には相馬勇紀選手(現カーザ・ピア)やディサロ燦シルヴァーノ選手(現湘南ベルマーレ)がいましたが、相馬選手は当時どんな選手でした?
速い。とにかく速いというイメージですね。
――養和のグラウンドは本当に巣鴨駅のすぐそばにあります。当時の思い出などは?
基本的にいつも練習が終わったあと、とくに土日は駅前にあるファミレスや定食屋さんで御飯を食べて帰るとかそういうのがありましたね。
ジュニアユースの頃なんかは練習後、土日だとそのまま池袋や上野へ遊びに行ったり、色々していました。
「明治大での4年間」「筑波の三笘薫」
――2016年に明治大へ入学しました。進学先に明治を選んだ理由は?
僕自身、高卒でプロになりたい気持ちがあったので、大学という選択肢を最初は持っていませんでした。
ただ、僕が高2から高3になるタイミングでU-18の日本代表候補にも入ったり、クラブユースで優勝したことによってサニックスカップにも出られたので、そこで当時明治のスカウトだった井澤(千秋)さんに声を掛けていただきました。
最初僕はお断りしたんですけど、2度目も足を運んでいただいて。「練習だけでいいので」と言っていただき、練習参加した時に肌で感じた部分が、そのまま僕が明治に入りたいなと思わせるような環境でした。
僕が行った時、今チームメイトの瀬川(祐輔)くんもそうですけど、和泉(竜司)さん(現名古屋グランパス)とかがチームにいて、この人たちがプロへ行くタイミングでプロになって通用するのかと考えた時に「これは無理だな」と思ったんです。
そこで、この明治の環境が4年間で自分を強くしてくれると感じたので決めました。
――瀬古選手が入った頃の明治は、本当にもう同期というか一つ下の学年を含めて錚々たる選手がいたと思います。ポジション争いは凄かったですか?
僕は最初、ポジション争いにも入れていなかった状況でした。
1学年13人しか入れないですし、それこそ全国レベルの選手…代表に入っていたり、全国優勝するようなチームで主力だった選手が集まってくる集団だったので、もちろんそれは凄かったですね。
――そうしたなかで、4年生の時には大学3冠というか5冠を達成されました、あの1年で一番印象に残っていることは?
一番印象に残っているのは、やっぱりインカレで優勝できたことですかね。最後というのもありましたし、ちょうどその時、僕の誕生日だったので、色々重なって印象に残っています。
――桐蔭横浜大との決勝戦ですよね、延長戦に入ってという凄い試合でした(※スコアレスからの延長戦3-1で明治が勝利)。1年の締めくくりだった分、気持ちもかなり入っていました?
その時はあまり気負いとかもなく、チームとしても本当にシーズン最後のタイトルがかかった試合で、どちらかというと自信のほうが強かったです。あとはゲームを楽しむ気持ちが強かったのでリラックスしてプレーができていました。
――当時のチームメイトの中から、森下龍矢選手が日本代表に入りました。あの時の明治のメンバーから初めてのA代表デビュー。大学時代の森下選手はどんな選手でした?
今とそれこそプレースタイルは全く変わらないです。推進力であったり、何事にも本気でプレーするのでそういったところかなと思います。
――森下選手が日本代表としてプレーしていることは、瀬古選手にとってもやはりすごく刺激になっていますか?
同期にそういう選手がいることは、自分としても刺激にはなります。
――当時の関東大学リーグですが、同学年に筑波大の三笘薫選手がいました。大学リーグにおける三笘選手の存在は当時どんな感じでしたか?
薫に関しては、筑波で下級生の頃からずっと試合に出ていたので、フロンターレ加入が決まっていて、ドリブルなどが結構手に負えない選手だったなというイメージがあります。
※当時関東1部を席巻していた三笘。まだ線が細くプレーの波も大きかったが、五輪代表の森保一監督はその才能を高く評価し代表に呼び続けていた。
――明治大として当時、三笘選手への対策はかなりやっていました?
本当に個人としての能力が凄いですし、そもそも筑波が強かったので、チームとして対筑波というところでしかやっていなかったと思います。結構前の記憶なので曖昧ですけど(笑)。
――当時の彼を思い返しつつ、現在のプレミアリーグや日本代表で活躍する三笘選手を見て感じるところは?
もう本当に一言、すごいなと思います。
フロンターレに僕が来て、彼がフロンターレに帰ってきたシーズンオフの時とかに会って話をしたりしますけど、もともと彼が持っている意識の高さはもちろんそうですし、ベルギーにいた時の話であったり、今のブライトンの話とかも聞いたりすると、刺激は受けますよね。
今の彼を凄いなと思うと同時に、やっぱり同学年なので自分もそういうところまで上り詰めたいという気持ちもあります。遅かれ早かれ、同じところに行けたらいいなと思っています。
就活を経て、大学サッカーからプロの舞台へ
――瀬古選手にとって大学サッカーで感じたことや掴んだものは?
サッカーのプレーもそうですけど、とくに僕は明治の環境にすごく感謝しています。いち社会人としての準備の部分が4年間で出来上がったなというのがあって。
目上の方との接し方もそうですし、自分を律することのできた4年間でした。サッカーもそうですし、私生活というか一人の人間としてというところもそうです。そういう4年間だったと思います。
――ちなみに、大学では就活をされて、クレジットカード会社に内定されていたと聞きました。カード会社を志望したのはなぜです?
3年生の時に部の会計をやっていて、お金の管理をしていたのでその経験を生かして銀行などお金関係のところに就職したいなと思っていました。
それでカード会社を受けたというのが一つと、当時はまさかその後コロナになるとは思っておらず、2020年に東京オリンピックが控えていたので、キャッシュレス化が進んでいくと考えてカード会社を一番に選択しました。
――そこから2020年に横浜FCへ加入されて2シーズン在籍、2年目にキャプテンも務められました。横浜FCでの2年間はやはりすごく大きなものでしたか?
そうですね。学生の時に横浜FC加入が決まって、特別指定選手にしていただいたので、基本的に平日は横浜FCで練習、週末は大学のほうで試合に出るというのが多かったです。プロ1年目だからといって初めて練習とかそういう感覚もなかったので、すんなり入れました。
とはいえ、最初から主力という感じではありませんでした。キャンプでチャンスをもらい、当時の開幕はリーグよりも先にルヴァンカップがあったのでそこで出場機会をいただいて、掴み取れたというのがありました。
横浜FCでの2年間で僕のプロとしてのキャリアはすごく変わったというか、今の良い方向に持っていけている要因はあそこにあったかなと思っています。
――瀬古選手の強みの一つとして、プレースキックがあります。当時チームメイトだった中村俊輔さんに教わったり盗んだりしたことはありました?
1年目(2020年)はそんなにでしたけど、2年目は一緒にフリーキックの練習をしてもらったりしていました。
それこそ、俊さんが蹴っているのを間近で見せてもらったりとか。もちろん真似は全くできないんですけど、似たような感覚の蹴り方をレクチャーしてもらったりということはありましたね。
明治大学3冠メンバー、森下龍矢が日本代表初招集!当時の「明治スタメン」が凄すぎる
「納得できないこともあった」という、川崎フロンターレ移籍後の日々について聞いたインタビュー後編は1月12日(金)公開予定。お楽しみに!
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