塚本晋也、世界が注目した映画『鉄男』制作秘話。当時はお金もなく…完成には社会人時代の“恩人”の存在「足を向けて寝られません」

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1989年、1人で製作・監督・脚本・撮影・照明・美術・特撮・編集・出演の9役をこなした異色作『鉄男』が第9回ローマ国際ファンタスティック映画祭でグランプリを受賞し、一躍注目を集めることになった塚本晋也監督。

『東京フィスト』、『六月の蛇』、『野火』、『斬、』など多くの作品を世に送り出し、映画監督としてだけでなく、俳優としても活躍。『とらばいゆ』(大谷健太郎監督)、『沈黙−サイレンス−』(マーティン・スコセッシ監督)、連続テレビ小説『おかえりモネ』(NHK)など多くの映画、ドラマに出演。

第80回ベネチア国際映画祭で日本人初のNETPAC賞(最優秀アジア映画賞)を受賞した映画『ほかげ』が渋谷ユーロスペースで公開中の塚本晋也監督にインタビュー。

 

◆図書館での上映に300人以上が集まって…

東京・渋谷区で生まれ育った塚本監督は、小さい頃から見ていた『ウルトラQ』(TBS系)などに衝撃を受け、中学時代から自主映画を作りはじめたという。

「中学2年生のときに機械好きの父親が8ミリカメラを買ったのを横目で見て、『あれがあれば映画ができるのか』って思って。映画に興味が増していた頃だったので、そのカメラを借りて作ったのが最初でした」

――すぐに使いこなせたのですか?

「簡単なんですよね。ボタンを押せばいいという感じで(笑)。ピントもおおむね3つぐらいしかないんですよ。近くと、もっと遠くとかぐらいなので、大体合わせて」

――最初にご自身で撮ったときはどんな感じでした?

「すごくワクワクしました。当時は8ミリフィルムで、3分20秒ぐらいしかないんですけど、お小遣いが1500円ぐらいで、フィルムが1本1000円、現像が500円だったから、1カ月に1本撮れるか撮れないかというような感じではありましたけどね。

でも、撮るときもエキサイティングでしたけど、あれを見るときに、今のビデオとかと違って1回部屋を暗くして、それでテカテカテカッて回して、壁にカレンダーの裏とかを貼って映写する、あのときはちょっと堪(こた)えられないものがありましたね」

――中学生のときには、もう作品を上映されていたとか。

「中学校3年生のときにやっと形になって。10分ぐらいの映画でしたけど、学校の図書委員長だったので、図書委員長の権限で図書室なりの本に関するイベントをやって、それに絡めて自分の映画も上映したんです。

文化祭でもないのに、大体学校の全員が来るぐらいの本当に結構にぎやかなイベントになって、全校生徒が300人くらいでしたけど、300人以上が集まりました」

――ご自分の映画を初めて皆さんに見ていただいたときはいかがでした?

「やっぱり興奮ですよね。当時は、音と映像を合わすことができなかったので、カセットテープで別に音を出していたんですけど、必死でした。やっている最中は、無我夢中で何が何だかわからなかったですね(笑)。

原宿に学校があったんですけど、表参道のところでクラスの友だちがアイスクリームを食べながら、『良かったよ』って声をかけてくれたのが非常にうれしい記憶として残っています」

――とてもいいスタートでしたね。

「そうですね。そんなに大したものではないですけど、自分としてはとてもいいスタートだったと思います」

――そのときにはもう映画監督になろうと思っていたのですか?

「中学校3年生になると、いつか大人になったら大きいスクリーンに映したいなというのはありました。ただ、どこかで現実的でした。漠然と映画監督になりたいと思ったんじゃなくて、当時は2本立てをやっている映画館もあったので、クロード・ルルーシュの映画とかもやっていて。

『男と女』という映画がすごく小さいカメラで、監督がカメラを担いで撮っているという話を聞いて、そういうのがいいなとは当時から思っていた記憶があります。いまだに僕もそういうやり方で撮ったりしていますけど」

※塚本晋也プロフィル
1960年1月1日生まれ。東京都出身。1988年、『電柱小僧の冒険』でPFF(ぴあフィルムフェスティバル)アワードのグランプリを受賞。1989年、劇場映画デビュー作『鉄男』でローマ国際ファンタスティック映画祭グランプリ受賞。以降、海外の映画祭の常連となり、『六月の蛇』はベネチア国際映画祭コントロ・コレンテ(のちのオリゾンティ部門)で審査員特別賞、『KOTOKO』はオリゾンティ部門で最高賞のオリゾンティ賞を受賞。自身の監督作のほとんどに出演するだけでなく、ほかの監督作にも多数出演。2002年に第57回毎日映画コンクール男優助演賞を受賞。同コンクールでは2015年に『野火』で監督賞と男優主演賞をW受賞。2018年には『斬、』で男優助演賞を受賞している。現在、監督最新作『ほかげ』が渋谷ユーロスペースで公開中。

 

◆大学卒業後、CM制作会社に就職

高校時代は4本の映画を制作し、日本テレビ主催のシネマフェスティバルで入賞を果たす。幼い頃から絵を描くことが好きだったという塚本監督は、高校・大学では美術学科を専攻する。

「絵の感覚はずっと基本にしておきたいと思っていましたけど、将来職業にしようというのはなかったかもしれないですね、最初から。これでは職業にはならないと思っていました」

――卒業されてCM制作会社に就職されたそうですね。

「そうです。本当は大学にいる間に、1本映画を作りたかったんです。16ミリ以上は映画として認知されるので作りたかったのですが、それができなくて。自分としては、1回やろうと思ったものができなかったので、初めての大きな挫折感を味わって。でも、だからといって、映画の会社に入るのも難しくて。門が完全に閉じていたので、CMの会社に就職しました」

――門が閉じていたというのは、映画会社がですか、それとも受ける気がなかったということでしょうか?

「向こうがというか、その当時は今みたいに映像がたくさん作られていませんでしたし、会社が助監督を募集しているということもなく、どうやって入っていいのか全然わからない。あと、何か暗いイメージが自分の中で勝手にありました。日本の映画の助監督さんになるということに。

そんなことを言ったら申し訳ないですけど、なんとなく35歳とか40歳ぐらいにやっと監督になって青春映画を撮るということに違和感を感じていたんですよね。CMの会社には何か不思議な明るさを感じたので、明るい世界をちょっと浴びようという気持ちがあって、そこで1年半本当に頑張って、演出にさせてもらいました」

――CMの制作はいかがでした?

「初めて大人の世界に入ったということもあり、そしてまた、その会社が小さい会社ですけど、とてもすばらしい会社で、いい作品をいっぱい作っていたんです。

電通の優秀なクリエイターの人が、そのプロダクションに来て一緒にCMを作るわけですけど、本当に大人の世界とか、クリエイティブな世界というものの一番原型的なものをいろいろ垣間見せてもらった期間でしたね」

――CM制作をしながら劇団も作られていたそうですね。

「何だかムズムズしてしまったんですよね(笑)。大学生のときに一緒にやっていた演劇の仲間たちの可愛い顔がチョロチョロッてどうしても浮かんできて、またそこに戻りたいという気持ちがだんだん強くなってきて。

ちょっと緊張して社長に演劇をやってもいいか聞いてみたら、『いいよ』って簡単に言われたのでびっくりしたんですけど、それでお芝居を2本ぐらいはやりました。

でも、両立ができなくなったんですよね。社長も『いいよ』って言いながらも外国のロケの仕事を入れてきたりするので両立不可能になってしまって。普通だったら会社に残らなきゃいけないんでしょうけど、芝居のほうになっちゃったんですね(笑)」

――劇団を作ることも許してくれた社長は、辞めると言ったときはすんなり聞いてくれたのですか?

「すんなりじゃなかったです。『ダメだよ』って言いました。それで、どうしても言うことを聞かないとわかったときに、本当にすばらしい社長で、僕がまた戻って来られるように、『1年間芝居をして、そのあとでまた戻りたかったら戻ってきて。その間は給料を半分出すから』って言ってくれて。

結局、会社には戻らなかったので、本当にただ(給料の半分を)もらってしまったんですけど。さらには、『鉄男』という映画は、そこの会社のネガ編集のおじちゃんに頼んで現像してもらったんです。

最後にお金は払いましたけど、そのときは払えなかったので、『すみません』って言って現像してもらって。さらには、そこの試写室で撮ったフィルムもちょっと映してチェックさせてもらいました。

そこのネガ編集のおじちゃんは、僕が働いているときはそんなに親しくしていたわけじゃないのにすごく優しくしてくれて。あのおじちゃんのおかげで現像ができたので、おじちゃんにも会社にも足を向けて寝られません。もちろん最後にはちゃんとお支払いさせていただきました」

――『鉄男』はそうやって生まれたのですね。

「そうです。苦心惨憺(くしんさんたん)して。いつも苦心惨憺ですけど(笑)」

 

◆劇場映画デビュー作がグランプリ受賞

劇場映画デビュー作『鉄男』は、肉体が鉄に蝕まれていく男(田口トモロヲ)の壮絶な戦いを悪夢的な映像で描いたもの。塚本監督は、製作・脚本・出演・撮影・照明・美術・特撮・編集の1人9役を務めた。

――『鉄男』は、ローマ国際ファンタスティック映画祭でグランプリを受賞されて話題になりました。海外の映画祭に日本の監督が参加する先駆けに。

「調べてみると、もっといらっしゃることがだんだんわかってきたんですけど、こんなちっちゃな自主映画みたいなものを海外の映画祭に戦略的に持っていくというのはあまりなかったので、たしかにそうですね。

そういう自主映画みたいなのが海外に行くきっかけみたいなことには、協力者のしっかりしたサポートもあります。そういうことをやろうと言ってくださる方がいたからで、当然僕ひとりじゃ全然無理なことなんですけど」

――監督ご自身は、海外の映画祭で勝負しようとは考えていなかったのですか?

「はい。『鉄男』のときはまったく考えていませんでした。『鉄男』は、東京国際ファンタスティック映画祭の小松沢陽一さんに、『ちょっとコメントを書いてください』って頼んだら、ローマ国際ファンタスティック映画祭に行くので『鉄男』を持っていっていいかと聞かれたので、よくわからなかったんですけど『お願いします』って。字幕をつけるお金もなかったので、そのまま持っていってもらったんです。

それで、待つともなく待っていたらグランプリっていう話を聞いて、本当に信じられないというか、びっくりもせず、何かヘラヘラ笑っていた記憶がありますね(笑)」

――実感はなかったのですか?

「はい。『何だ?そりゃ』という感じでちょっとヘラヘラ笑っていました(笑)。小松沢さんが帰ってきて、僕にしっかり証明してくれるまでは信じられなかったです。小松沢さんが『本当だよ』ってトロフィーを渡してくれたときに、ようやく本当だったなと実感した記憶があります」

――海外の映画祭でグランプリ受賞ということで話題になりましたね。

「そうですね。ローマ国際ファンタスティック映画祭で、いろいろ取り上げてくださったのも、上映のいい追い風になりました」

――『鉄男』が劇場で公開されてご自身ではいかがでした?

「その前の『電柱小僧の冒険』がPFFアワードのグランプリを獲って、その次に撮った『鉄男』で、ローマでグランプリをいただいたということで、何か『映画を撮ってもいいんだ』って許しを得たような気になりました。

それまでは、何だか水面下に潜っちゃっていた感じでモヤモヤとしていたので、やっと日が当たってきたという感じでしょうかね、そのときは」

――『鉄男』の次に沢田研二さん主演の『ヒルコ/妖怪ハンター』、メジャー映画の監督をされました。

「もともとが、いつか映画監督になりたいと10代のときに強く思っていたので、そういう話が来たことは本当にうれしかったです。ましてや原作が、諸星大二郎さんという大好きな漫画家の方でもありますし、かなり自由性もあったので、本当に喜んでという感じでした。

僕はコマーシャルの演出をしていたときに、かなり大人の方々とお付き合いをしていたので、それとあまり変わらない感じがして、変に舞い上がってしまうこともなかったですね。でも、知らないことばかりだったので、いろいろ教えていただきはしました」

――メジャー作品だと、規制があったりするのでは?

「思ったより規制はなかったです。そうは言っても多くのスタッフに動いていただいていて。ちょっとボタンをかけ間違うと、ズルズルッとかけ間違っちゃうわけですけど、かなり思ったようにできた現場でした。映画自体は本当にスタッフの方がすごく頑張って理解も示してくれてできたので、本当に可愛い作品です」

1992年には『鉄男II BODY HAMMER』を製作、世界の40以上の映画祭に招待され、世界各国を回ることに。

次回は、『東京フィスト』、『六月の蛇』、俳優として出演した映画『とらばいゆ』、『野火』などの撮影エピソードも紹介。(津島令子)