初代ロードスター(NA型)は1989年に誕生し、ライトウェイトスポーツカー復権のきっかけを作った(写真:マツダ)

2024年、マツダの2人乗りオープンスポーツカー「ロードスター」が、生誕35年目を迎える。

1989年に「ユーノス・ロードスター」の名で登場し、今も国内で唯一無二のオープンスポーツカーとして根強い人気をほこる、言わずとしれた1台だ。

ロードスターが長らく、人気を維持している理由は数多くある。しかし、ロードスターを25年以上にわたり愛車としてきた筆者が思うに、もっとも重要なことはやはり「ライトウェイトスポーツであること」だ。

20〜30年以上経った今でも語り継がれるクルマが、続々と自動車メーカーから投入された1990年代。その頃の熱気をつくったクルマたちがそれぞれ生まれた歴史や今に何を残したかの意味を「東洋経済オンライン自動車最前線」の書き手たちが連ねていく。

ライトウェイトの魅力と苦悩

ライトウェイトスポーツは、戦後間もない英国で大いに盛り上がったクルマのジャンルだ。小さく軽量、そして後輪駆動(FR)のオープンカーが、数多く生まれて人気を集めた。

ロータス「エラン」「MG-A」、トライアンフ「スピットファイア」、オースチン「ヒーレー」など、綺羅星のような名車が存在する。


1960〜1970年代に生産された初代ロータス「エラン」(写真:Lotus Cars)

小さいから軽快に走るし、安価であったことも人気を集めた理由だ。ただし、パワーがないため速いわけはなし、決して豪華なクルマでもない。

「軽快で楽しい」と「手の届く安価」の2点。これがライトウェイトスポーツカーの神髄となる。ロードスターは、その神髄を再現したからこそ、世界中にファンを生むことに成功したのだ。


1989年に発売した当初のユーノス・ロードスター(写真:マツダ)

しかし、ライトウェイトスポーツの魅力は、理解されづらい。実際に乗ってみなければ、ピンとこないはずだ。「スポーツカーなのに速くない」「2人乗りは不便」「屋根が幌なんて危険だ」といった、反対意見も数多くある。

実際に、ロードスターが生まれた1980年代後半は、世界的にライトウェイトスポーツカーは絶滅状態だった。

ちょうど1980年代は、室内を広くできる前輪駆動車(FF)が新しくて便利な車種として普及して、後輪駆動車(FR)を駆逐していった時代である。景気が上向きだったことで、「高性能で速い」ことも重視されていた。

そのため、1980年代中盤にロードスターの開発が始まったときは、マツダ社内でもさんざんに反対意見が出たという。しかも、その開発はマツダ社内ではなく、英国の開発会社に委託する予定だったというから、当時の様子がうかがえる。


V705と呼ばれるロードスターのプロトタイプ(写真:マツダ)

初代(ユーノス)ロードスターの開発担当者である平井敏彦氏の最初の仕事は、社外への委託を“取りやめること”であったという。また、マツダ社内でロードスターの開発をスタートするときは、スタッフを集めるのに苦労したとも聞く。

ときはバブル全盛期に向かう1980年代後半であり、マツダ社内では「売れそうもない」「古臭い」ライトウェイトスポーツカーは、ほぼ“いらない子”扱いであったのだ。

では、なぜマツダは、そんな“いらない子”を開発しようと考えたのか。

「オフライン55プロジェクト」での挑戦

そこには、1980年代のマツダの苦しい台所事情に理由がある。端的に言えば、1980年代前半のマツダのビジネスは停滞しており、車種も限られていた。

1980年に発売された5代目「ファミリア」は大ヒットしたが、それ以外のモデルの売れ行きはいまひとつ。ファミリアの販売がピークに達した1982年は、国内販売の実に48.6%をファミリア1車種で占めていたのだ。


5代目ファミリアは「第1回・日本カー・オブ・ザ・イヤー」を受賞している(写真:マツダ)

ライバルとなるホンダは、「シティ」や「CR-X」など、次から次へと新規車種を投入し、ヒットを続出する一方、マツダは新規車種がほとんどなく、ファミリアや「カペラ」など、主力モデルのバリエーションで市場のニーズに対応していた。

そこで1983年、マツダは「オフライン55プロジェクト」をスタートさせる。これは、商品化される可能性は五分五分でよいから、ユニークな新商品の提案を優先するというもの。そのうえで、検討や承認といった開発のプロセスを大幅に簡略化。新たな商品が生まれる素地を整えたのであった。

これがロードスター誕生のスタート地点である。ちなみに「MPV」や「オートザム・キャロル」も、このプロジェクトから誕生したクルマだ。

その後、マツダは1983年に「売上高2兆円」「年間生産台数200万台」を目標に掲げるなど、攻勢に転じる。

1985年の「プラザ合意」における急激な円高により経営は悪化するものの、それでも拡大路線を堅持。1988年に「マツダ・イノベーション(MI)計画」を策定。年間販売台数277万台(うち国内80万台)という野心的な目標が設定された。3つあった国内の販売チャンネルを5つに拡大したのも、そうした中での施策の1つだ。


「FD3S」の型式名で知られる3代目RX-7は当初、アンフィニブランドのモデルであった(写真:マツダ)

バブルのピークに向かっていく1980年代終盤、マツダは「マツダ」「アンフィニ(元マツダオート)」「オートラマ」「ユーノス」「オートザム」の5つの販売チャンネルを用意し、それぞれから数多くの新型車を大量に投入する戦略に出た。

その中の1つがユーノス・ロードスターであり、今のロードスターとなる。

シーマ、NSX…、高級・高性能が求められた中で

1980年代終盤の日本は、豪華で高性能なクルマが人気を集めていた。

1988年に発売された日産の高級車「シーマ」は、驚くほどのヒットを記録し、「シーマ現象」とまで言われた。ホンダからは和製スーパーカーとして初代「NSX」が1989年に発表、翌1990年に発売になった。


グロリアシーマ/セドリックシーマとして発売された初代シーマ(写真:日産自動車)

当時、日本車最高の280馬力を達成した日産「フェアレディZ(Z32)」も1989年に生まれていたし、「スカイラインGT-R(R32)」も同じ1989年の発売だ。

そんなバブルの喧騒の中、1989年9月にユーノス・ロードスターが誕生した。1.6リッターのエンジンの最高出力は、わずか120馬力。内装は質素そのもの。しかし、価格は174万8000円からと安かった。


1.6リッターのエンジンは1993年のマイナーチェンジで1.8リッターに拡大される(写真:マツダ)

豪華で高性能なものが好まれる世相をよそに、ロードスターは大きな反響を呼んだ。予約抽選のため、ディーラーの前に夜通し並ぶ列ができるほどの騒ぎとなった。これは、200万円を切る、誰もが手にできる価格設定であったことが大きいだろう。これもまた、ライトウェイトスポーツだからこその理由だ。

そんな初代ロードスターは、バブル崩壊などにも負けず、8年間のモデルライフの中で約43万台が生産される、文句なしのヒットモデルとなった。

その間には、BMW「Z3」、メルセデス・ベンツ「SLK」、ポルシェ「ボクスター」、フィアット「バルケッタ」、「MGF」といった、さまざまなオープン2シーターが登場。絶滅状態にあった市場を再び盛り上げた。


BMW「Z3」は1.9リッターエンジンを搭載して登場(写真:BMW)

各車ともロードスターのヒットを追うように、1995〜1996年ごろに登場している。FFやMR(ミッドシップレイアウト)など、レイアウトはさまざまだが、軽量なオープン2シーターという点では共通する。

1989年に登場したロードスターが、1990年代に新たな市場を生み出したといえるだろう。オープン2シーター文化を復権させたといってもいいかもしれない。いずれにしても、ロードスターなしに1990年代の自動車文化は語れない。

ロードスターはその後、1998年に第2世代(NB型)、2005年に第3世代(NC型)、2015年に現行の第4世代(ND型)へと続いてゆき、マツダのブランドを象徴するクルマとなったのはご存じのとおりだ。


4代目ロードスターは2023年10月5日に大規模なマイナーチェンジを発表した(写真:マツダ)

ライトウェイトスポーツの神髄

ロードスター最大のポイントは、世代が変わっても、「軽く」「安価」「後輪駆動(FR)」「幌のオープンカー」というライトウェイトスポーツの神髄を守り通したこと。その神髄を武器に、いわゆる「失われた20年」という日本の不景気の時代も、しぶとく生き延びたのだ。

また、初代ロードスターが提唱した「人馬一体の走り」は、いつの間にかマツダ全体の特徴にもなっていた。「人馬一体」もまた、ライトウェイトスポーツならではの魅力だ。


東洋経済オンライン「自動車最前線」は、自動車にまつわるホットなニュースをタイムリーに配信! 記事一覧はこちら

ライトウェイトスポーツという本質を守り続けたことで、ロードスターがマツダというブランドを象徴する存在にまで成長したのである。

振り返ってみれば、「車種が足りない」「空前の好景気」「マツダの5チャンネル拡大路線」という背景がなければ「ロードスター」が生まれることはなかっただろう。時代が生んだ奇跡の存在。それが「ロードスター」と言えよう。

(鈴木 ケンイチ : モータージャーナリスト )