梨田昌孝が語る「10.19決戦」 後編

(中編:第1試合9回裏の投手交代の真相 吉井理人→阿波野秀幸「ボールの判定にカーっとなってしまって...」>>)

 近鉄vsロッテのダブルヘッダー「10.19決戦」のエピソードを梨田昌孝氏に聞く後編では、引き分けで優勝を逃すことになった第2試合、現役の最後にマスクを被った時の心境などを語ってもらった。


ロッテとの10,19決戦の第2戦で引き分け、優勝の可能性がなくなり肩を落とす近鉄ナイン

【互いのベンチから飛んだヤジ】

――ダブルヘッダーの第1試合を勝利し、その23分後に第2試合が始まりました。当時のパ・リーグには試合時間に関する規定(※)がありましたが、試合中にそのことは気になりましたか?

(※)「9回終了時点で同点の場合、最大で12回までの延長戦を行なう」という規定があったが、「試合開始から4時間を経過した場合は、そのイニング終了をもって打ち切り(ただし、8回が終了する前に4時間を経過した場合は9回終了まで続行)」という規定もあった。

梨田 気になりましたね。第1試合は9イニングで勝たなければいけませんでしたし、第2試合は4時間という時間の制限があって......。イニングや時間との戦いという側面もあって、しっくりきませんでした。決まりごとなので仕方ない部分もあるのですが、やはり焦りましたね。

――第2試合は第1試合にも増して異様な雰囲気でしたし、仰木彬監督もストライクの判定をめぐって抗議をしていましたね。

梨田 抗議もそうですし、お互いのベンチからのヤジがすごかったです。相手チームのコーチやアンパイアに対しても、いろいろなことをワーワー言っていました。

 あと、何年か経った後、当時ロッテの監督だった有藤通世さんと話した時に聞いたのですが、9回裏に有藤さんが牽制タッチアウトの件で「走塁妨害じゃないか!」と抗議をしましたよね。その時に仰木さんが近くに来て「はよ、せえや」みたいなこと言われ、有藤さんはカチンときたようです。

 その抗議も含めて時間との戦いもあったので、加藤哲郎がロッテのバッターに対して「打席に早く入れ!」みたいなことを言ったり、ベンチにいるみんなは興奮状態が続いていました。

――川崎球場はベンチからホームベースまでの距離も近いですし、お互いのベンチで出している声がよく聞こえそうですね。

梨田 そうなんです。ファウルゾーンが狭いので、相手ベンチまでの距離もすごく近く感じます。この試合は満員でしたけど、普段は1000〜1500人ぐらいのお客さんしかいないので、何を言っているのかも丸聞えでしたよ(笑)。

【阿波野の痛恨の一球に思うこと】

――この試合は納得のいかない判定が多かったですか?

梨田 僕はスタメンではなかったので、ピッチャーの球を全部受けたわけじゃないですが、ベンチから見ていて「惜しい球はストライクをとってほしいな」という思いでした。横から見ているのでコースはわからないのですが、高さはわかるので。他の選手たちも同じ思いだったでしょうし、選手たちが露骨に口に出していたこともあったと思います。

――第1試合に続き、第2試合も接戦になりました。8回表にラルフ・ブライアントがソロ本塁打を放って近鉄は4−3とリードを奪いましたが、8回裏から登板した阿波野秀幸さんが高沢秀昭さんにソロ本塁打を打たれて同点に追いつかれました。

 この時、キャッチャーの山下和彦さんは真っ直ぐのサインを出し、阿波野さんが首を振ってスクリューボールを投げたと聞きます。梨田さんはこの場面をベンチからどう見ていましたか?

梨田 あの時は追い込んでからスリーボール・ツーストライクまでいきました。高沢には盗塁があったので、フォアボールを出したくないという意識もあったはず。阿波野は「スクリューボールを低いところに投げておけば」という自信があったんでしょうけど、裏を返せば自分の真っ直ぐの球威が落ちていることを自覚していたんじゃないかと思うんです。連投は連投でも、"当日の連投"でしたから仕方ないんですけどね。

 結局、阿波野は腕がしっかり振れず、ストライクからボールになる手前で叩かれたというか、うまく拾われてしまいました。川崎球場はフェンスが高いので、打たれた瞬間、僕らはベンチで「フェンスに当たれ!」と叫んでいました。ボールはわずか数十センチ上を通過した気がするんですが、ホームランになってしまいました。

――打たれた阿波野さんは、マウンドでうなだれていました。

梨田 僕らもあのホームランでガクンときましたね。「阿波野でやられたら仕方ない」というところはあったんで。

――高沢さんを迎えた場面、梨田さんが仮にマスクを被っていたとしたら、山下さん同様にストレートのサインを出していましたか?

梨田 あの時は、確かスリーボール・ツーストライクになる前に、ワンボール・ツーストライクと追い込んだカウントになったはず。山下に対しては、「もうちょっと早く、インコースに真っ直ぐをいってもいいな」と思っていました。スリーボール・ツーストライクになると、腕を振れなくなりますから。

 もう少し有利なカウント、例えば平行カウントぐらいで腕を振ったらスクリューボールで空振りを取れたかもしれない。逃げ道がなくなった状況からスクリューボールを投げたので、腕が思い切りよく振れずにボールがうまく落ちませんでしたね。

【時間切れの10回裏は「正直、守りたくなかった」】

――8回裏に高沢さんのホームランで4−4と追いつかれた後、9回の攻防は両チームとも無得点。9回裏には有藤監督の9分間にわたる抗議があり、抗議が終わった時点で試合時間は3時間40分ほど経っていました(規定の4時間まで残り約20分)。

梨田 そうでしたね。結局10回表も近鉄は点を取れませんでしたし、10回裏のロッテの攻撃が始まる時点で、試合時間は残り3分しかありませんでした。

――梨田さんは10回裏にマスクを被りましたが、どんな心境でしたか? 現役最後の守備でもあったわけですが。

梨田 勝つ道がなくなって優勝もなくなり、間もなく時間切れになる状況でしたから、もう守らなくていいんじゃないかと思っていました。正直、守りたくなかったですよ。試合を成立させるだけの守りでしたから。「これが俺の最後の現役の守備か」とも思いましたね。

――現役最後にマスクを被るのがこのシチュエーションのキャッチャーは、梨田さん以外にいませんよね。

梨田 おそらくいないでしょうね。今振り返ってみれば、すごく思い出が詰まった試合とも言えるのですが、当時は虚しさと寂しさと情けなさを感じて、なんとも言えない気持ちでしたね。

――試合後、オーナーも出席する形で「残念会」が催されたとのことですが、どんな様子でしたか?

梨田 わんわん泣いている選手もいました。僕はその試合で引退だったこともあって、「あぁ終わった」という気持ちで割とサラッとしていた。あまり感情を表に出すほうではないですし、心の中で野球に対して感謝したり、「これから先も野球に携わる仕事をしていければ」といったことをずっと考えていました。チームメイトたちには「来年また頑張れよ」と声をかけましたね。

 あと、残念会が終わってから、巨人の中畑清と長電話したのは覚えています。彼とは同学年ということもあって気兼ねなく話せるのですが、「本当にやめるのか?」と聞かれたので、「もう体がガタガタやからやめるわ」と言ったり。彼は「決意が固いならしょうがないな、ご苦労さん」と労ってくれました。

【翌年の近鉄の優勝は「嬉しかった」】

――梨田さんの引退の決意は、この試合を終えた後も変わりませんでしたか?

梨田 この年の前年(1987年)に仰木さんと話した時に「あと1年」という話をしていましたし、迷いはなかったです。でも、この10.19決戦の翌年に仰木さん率いる近鉄が優勝するわけじゃないですか。すごいことをされたなと思いましたよ。

――1年越しの優勝を、どう見ていましたか?

梨田 私はメジャーリーグのワールドシリーズの取材で、成田空港からサンフランシスコに向かう時だったんです。テレビでブライアントの4連発(1989年10月12日、近鉄vs西武のダブルヘッダーでブランアントが4打席連続本塁打を記録)を見てから旅立って、向こうに着いた頃に、近鉄は優勝の祝勝会をやっていたのかな。大石大二郎が仲のいい佐々木修に「佐々木、おまえ何勝したんだ?」と聞いて「1勝です」と佐々木が答えると、大石が「その1勝が優勝に繋がったんだ」と言っていたみたいで。そんなやりとりを、サンフランシスコのホテルで耳にしたのは覚えています。

――その前年があのような最後だっただけに、現役を退いていたとはいえ、喜びもひとしおだったのでは?

梨田 嬉しかったですね。普通は、前年にあれほどボロボロになるまで戦うと蓄積疲労があったりして、次の年にいいパフォーマンスできないことが多いのですが、それを乗り越えての優勝ですから。残念なことに、日本シリーズでは巨人に3連勝した後に4連敗してしまいましたが......。結局、近鉄は最後まで日本一にはなれませんでした。

――年をまたいで、いろいろなドラマが凝縮されていた時期でした。

梨田 近鉄ってそういうチームでしたね。10.19では本当にいい経験をさせてもらいましたし、一方では、今でも「勝ちたかったな」という思いもありますね。

【プロフィール】
梨田昌孝(なしだ・まさたか)

1953年、島根県生まれ。1972年ドラフト2位で近鉄バファローズに入団。強肩捕手として活躍し、独特の「こんにゃく打法」で人気を博す。現役時代はリーグ優勝2 回を経験し、ベストナイン3回、ゴールデングラブ賞4回を受賞した。1988年に現役引退。2000年から2004年まで近鉄の最後の監督として指揮を執り、2001年にはチームをリーグ優勝へと導いた。2008年から2011年は北海道日本ハムファイターズの監督を務め、2009年にリーグ優勝を果たす。2013年にはWBC 日本代表野手総合コーチを務め、2016年に東北楽天ゴールデンイーグルスの監督に就任。2017年シーズンはクライマックスシリーズに進出している。3球団での監督通算成績は805勝776敗。