梨田昌孝が明かす「10.19決戦」第1試合9回裏の投手交代の真相 吉井理人→阿波野秀幸「ボールの判定にカーっとなってしまって...」
梨田昌孝が語る「10.19決戦」 中編
(前編:ダブルヘッダー前チームの近鉄の雰囲気は「ガツガツしていなかった」>>)
今もなお伝説として語り継がれている、1988年10月19日に川崎球場で行なわれた近鉄vsロッテのダブルヘッダー「10.19決戦」。梨田昌孝氏に当時のエピソードを聞く中編では、自身の決勝タイムリーで勝利した第1試合、阿波野秀幸や吉井理人の球を受けた時に抱いた危機感などを聞いた。
ダブルヘッダーの第1戦で勝利した阿波野秀幸(左から2番目)と梨田昌孝(右端)
――同シーズンの近鉄はロッテに大きく勝ち越していましたし、10.19決戦の前日の試合でも12−2で大勝しています。決戦を迎えるにあたって、油断はありましたか?
梨田 油断はまったくなかったのですが、有藤通世監督やロッテの選手たちは「本拠地で胴上げは見たくない」という思いが強かったと思います。
――実際に戦う中でそれを感じたんですか?
梨田 感じましたね。それと、ロッテは高沢秀昭くんの首位打者がかかっていたので、タイトルを獲らせるために試合に出さないんじゃないかと思っていたら、スタメンだったんですよ。本拠地で負けられないといったプライドなどもあって、高沢くんを起用したんだろうと。有藤監督のあの抗議(※)もそうです。
(※)ダブルヘッダー第2試合の9回裏、無死一、二塁の場面で阿波野(近鉄)の二塁への牽制球が高めに浮き、二塁手の大石大二郎(近鉄)がジャンプして捕球。大石は帰塁した二塁走者・古川慎一(ロッテ)の足がベースから離れている状態でタッチした。アウトの判定となったが、古川は走塁妨害を主張。それに伴い有藤監督が9分間もの抗議をした。
――ダブルヘッダーの第1試合はロッテに2点を先制され、7回終了時点で1−3と近鉄は2点ビハインドの苦しい展開でした。梨田さんはベンチで戦況を見つめていたと思いますが、どんな様子でしたか?
梨田 点が入った時は「よし! いけるぞ!」と乗っていくのですが、点を取られるとシュンとしていました。近鉄は西本幸雄さんが監督の時(1979、1980年)に優勝して、僕も経験させてもらいましたが、それ以来優勝から遠ざかっていたので優勝を経験していない選手がたくさんいました。だからなのか、一喜一憂というか......そんな感じでしたね。
それと、この試合はファンの方々の後押しがすごかった。いつもは閑古鳥が鳴いている川崎球場が超満員で、球場の外も近隣のマンションもすごい人だかり。それまでに体験したことのない異様な雰囲気でした。
【9回、代打で決勝タイムリー】――近鉄は8回表に村上隆行さんの2点タイムリー二塁打で同点に追いつきました。続く9回表、二死二塁の場面で代打に送られたのは梨田さんでしたが、仰木監督やコーチからはどんな声をかけられましたか?
梨田 仰木さんやコーチからはアドバイスなど特になかったですね。ただ、代打に呼ばれるまでの時間が長くて、「梨田」っていうコールをなかなかされなかったことは覚えています。「ここは俺しかおらんやろう」と思いながら代打の準備をしていたのですが、なかなか呼ばれないんで「早くコールしてくれよ」と思っていたのですが、その空いた時間でいろいろなことを回想しました。
長嶋茂雄さんが好きで野球を始めようと思ったこと、少年野球チームがなかったから三角ベースで野球を始めたこと、中学の野球部で初めて野球のユニフォームを着たこと、浜田高(島根)で甲子園に出場したこと、そしてプロ入りして......と、走馬灯のように自分の野球人生を思い出していました。その後に現実に戻って、「バットを振らないとダメだ。振れば何かが起こるかもしれない。ファーストストライクを振ろう」という考えで打席に向かったことは覚えています。
――それが現役最後の打席になる可能性も考えていましたか?
梨田 おそらく最後だと思っていましたね。そこで自分が打たずに同点止まりだったら優勝はないですし(当時のパ・リーグには、「ダブルヘッダー第1試合は延長なし、試合は9回で打ち切り」という規定があった)。第2試合では試合に出ることはないだろうと思っていたので。
――2球目を打った梨田さんの打球は詰まりながらもセンター前に落ち、二塁走者の鈴木貴久さんが本塁に生還しました。
梨田 嬉しかったですね。本塁への送球の間に二塁まで行ったのですが、二塁ベース上で、プロ入りして初めてのガッツポーズをしたんです。現役最後の日に。
――それまでガッツポーズをされなかったのには、何か理由があったんですか?
梨田 僕はキャッチャーということもあって、「勝負は下駄を履くまでわからない」という意識を強く持っていました。それがガッツポーズを自制することにつながっていたのかなと。ただ、あの時は自分で手を上げたというよりも、ファンの方々の"梨田コール"で自然に手が引き上げられたような感覚でしたね。1度コールが収まってから再度コールが起きたので、1度降ろそうとした手を上げたような記憶もあります。
【吉井と阿波野の投球に抱いた危機感】――梨田さんのタイムリーで9回表の土壇場に4−3と1点を勝ち越した近鉄でしたが、その裏に二死満塁の大ピンチを迎えます。マウンドには、2日前の試合で完投していた阿波野秀幸さんがいて、梨田さんはこの時にマスクを被っていました。前編で話していたように、阿波野さんは球が"きて"いなかった?
梨田 全然きていませんでしたね。それと、9回裏は最初に吉井理人が投げていたのですが、ボールの判定にカーっとなってしまって。球審に対して顔を真っ赤にして怒っていて、野球をしているという感じじゃなかったんです。それで結局、仰木さんが投手コーチの権藤博さんに言って阿波野に代えたんです。
――その時、吉井さんとはどんな会話をされましたか?
梨田 「自信持って投げればいいよ。興奮しないで冷静にいこうよ」という話はしたんですが......吉井は自分のゾーンに入っちゃって軌道修正するのは難しかった。普段は物静かな男ですが、何かをきっかけに"瞬間湯沸かし器"みたいに顔を真っ赤にして怒ることはありましたね。
――そんな状況を見抜いて、仰木監督は吉井さんを諦めたと。
梨田 そういうことですね。それで阿波野が出てきてピッチング練習で球を受けたのですが、ボールの力は今ひとつでした。「あとは阿波野の投球術に頼るしかないな」と腹をくくりました。最後は三振が取れてギリギリで勝てたからよかったですが、この第1試合で阿波野と吉井の球を受けて、「第2試合は相当大変なことになるぞ」という危機感を覚えました。
(後編:時間切れで消えた優勝 梨田昌孝は現役最後の守備には「正直、つきたくなかった」>>)
【プロフィール】
梨田昌孝(なしだ・まさたか)
1953年、島根県生まれ。1972年ドラフト2位で近鉄バファローズに入団。強肩捕手として活躍し、独特の「こんにゃく打法」で人気を博す。現役時代はリーグ優勝2 回を経験し、ベストナイン3回、ゴールデングラブ賞4回を受賞した。1988年に現役引退。2000年から2004年まで近鉄の最後の監督として指揮を執り、2001年にはチームをリーグ優勝へと導いた。2008年から2011年は北海道日本ハムファイターズの監督を務め、2009年にリーグ優勝を果たす。2013年にはWBC 日本代表野手総合コーチを務め、2016年に東北楽天ゴールデンイーグルスの監督に就任。2017年シーズンはクライマックスシリーズに進出している。3球団での監督通算成績は805勝776敗。