1992年阪神快進撃を有田修三が振り返る「コーチは酒飲んでケンカ。強くなるはずやね」
1992年の猛虎伝〜阪神タイガース"史上最驚"の2位
証言者:有田修三(後編)
前編:元阪神コーチ・有田修三が衝撃の告白はこちら>>
1991年はチーム防御率がリーグ唯一の4点台だったのが、92年は唯一の2点台。タイガース史上"最驚"2位の大きな要因が、一気に好転した投手陣だった。その背景にあったのは、投手コーチの大石清と、同年からバッテリーコーチに就任した有田修三の指導。とくに有田は、前年までの阪神にはなかったバッテリーの個別ミーティングを導入し、作戦面からあらためた。
そのうえで、主に若手の山田勝彦がマスクをかぶった際、要所に限ってベンチからサインを出した。当時の日本球界では考えられないことだったが、ダイエー(現ソフトバンク)時代の91年に渡米した有田が、1Aでの経験を生かして採り入れた。現役引退の翌年、他球団でのコーチ業ながら、なぜそこまで前例のない改革を推進できたのか。当時41歳だった有田に聞く。
現役時代は近鉄、巨人、ダイエーで活躍した有田修三氏 photo by Sankei Visual
「阪神に入った時、ワシは怖いもの知らずやった。1Aのチーム事情で、交代で監督したり、三塁コーチャーしたり、作戦も全部やったり、いろいろ経験させてもらったこともあったかもわからん。何というか、人に気を遣うとか全然なかった。だからまず大石さんに言うたんよ。あの人、かなり怒るから、『とにかく怒るのやめよう』『おだてよう』って。とくに、マイクはね」
マイクこと仲田幸司は、プロ4年目の87年に8勝を挙げるも、以降は伸び悩み、91年は1勝に終わった左腕。有田は初めて間近に接し、勝てない原因は技術面以上にメンタル面にあると見ていた。大石は有田の近鉄時代に投手コーチだっただけに、何でも気軽に話せた。
「マイクね、あいつ、ええヤツやねん。性格も。だけど、めっちゃ神経質やねん。足の上げ方、ちょっと違うだけでフォームがバラッバラになんねん。ほんでそれを言われれば言われるほどバラバラになんねん。だから大石さんに『マイクはもう絶対、怒らんで、持ち上げよう』と。そんでマイクにはスライダーを覚えさせたわけ。右バッターのインコースにスライダー」
当時の仲田はスライダーを投げていなかった。そこで有田は巨人時代、同じ左腕の宮本和知にスライダーを勧めた時と同様、仲田にその使い方を伝授。山田とともに、スライダーを使う場面、使う意図を説明した。すると、持ち上げられたうえに新球がはまり、仲田は5月に5勝を挙げて月間MVPを受賞。前半戦だけで9勝を挙げる活躍を見せた。
「その年はマイクのあと、6月に湯舟(敏郎)、7月に野田(浩司)、9月にまた湯舟や、月間MVP。そんでもって湯舟はね、どっちかって言うと勝ち気なほうじゃないから、木戸(克彦)が引っ張ったらうまいこと行くんちゃうかな、思ってた。実際、うまくいって、木戸も生き返ってよかったよ。ワシが阪神に入る頃に『辞める』言うとったの、引き留めてたから」
まさに木戸がその年、初スタメンマスクで組んだ相手が湯舟だった。6月14日、甲子園での広島戦、ノーヒット・ノーランを達成した試合。湯舟が新人だった前年に初めて組んだ捕手がベテランの木戸で、常に助言を受けていた。92年は初登板の巨人戦で勝ったあと、波に乗れず二軍降格も覚悟した時、約1年ぶりに木戸と組んで快挙を成し遂げたのだった。
「反対に、打線は打てんやったね。だからバッティングコーチの佐々木恭介、大変や。オーナーと球団のえらいさんとコーチ全員で会食の時、順番にひとりずつ呼ばれて話するわけよ。ワシら褒められるばっかりやのに、恭介はボロカス言われて、あとで怒りよったよ。ほんま、そのぐらい打てんやった。まあでも、カメと新庄、あのふたりでだいぶ引っ張ったからね」
【コーチ同士でケンカの日々】バッテリー担当の有田も、亀山努と新庄剛志、ブレイクしたふたりの若い外野手を頼もしく感じていた。いずれも「ええ選手」と見ていた。
「カメはね、チョンボするんよ。それをいつも、前の年のコーチにボロッカスに怒られとったらしい。で、チビってね、もう野球でけへんようになったって聞いたけど、ええ選手はね、チョンボもするもんなんよ、どっちか言うたら。だからワシ、大石さんだけやない、コーチ全員に言うたの。『怒るのやめようや。怒っても一緒やで』って。それでみんなギャアギャア怒らなくなった」
有田は近鉄時代、4つ年上のエース鈴木啓示にも「何してんねん! しっかり投げや!」と叱咤していた捕手。そのうえで怖いもの知らずになっていたから、大半が年上でも監督・コーチ会議では平気で意見できた。指導者が感情的になったところで、選手の技術は向上しないと理解していた。
「だけど、コーチ同士はようケンカしたよ。試合終わると、もっとこうせなあかんって言って酒飲んでケンカや。みんな気持ちが熱いから。トレーニングコーチの山本晴三に『もっと走らせんかい!』とか言うてね。年上やけども。そしたらグラスが飛んでくる、靴がボコーンって飛んでくる(笑)。それでもまた集まんねん。いま考えたら、強くなるはずやね。みんな本気やもん」
本気だから、中村勝広監督にも真正面から反論できた。5月、新庄の一軍昇格が検討された時、監督は「まだ早い。生意気だし格好も派手。もう少し勉強させないと」と言った。が、コーチ全員で「新庄を上げよう。絶対に活躍する」と進言したため、監督は渋々昇格させた。ただし、優勝争いの最中、コーチの進言がまったく通らない時があった。
勝てば阪神が有利になる、10月7日のヤクルト戦。3対1と阪神リードで迎えた9回裏。先発の中込伸が一死一、三塁とすると中村監督が動き、湯舟をマウンドに送った。田村勤が左ヒジの故障で離脱して以降、抑えは固定せず、実績ある中西清起が代役を務めたほか、先発の仲田も兼務していた。中村監督は「今いちばん安定している」と、湯舟にも兼務させようとした。
「その時、監督にワシと大石さんで話しとるわけよ。『湯舟は気が強くないから、絶対、抑えで使わんで』って。そしたら、使った。フォアボール、フォアボールで押し出し。大石さんとふたりで『ほれ見い』って言ってね。でも、湯舟が悪いわけじゃないねん。厳しい場面ではダメなんやから、違うとこでちゃんと使わなあかんわけ。それを見定めるのが監督の仕事やん」
満塁になった時、中村監督が「ちょっとマウンドに行って来てよ」と大石に言った。湯舟のリリーフに反対の大石は「あんたが行けよ」と返した。両者の間に深い溝ができ、オフに大石は二軍に配置転換されるのだが、その試合、湯舟に代わった中西が打たれてサヨナラ負け。痛過ぎる敗戦となったが、有田自身、捕手に出したサインで苦い記憶がある。
【何でサインを変えたのか...】10月1日の中日戦。1対1の同点で迎えた延長10回裏、中日の攻撃。二死一、二塁の場面で代打の矢野輝弘が打席に入った。マウンド上には左腕の猪俣隆。一打サヨナラの場面ながら、猪俣はテンポよく投げて1ボール2ストライクと追い込んだ。そこで有田は<インコースに真っすぐ>のサインを山田に出したのだが、猪俣がマウンドを外した。
「タイミング的にトントントンと行ってたから、パッとサイン出した。野球ってね、そういうタイミングがものすごく大事なわけ。それが外しよったんよ。だからワシ、その球、嫌がったと思ったんや。インコースのサイン、嫌がって外すヤツおるんよ。それでワシ、あいつナックルフォークみたいなボールよく投げてるから、それ投げたいんやろなと思って変えたんよ。
そしたら、三塁線にスコーンと打たれてサヨナラ負け......。サイン出して打たれたの、それ一回だけやねん。その一回が優勝争いの大事なとこやねん。何で猪俣がマウンド外したか、何でまたワシがサイン変えたか。それは悔いが残ってる」
31年が経過しても一球の悔しさが残る有田だが、それは優勝できると確信していたからこそなのか。近鉄時代にリーグ連覇の経験もあるコーチとして、当時、どう見ていたのか。
「ワシは優勝できると思えんかった。キャンプからずっと阪神の野球見てきて、最後に勝つための準備ができてなかったから。バントができなくなる、ピッチャーはストライク入らんようになる、と思っていたら案の定や。でも、それはそれでええねん。ワシは次の年に優勝に持っていければええな、と思ってた。思ってたんやけどね......」
球団による補強策の失敗もあり、93年も阪神は勝てず、4位に転落する。その後、長く低迷するのだが、有田自身は95年までコーチを務め、その後、近鉄でも指導。阪神では山田のほか関川浩一、近鉄では古久保健二、光山英和、的山哲也、藤井彰人といった捕手を育てた。この6人全員が指導者になったことが「ワシの誇り」と言う有田にとっての原点が、92年だった。
「それはすごい経験させてもらったからね。コーチなんて、本気じゃないヤツいっぱいおるんよ。自分が生きる道ばっかり考えて、選手に媚売って、上に胡麻すってな。でも、あの年の阪神は、自分の技術で選手を引っ張ろうと思うコーチばっかりやった。だからみんな熱かったし、本気だったし、ケンカするけどしょっちゅう集まったんよ」
(=敬称略)
有田修三(ありた・しゅうぞう)/1951年9月27日、山口県生まれ。宇部商から新日鉄八幡を経て、72年ドラフト2位で近鉄に入団。75年に正捕手となり、同年から2年連続してダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデングラブ賞)を獲得。86年トレードで巨人に移籍。88年には移籍後初となる2ケタ本塁打を記録し、カムバック賞を受賞した。90年ダイエーに移籍し、一軍バッテリーコーチ補佐を兼務していたが、91年に現役を引退した。引退後は阪神、近鉄でコーチを務めた