第2次大戦の欧州戦線でターニング・ポイントとなったノルマンディー上陸作戦。「史上最大の作戦」と形容されるこの戦いに、参加こそしなかったものの、陰ながら成功を支えた戦車がありました。

実用的な水陸両用戦車を生み出した一人のハンガリー人

 2月14日といえばバレンタイン・デー。日本では、“女の子がチョコレートのプレゼントとともに、意中の男の子に想いを告白する” そんな日ですが、戦車の世界でバレンタインというと、第2次世界大戦中に使用された「バレンタイン歩兵戦車」でしょう。ある意味、素敵な名前の戦車ですが、実は第2次世界大戦におけるターニング・ポイントのひとつとなった「史上最大の作戦」こと、1944年6月6日に行われたノルマンディー上陸作戦、作戦名「オーバーロード」における陰の立役者です。


イギリス国内に1両だけ残る走行可能な「バレンタインDD」戦車。車体中ほどに畳まれたスクリーンがあるのが特徴(柘植優介撮影)。

 バレンタイン歩兵戦車が生まれたのは、第2次世界大戦勃発直前となる1939年のこと。イギリス陸軍はヴィッカース社が開発したMk.III歩兵戦車を採用しますが、ヴィッカース社からの提案を承認する形で愛称を付与します。それが「バレンタイン」でした。

 こうして生まれたバレンタイン戦車、元々あった巡航戦車をベースにしていたため、生産性や信頼性に優れた「コスパの良い」戦車でした。

 一方、ドイツのポーランド侵攻によって第2次世界大戦が始まると、イギリス陸軍は戦局の進展によっては水陸両用戦車も必要になるだろうとして、その開発プランを立案します。そこに登場したのが、ハンガリー系イギリス人のニコラス・ピーター・ソレル・ストラウスラー(ハンガリー名シュトラウスレル・ミクローシュ)でした。

 彼は1933年2月にイギリスへ移ってきたため、それ以前はハンガリーに住んでしました。ストラウスラーは母国で自動車設計技師を務めており、イギリスに移り住んだ後もさまざまな特殊車両の開発に携わっていました。そのなかには、ヴィッカース社の依頼を受けて取り組んでいた水陸両用戦車もありました。

「バレンタインDD」の「DD」って?

 水陸両用戦車を造る場合、いちばん問題になるのは、「水底を進む戦車」にするか、はたまた「水面に浮く戦車」にするかです。両案とも一長一短があり、できることなら後者の方がよいのですが、重い戦車を浮かせるのは難しいのです。ところが、ストラウスラーは妙案を考えつきます。

 それは、戦車の車体の周りにキャンバスのスクリーンを広げて、洗面器のようにして水面に浮かすというアイデアでした。そしてこのスクリーンは、戦車が水上航行を終えて陸地に到着すると、すぐに畳んでしまえるようになっていました。


通常のバレンタイン歩兵戦車(柘植優介撮影)。

 一方、水上を進む動力は、履帯(キャタピラ)を動かす動力をギアで車体後部に取り付けたスクリュープロペラへと送り、これを回すことで生み出しました。これならば、浅瀬ならスクリュープロペラを回しながら履帯で走行でき、完全に上陸した後は、ギアを外してスクリュープロペラを止めた状態で履帯走行ができます。

 こうして、ストラウスラーのアイデアに基づいたいくつかの装置を後付けすることで、新たに専用の浮航戦車を開発するのではなく、既存の優秀な戦車を、浮航戦車に転用できる道筋が立ちました。

 その後、陸上走行と水上航行の両方が可能というところから複合運航という意味の「Duplex Drive」という名称が与えられ、それに必要な装置は、頭文字を並べてDDデバイスと呼ばれるようになります。

 1941年6月、まず軽戦車Mk.VII「テトラーク」にDDデバイスを装着し、各種テストを実施、良好な結果が得られました。そこで陸軍省は実用型の浮航戦車の生産を命じ、当時のイギリス製戦車でもっとも信頼性に優れ、生産も順調だったバレンタイン戦車が、そのベースに選ばれます。

実用性高いバレンタインDDが実戦投入されなかったワケ

 結果、625 両のバレンタイン戦車がDD(通称バレンタインDD)へと改修されます。ただ、せっかく完成したのに、ごく一部がイタリア戦線で実戦に投入されただけで、ほとんどはイギリス本土に留め置かれました。というのも、性能で上回るアメリカ製M4「シャーマン」中戦車が、DD(通称シャーマンDD)として多数改修されたからです。


「バレンタインDD」戦車を前から見たところ。キャンバススクリーンを上げ位置や下げ位置に固定するためのアームが設置されている(柘植優介撮影)。

 しかし、「バレンタインDD」があったことで、アメリカやイギリスの戦車兵たちは、ノルマンディー上陸作戦の開始前に十分な訓練を行うことができました。こうして訓練された戦車兵らは、作戦直前に「シャーマンDD」に乗り換えて、「史上最大の作戦」の第1波として上陸。味方歩兵たちの火力支援や、ときには盾となって早期の海岸堡(いわゆる上陸拠点)獲得に貢献しました。

 こうして、訓練用として大戦を生き延びた「バレンタインDD」のうち、1両がイギリスでいまでも個人所有で動態保存されています。

 ちなみに、「バレンタイン」歩兵戦車の愛称の由来ですが、それについてはいくつかあります。1938年のバレンタイン・デーの4日前に本車の仕様が軍部へ提出されたからだという説。はたまた「Vicker-Armstrong Limited on Tyne」という会社の所在地が徐々に短縮され、「VALonTyne」→「Valentine」となったという説。さらには、同社に務める高名な戦車技術者ジョン・カーデン卿(Sir John Carden)のミドルネームがValentineだったからだという説まであるものの、どういった経緯でこの愛称になったのか、明解な解答は得られていないようです。