旧日本海軍の空母「信濃」が1944年の今日、進水しました。「信濃」は大和型戦艦の3番艦として竣工予定でしたが、航空戦力を増強すべく設計変更され、大型空母へと生まれ変わります。しかし本格的に交戦することなく生涯を閉じました。

途中で戦艦→空母へ計画変更

 1944(昭和19)年の10月8日は、旧日本海軍の航空母艦「信濃」が進水した日です。「信濃」は基準排水量6万2000トンと、2022年に至るまで通常動力空母としては世界最大。それもそのはず、船体は世界最大の戦艦「大和」を元にしたものだからです。


旧日本海軍の航空母艦「信濃」(画像:アメリカ海軍)。

 旧日本海軍は「大和」「武蔵」に続く同型3番艦として、1940(昭和15)年5月に「110号艦」(信濃)の建造を開始します。なお、先行して建造されていた「大和」の改良点を反映し、艦底部の防御を高めていました。ただし太平洋戦争の開戦が決定的となると、建造に必要な物資を航空機などの生産へ回すため、大型艦の建造が一時中断されます。「110号艦」もその対象でしたが、船体の工事のみは継続されました。

 1942(昭和17)年6月、勝敗の転換点ともいわれるミッドウェー海戦において日本が空母4隻を失う大敗北を喫すと、旧海軍は空母の急速建造を計画します。そのなかで「110号艦」についても、戦艦として竣工させる予定だったのを急きょ空母に変更し、航空戦力を増強することが決定します。しかし戦局は徐々に日本側不利に傾いていき、「信濃」と命名された1944(昭和19)年10月には事実上、旧海軍は艦隊航空戦力を喪失したも同然の状況に陥っていました。

 同年11月に「信濃」は竣工。ただし艤装工事などを残した状態であり、旧海軍は「信濃」を空襲の激しい横須賀から呉へ移動させて完成させようと考えます。11月28日午後、駆逐艦「雪風」などの護衛を受けた「信濃」は横須賀を出港しました。

重なった不運 日本近海ももはや安全ではなかった

 呉への回航を巡っては、ルートや時間帯をどうするかで、「信濃」と駆逐艦の艦長らのあいだで揉めたようです。結果的に夜間に外洋を通ることが決まりますが、時世柄たとえ日本近海であったとしても、アメリカ軍の攻撃は十分想定されました。

 19時過ぎ、艦隊は早くもアメリカ軍潜水艦によって発見、追跡されます。日本の駆逐艦も対潜警戒を開始、一時は浮上した潜水艦に対し砲撃態勢を取りますが、「信濃」の正確な位置が把握されるのを恐れて中止されました。そういったなか、潜水艦は全速で艦隊を追跡し続け、攻撃の機会をうかがいます。

 日付が変わった29日の午前3時過ぎ、アメリカ軍潜水艦は魚雷を発射、うち4本が「信濃」の右舷に命中しました。重装甲も手伝ってか、直後は著しい速度低下こそ見られなかった「信濃」でしたが、防火防水扉を閉鎖することで浸水・延焼被害を抑える「水密区画」などが未完成であり、徐々に傾斜度を増していきます。加えて、大和型戦艦ほどの大型艦は艦内が迷宮状態であり、赴任して日が浅い乗組員らは満足なダメージコントロールを行うこともできませんでした。

 駆逐艦の曳航作業もむなしく、「信濃」は未明に沈没。その位置は潮岬沖、およそ50kmの地点でした。竣工からわずか14日のことであり、これは世界の軍艦で最も短命です。

 先述の通り、「信濃」は航空戦力の増強を目的に、計画を変更してまで建造された大型空母でしたが、仮に艤装工事を完了できたとしても、戦局の悪化から燃料や搭載する航空機が欠乏していたでしょう。

 実際、この時期の旧日本海軍では、中型空母のほとんどが艦載機ゼロで物資輸送に専念していたことから、おそらく「信濃」も同じような運命をたどったと思われます。