なぜ1992年の阪神投手陣は劇的に飛躍したのか 元阪神コーチ・有田修三が衝撃の告白
1992年の猛虎伝〜阪神タイガース"史上最驚"の2位
証言者:有田修三(前編)
「ワシ、あの年ね、大事なとこ全部、キャッチャーにサイン出してた」
1992年の阪神でバッテリーコーチを務めた有田修三は、開口一番そう言った。今でこそ、ベンチから捕手にサインを出すことは珍しくない。捕手が投手にサインを出す直前、自軍ベンチに顔を向けた際にコーチから出ているのだが、当時の日本プロ野球では考えられなかった。ではなぜ、有田は先駆者になったのか。往年の名捕手に導入の経緯を聞く。
92年、開幕スタメンに抜擢された当時高卒5年目の山田勝彦氏 photo by Sankei Visual
「前年の91年、アメリカにおったんや。1Aのサリナス・スパーズというチームにダイエー(現・ソフトバンク)の選手5人とヤクルトの選手5人を連れて。ワシはダイエーでまだ現役やったけど、コーチを兼任しとったから。サリナスはハイディ古賀(古賀英彦/元巨人)が監督で、日本の選手を受け入れていた。球団から『そこに行け』と言われてね」
有田は宇部商高から新日鉄八幡を経て、72年のドラフト2位で近鉄に入団。75年に正捕手となり、同年と76年にダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデングラブ賞)を受賞。以降は梨田昌孝と併用され「ありなしコンビ」と呼ばれたが、86年からは巨人で活躍して、90年にダイエーに移籍。バッテリーコーチ補佐を兼任し、91年には指導者として渡米していた。
「その時に知ったんや。アメリカのチームはほとんど、ベンチからキャッチャーにサイン出すねん。1Aでも、今のメジャーでもそうやねん。なんでや言うたら、キャッチャーの負担を軽くする。1球で勝ち負けつけるような負担を与えちゃいかんということで、ベンチが責任を負うためにサイン出してるわけよ。ああ、そんなんするんやなと。
で、アメリカにおる時に中村勝っちゃんから電話がかかってきて、帰って来て会ったら、『ちょっとセンターライン強化したいから、アリ、ウチに入ってくれ』って頼まれて。ダイエーを出るのは何も問題ないということで、阪神に入った。そしたら『勝たないかん』言うから、『ほならワシがサイン出すわ』言うて、日本でやり出した」
中村勝広監督自ら、有田に打診していた。バッテリーコーチ補佐を経験したとはいえ、まだ指導者としての実績はない。とくに両者に接点があるわけでもなかった。純粋に有田が持つ捕手としての技術、能力を認め、若手に伝授してほしいと考えたのだろうか。ひとつ言えることは、前年12月に甲子園球場のラッキーゾーンが撤去された影響である。
外野の左中間、右中間が8mも深くなったグラウンド。足も肩もある外野手が求められる一方で、攻撃面では本塁打が出にくくなる。守り重視の野球を目指すうえで「センターライン強化」が課題となれば、要の捕手の技術、能力向上は不可欠。そのなかで若い山田勝彦、関川浩一の成長が急務という事情もあり、新たなバッテリーコーチとして有田の名が浮上したようだ。
「バッテリーコーチといえばね、当時はベンチにほとんどいなかった。ブルペンに入るものだった。だからバッテリーコーチでベンチに入ったの、ワシが初めてや。勝っちゃんが『ワシの横におってくれ。それで何かアドバイスくれ』言うて。そういうこともあってワシを獲ったみたい。で、その時の阪神はブルペンコーチもいて、渡辺長助がやっとった」
監督が野手出身か、投手出身かで違いもあるなかで、その横にはヘッドなど作戦面を担当するコーチがつくことが多い。近年ではバッテリーコーチも監督の横につくが、当時はそこまで大事なポジションとの認識がなかったという。いかに同年の中村監督が、投手を含めた守りを重視しようとしていたかうかがい知れる。
「ただその時に、ピッチングコーチが大石清。ワシが近鉄におる時にコーチやったからよう知っとったんやけど、大石さんも『ワシの横に絶対座っとってくれ』言うて(笑)。それでふたりで話しながら、ピッチャーの交代とか、何のサイン出すとか。結局は、大石さんとワシで監督を支えるような感じやったね」
【開幕スタメン捕手は山田勝彦】監督のみならず、投手コーチからも頼りにされていた有田。いずれにせよ、その有田がベンチに入れて初めて捕手へのサインも出せたわけだが、92年の開幕スタメンを勝ちとった捕手は山田だった。高卒5年目で一軍出場は89年に1試合、91年に66試合と実績はなく、経験も浅い。どのようにサインを出していったのか。
「だから大事なとこ、試合が競ってきたり、ピンチになったら、ワシの顔を見ろと。ワシはベンチで座っとって、首を曲げて。傾けた方向で球種を伝える。ポンと投げてパッと見るだけやから相手は見てる間がないし、まだベンチからサイン出してないわけやし。瞬間的やから、わからんかったと思う。わかっとったら、相手ベンチから声出るもん。『真っすぐやで〜!』とかね」
瞬間的ゆえに複雑ではなく、見た目にわかりやすかったサイン。これについては、中村監督も、山田を筆頭に捕手も納得していたのだろうか。捕手の負担を軽くするためとはいえ、コーチがヒントを与えるのではなく、解答を教えるような指導でもある。前例がなかった当時は、どう受け止められたのか。
「監督は納得していたと思う。ただ、山田がね、大事なとこだけやでって言うてんのに、ワシがサイン出すまでずっと見るようになって参ったわ(笑)。そのうち、負け試合やどうでもええ時もずっと見るようになった。その時は、『行け!』言うてね」
善し悪しか、功罪か、ベンチからのサインでアウトをとる確率が高まる反面、捕手がそのサインに依存しかねないところもあったわけだ。若い捕手としては、ヒントよりも解答、正解がほしくなってしまうのだろう。ゆえに有田としては、大差がついて敗色濃厚となれば捕手自身のサインで打たれて勉強してほしいという思いがあった。
「ワシも現役時代、相手にやられながらいろんなこと勉強して覚えたから。でもね、山田はキャッチャーとして賢いヤツやねん。頭ええヤツやからね、ワシと細かいミーティングやったら、ある程度、その方針どおりに持っていくわけよ。そのミーティングはね、ワシと大石さんで『ピッチャーをどないかしよう』って、いつも話しておったのが始まりやった」
【防御率は4点台から2点台へ】中村監督が就任した90年から、阪神は2年連続最下位に終わり、チーム防御率も2年連続でリーグワースト。この投手陣を再建すべく、投手コーチの大石が各投手の心技体を向上させていく一方、有田は作戦面を担当。対戦相手のデータをすべて見て分析し、打者一人ひとりの攻め方などをミーティングでバッテリーに伝えていた。これも阪神では前例がないことだった。
「3連戦の頭にやる全体ミーティングとか、次の日になったら前の日のビデオを見るとか、そんなのはどこでもあるよ。でも、個人で細かくやるのは阪神にはなかった。試合前の練習終わったら先発ピッチャーとキャッチャーを集めて、今日はどういうやり方でどうやって攻めるか、というのを細かくやった。ワシが初めてやるから、目新しいというか、新鮮さがあったんやろね。
嫌がるヤツはひとりもおらんかった。逆にみんな『やりましょう』って言ってくる。練習終わってちょっと時間空いたら、『今日はやらないんですか?』って言ってくる。普通は、嫌がるヤツがおんねん。それがひとりもいないって珍しい。だから92年はピッチャーがよくなったんだと思う。大石さんの指導もあって、実際、ピッチャーだけはめちゃくちゃよかった」
数字を挙げれば、92年の阪神のチーム防御率は2.90でリーグ1位。前年はリーグ唯一の防御率4点台だったのが、唯一の2点台へと一気に好転した。もちろん各投手の素材のよさがあればこそだが、投手コーチとバッテリーコーチによって潜在能力が引き出された面もあるはず。そのうえで、ベンチからのサインが生かされたと言えそうだ。
「だけどプレッシャーかかるで、ベンチからサイン出すとなったら。それで面白かったのがチーフコーチの石井晶さん。横に座っとって、ピッチャーが追い込んだ時。『アリ、これフォークいったら打てへんぞ』って言うから、『そうすか。じゃあ、フォークいきますよ』って言ったら、『いやいやいや』って(笑)。責任とらないかんから、そんなもんね、チビるよ」
後編につづく>>
(=敬称略)
有田修三(ありた・しゅうぞう)/1951年9月27日、山口県生まれ。宇部商から新日鉄八幡を経て、72年ドラフト2位で近鉄に入団。75年に正捕手となり、同年から2年連続してダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデングラブ賞)を獲得。86年トレードで巨人に移籍。88年には移籍後初となる2ケタ本塁打を記録し、カムバック賞を受賞した。90年ダイエーに移籍し、一軍バッテリーコーチ補佐を兼務していたが、91年に現役を引退した。引退後は阪神、近鉄でコーチを務めた