「皇帝の戦車」徒花と散る おもちゃ以上にはなれなかった「ツァーリタンク」の顛末
後からなら何とでもいえる、とはいうものの、帝政ロシアで試作された「ツァーリタンク」と呼ばれる戦車は、冷静に考えれば設計段階でいろいろと気付けたのではないでしょうか。戦車黎明期に咲いた一輪の徒花のお話。
戦車黎明期 帝政ロシアで生まれた「あるアイデア」
第1次世界大戦では機関銃と鉄条網、砲撃で掘り返された地面、そして塹壕と、戦線の歩兵が動くに動けないような膠着状態が長く続きました。何とかこの状態を打破しようと、各国は様々な手段を試行錯誤します。
一応の成功を収めたのは、履帯(いわゆるキャタピラ)を装備したイギリスの菱形戦車「マークI」で、歴史の教科書にも載っている新兵器でした。一方ロシアでは、全く違った着想から塹壕を乗り越え、敵を文字通り蹂躙すると期待された戦車が作られました。「ツァーリタンク(皇帝の戦車)」と呼ばれています。
試験中の「ツァーリタンク」。
「ツァーリタンク」は、全長17.8m、全幅12.0m、全高9.0mという、数字を見るだけで新兵器というより珍兵器感が満載です。高さは3階から4階建ての建物に相当し、SF映画に出てくるスーパーメカのようです。
この「ツァーリタンク」を構想するにあたり、ロシア帝国の技術者ニコライ・レベデンコは、荒れた戦場を走るための機構として、おもに中央アジアで使われている「アルバ」という荷車に注目しました。「アルバ」は大きな径の車輪を付けているのが特徴で、それにより窪地や溝を乗り越えることができたのです。これを元に発想を広げたレベデンコは、自動車というよりは「砲車」を巨大化したような、超巨大な車輪を付けた三輪車を設計しました。
レベデンコはモスクワの陸軍軍事技術研究所に勤務しており、そしてこの突飛なアイデアを実現すべく、最高権力者にアピールするおもちゃを作りました。1915(大正4)年1月8日、レベデンコは蓄音機から取り出したゼンマイで動く三輪戦車の木製模型を、ロシア皇帝ニコライ2世に贈呈します。このおもちゃはカーペットの上を勢いよく走り、分厚い『ロシア帝国法律集』が2、3冊、積まれた山を軽々と乗り越えたといわれます。ある廷臣の回想録には、ニコライ2世はこのおもちゃをいたく気に入り、30分や1時間は走らせていたと書かれています。
皇帝のポケットマネーでおもちゃから実物へ
ニコライ2世は大の自動車好きで、メルセデス(ベンツ)、ドローネ・ベルヴィル、ルノー、プジョーなど超高級車を20台以上、コレクションしていました。世界最初のハーフトラックを作らせたのもニコライ2世です。
後部から見た「ツァーリタンク」。小さな後輪に荷重がかかりすぎるなど設計上、欠点があった。
ゼンマイ仕掛けのおもちゃは、皇帝の好奇心をくすぐるには充分でした。ニコライ2世は、私財から21万ルーブルをこの戦車開発に充てるよう命じます。ちなみに、当時のロシア帝国大臣の年収は1500ルーブル程度とされます。
皇帝のお墨付きを得たレベデンコは、すぐさま実車を製作します。直径9mの巨大な2個の車輪と、直径1.5mの尾輪という三輪車形式で、T字型の箱型車体の左右最端部に機銃を装備した銃塔が1基ずつ設けられ、大砲を搭載することも考えられていました。さらに底部にも機銃塔を設置する予定だったようです。設計上の最高速度は17km/hでした。
しかし、この巨体を動かすエンジンが問題でした。軽くて強力なエンジンがロシアには無かったのです。そこで優秀なドイツ製エンジンを調達することにし、そして1915年6月21日にインステルブルク(現在のカリーニングラードのチェルニャホフスク)付近へ墜落したドイツのツェッペリン飛行船LZ34号から回収した、210馬力のマイバッハエンジン2基を搭載することになります。肝心のエンジンを敵国の鹵獲エンジンに頼らなければならなかったこと自体、嫌な予感しかありません。
そしてカタチとなってしまった鉄の巨躯 いざ試運転へ
完成した試作車の試運転は、1915年8月27日にモスクワ郊外で行われました。車体重量は60tにもなったものの、第一次世界大戦当時のどの戦車よりも強力なエンジンである210馬力×2基を搭載していましたので、最初は森の木の枝をもへし折りながら前進し、見るものは感嘆しました。イギリスの「マークI」が全長9.91m、幅4.19m(雄型)、高さ2.49m、重さ28tで105馬力エンジン搭載でしたので、敵を恐怖せしめたというそれをもしのぐ巨躯に、倍の出力のエンジンを2基も搭載する「ツァーリ・タンク」の迫力は、圧倒的だったはずです。
しかしその感嘆がため息に変わるまで、さほど時間は掛かりませんでした。地面のぬかるみに車輪が沈み込み、すぐに動けなくなってしまったのです。また尾輪が小さすぎ、重量バランスも悪く、荷重が掛かり過ぎていました。
巨体の迫力はありますが、大きすぎて格好の標的になることは明らかですし、巨大なスポーク車輪も貧弱で敵の砲撃には耐えられそうにありません。ドイツ製エンジンをもってしてもパワー不足で、塹壕を乗り越えるどころか試験場の軟弱地で動けなくなる始末です。陸軍は兵器として不適と評価し、計画は中断されてしまいます。
試験運転に失敗後、長期間放置されていたため、鋼材等がはぎ取られたという。
その後より強力なエンジンに取り換えるなどしましたが、動かすことさえひと苦労で、試験場から出すこともできません。本物の戦車は、ゼンマイ仕掛けのおもちゃがカーペット上で本を乗り越えるようにはいかなかったのです。結局、試験場の森に放置されたままロシア革命の混乱の中で忘れられ、錆びた巨大な鉄の遺物は1923(大正12)年に解体されてしまいます。
レベデンコがニコライ2世に贈呈したゼンマイ仕掛けのおもちゃは、ニコライ2世自身が保管していましたが、ロシア革命後、どうなったのかは不明です。戦車黎明期に生まれた巨大戦車は結局、皇帝のおもちゃ以上の意味は残しませんでした。「ツァーリタンク=皇帝の戦車」とはよく言ったものです。