史上最大の海戦といわれることもある太平洋戦争の一大戦「レイテ沖海戦」。旧日本海軍はこの戦いでアメリカ海軍を打ち負かすことはできたのでしょうか。そもそも、作戦目標とされたレイテ湾突入は可能だったのか考察してみます。

レイテ沖海戦が起きたワケ

 太平洋戦争中の1944(昭和19)年10月24日から翌25日にかけてフィリピン近海で起きたレイテ沖海戦は、日米合計で280隻もの艦船(駆逐艦以上)が参加した「史上最大の海戦」と呼ばれています。これはフィリピン・レイテ湾に集結していたアメリカ輸送船団を旧日本海軍が攻撃しようとしたものですが、作戦半ばで日本側が攻勢を止め、撤退してしまったことから、戦後多くのif(もし〜していたら)が提示され、小説やマンガなどの題材に取り上げられてきました。

 そこで、改めてレイテ湾突入とアメリカ輸送船団の撃破は可能だったのか、筆者(安藤昌季:乗りものライター)なりに検証してみます。


1944年10月25日、エンガノ岬沖海戦でアメリカ空母「エンタープライズ」艦載機による攻撃を受けた旧日本海軍の空母「瑞鳳」(画像:アメリカ海軍)。

 そもそもレイテ沖海戦は、1944(昭和19)年6月のマリアナ沖海戦と、10月の台湾沖航空戦で、空母機動部隊と基地航空隊に大打撃を受け、充分な航空戦力を持てなくなった日本軍が、アメリカ軍のフィリピン進攻を阻止しようとして起きました。

 それまで、旧日本海軍は「敵艦隊を撃破すれば、アメリカの侵攻作戦は阻止できる」として、敵艦隊攻撃を重視していました。しかし航空戦力を失った日本軍が、多数の空母を主体としたアメリカ軍を撃破することは不可能です。

 そうした中、日本は奇策を打ち出します。「空母機動部隊を囮(おとり)にして、水上打撃部隊への空襲を軽減し、レイテ湾の敵輸送船団を撃破する」ことを目指したのです。

 囮艦隊の作戦行動は限定ながら成功します。戦艦を中心とした日本軍主力艦隊、いわゆる「栗田艦隊」は、当初アメリカ軍の猛烈な空襲を受けますが、日本軍空母艦隊、いわゆる「小澤艦隊」が発見されたことで、栗田艦隊に向けた攻撃が止み、サマール沖のアメリカ護衛空母艦隊と遭遇し、戦闘となります。

 アメリカ艦隊主力の正規空母が小澤艦隊を追撃したこともあり、栗田艦隊は護衛空母艦隊を撃破後、レイテ湾へと向かいますが、「近くに敵機動部隊が存在する」との連絡を受け、艦隊を反転させたのです。結果、この栗田艦隊退却は「謎の反転」と呼ばれ、その後、批判されるようになりました。

日本艦隊がレイテに到達する可能性は?

「栗田艦隊が反転しなければ、レイテ湾に到達できたか」には答えが出せます。栗田艦隊が反転した時点で、レイテ湾口まで約40浬(約74km)、湾口から輸送船団のいるタクロバン沖までさらに約60浬(約111km)の距離です。敵輸送船団がそこに留まっていたとしても(実際には退避していましたが)、日本戦艦が主砲の射程圏内に収めるまで、まったくアメリカ側の妨害を受けなかったとしてもおよそ4時間かかります。


1944年10月25日、サマール沖海戦で日本の特攻機による攻撃を受け爆発したアメリカ空母「セント・ロー」(画像:アメリカ海軍)。

 アメリカ正規空母は、小澤艦隊攻撃のために、約5時間は栗田艦隊へ攻撃を行えなかったでしょう。ただアメリカ艦隊は護衛空母だけでも18隻います。栗田艦隊が攻撃したのは「タフィ3」と呼ばれるグループでしたが、護衛空母6隻ずつの「タフィ1」「タフィ2」は無傷です。前者はミンダナオ島沖から増援機を出しており、後者はタフィ3の近くに展開していたため、これら護衛空母群から艦載機400機程度が猛攻を繰り出し、レイテ湾に向かう栗田艦隊は大打撃を被っていたでしょう。

 加えて栗田艦隊は、戦艦6隻、巡洋艦8隻、駆逐艦26隻からなるオルテンドルフ艦隊に迎撃されていたはずです。栗田艦隊は、史実どおり反転時に残存していた戦艦4隻、巡洋艦4隻、駆逐艦8隻から空襲でさらに数を減らし、壊滅は避けられなかったと考えられます。そうなるとレイテ湾に到達できた可能性はかなり低いのではないでしょうか。

 なお、レイテ湾に最も近付いた日本艦隊は、別働隊として違うルートを進んでいた西村艦隊です。西村艦隊は史実ではオルテンドルフ艦隊の迎撃で壊滅しましたが、最も進撃した戦艦「山城」は、レイテ湾入口まで到達しています。

 ここから輸送船団のいるタクロバン沖まで、27浬(50km)程度ですから、20ノット(37km/h)の速力で約1時間半の距離です。計算すると戦艦の主砲射程に入るまで、7浬(約13km)程度まで近づいています。つまり、日本艦隊が史実よりも多ければ、もしかしたら一部艦船はレイテ湾に到達できたかもしれません。

もし、艦隊を分けずに集中投入していたら?

 もし旧日本海軍が艦隊をまとめて、栗田艦隊なども西村艦隊と同じスリガオ海峡方面からレイテ湾へ向かったとしたら、どうなるでしょう。日本側の戦力はまとめると空母6、戦艦9、重巡洋艦14、軽巡洋艦7、駆逐艦35です。航続距離が短い駆逐艦もいますが、最短ルートなら燃料は持ちます。


1944年10月24日、シブヤン海海戦で攻撃を受ける旧日本海軍の戦艦「武蔵」(画像:アメリカ海軍)。

 なお、上記の艦船数が史実より多いのは(史実でも計画があった)小澤艦隊と志摩艦隊を早期にリンガ泊地へ移して、栗田艦隊と合同させた場合を想定したからです。この場合は、伊勢型航空戦艦と同じ第四航空戦隊の空母「隼鷹」「龍鳳」も派遣されること(史実では台湾沖航空戦で艦載機を消耗し、未出撃)。また史実では旧日本陸軍の支援に回された第十六戦隊、第二十一戦隊の重巡洋艦1隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦4隻を含めているからです。

 また、もし台湾沖航空戦に艦載機を出さなかったとしたら、日本艦隊は艦載機240機をレイテ沖海戦で使えたでしょう。ちなみに、艦載機の投入数は史実では116機しかありませんでした。

 これだと空母から対潜哨戒機を出して艦隊周辺の哨戒・索敵もより濃密にできたでしょうし、史実で潜水艦に攻撃されたパラワン水道も通る必要がなかったため、潜水艦被害はなかったと考えられます。

 スル海でアメリカ空母からの大空襲を受けますが、艦載機が240機もあれば史実と違って、空母6隻に零戦(零式艦上戦闘機)100機以上を搭載できたでしょう。また、スル海、ボホール海は海面がシブヤン海より広くて艦隊運動がしやすく、対空火力に秀でた防空巡洋艦「摩耶」や高角砲(高射砲)が強力な軽巡洋艦「大淀」、ほかにも秋月型駆逐艦や松型駆逐艦などがいるでしょうから、アメリカ軍機による猛攻に対して大きな抵抗を行えたと推察できます。

幅の狭いスリガオ海峡での日米決戦

 また、アメリカは「空母と戦艦の両方がいる場合は空母を優先する」という戦術に従い、攻撃してくるため、日本側の被害は空母6隻に集中し、戦艦以下はほぼ無傷でレイテ湾に迫れるたのではないでしょうか。ちなみに、史実で栗田艦隊は大空襲を受けましたが、そのときの損害は戦艦と駆逐艦が各1隻沈没、重巡1隻が大破、戦艦1隻、重巡1隻、軽巡1隻、駆逐艦1隻が中破というものでした。この攻撃力では、空母と戦艦の両方は叩けないということです。

 アメリカ艦隊は第34任務部隊(新型戦艦6隻、重巡2隻、軽巡6隻、駆逐艦18隻)を編成し、オルテンドルフ艦隊の旧式戦艦6隻、重巡5隻、軽巡3隻、駆逐艦26隻と、スリガオ海峡を封鎖するでしょう。ただ、一方で日本側は空母からの航空偵察により、スリガオ海峡での大艦隊待ち伏せは想定したのではないかと筆者は考えます。


1944年10月25日、サマール沖海戦において煙幕を展張するアメリカ駆逐艦(画像:アメリカ海軍)。

 結果、日本側は艦載機の使えない夜間に、戦艦9隻、重巡14隻、軽巡7隻、駆逐艦35隻でスリガオ海峡に突入。アメリカ側は戦艦12隻、重巡7隻、軽巡9隻(なお「ナッシュビル」は連合国軍最高司令官マッカーサー将軍の座上艦であるため戦闘参加不可)、駆逐艦44隻、魚雷艇38隻で、迎撃すると仮定します。

 数こそアメリカ側が優勢ですが、日本側は長射程の酸素魚雷があり、待ち伏せ前提なら先制攻撃可能です。幅20km程度の狭いスリガオ海峡を、計76隻ものアメリカ艦隊が封鎖すれば、艦隊運動に制限があります。酸素魚雷が使える魚雷発射管は片舷指向門数でトータル383門。命中率2%だとしても、計8発が命中します。

 大半の日本艦船は次発装填装置があるので、数分後に356門が発射できます。この2回の雷撃で、合計15発程度は命中するでしょう。魚雷発射後、日本艦隊は全速力でアメリカ艦隊に突入します。

 レーダー性能ではアメリカが上ですが、地形の関係で新型レーダー搭載艦以外は敵艦を探知できず、レーダーの優位は限定的でしょう。なお当時のレーダーには「敵味方識別機能」はないため、アメリカ艦隊は史実でも味方撃ちを結構しています。

アメリカ輸送船団はいずこへ?

 日本艦隊の規模は史実の西村艦隊と比べ約10倍で、攻撃は分散しますし、アメリカ艦艇が突破した日本艦船追撃で反転すれば、レーダーを使ってもどれが味方艦かわかりません。乱戦で両軍艦艇の衝突も起こるでしょうが、日本側の勝利条件は「レイテ湾突入」のため、問題ありません。

 また、日本側は高速で北上するため、アメリカ側の迎撃可能時間は最少です。「大和」「武蔵」を始めとした戦艦9隻は、短時間で無力化は困難です。しかも、魚雷発射後の日本艦は、可燃物が減ったことで、沈みにくくなっているはずです。

 結果として至近距離での砲撃戦が多発し、アメリカ側も甚大な被害を出すでしょう。迎撃可能時間の短さから考えて、日本艦艇突破阻止は不可能だと筆者は推察します。


1944年10月25日、日本の特攻攻撃を受け艦尾から煙を出すアメリカ空母「スワニー」(画像:アメリカ海軍)。

 とはいえ、日本艦隊の一部艦船がレイテ湾突入に成功したとしても、アメリカ輸送船団は退避したあとで、それら本命の撃破は難しかったといえます。加えて翌朝のアメリカ軍機による空襲は防げません。そのため、その後はレイテ湾から出ることができず、そこで多くの艦船が沈没ないし戦闘不能になっていくと思われます。

 以上、後知恵で日本軍に最も都合がいい「if」を想定しましたが、それでも敵輸送船団撃破という目標は達成できませんでした。栗田艦隊の「謎の反転」が批判されるレイテ沖海戦ですが、残念なことに「作戦成功の可能性」は最初から、ほぼなかったということです。太平洋戦争末期の日本軍が、いかに不利な状況だったのかを、痛感させられる戦いと言えるでしょう。