鎌倉幕府3代将軍・源実朝は、1219年に甥の公暁に殺害される。歴史学者の濱田浩一郎さんは「2代将軍・頼家の子である公暁は、実朝と北条氏によって父が殺され、恨みを募らせていた。その仇を討ち、あわよくば自分も将軍になろうとしたのだろう」という――。
源実朝(画像=八島岳亭/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

■温厚で優しい源実朝はもうじき死んでしまう

NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第34回「理想の結婚」(9月4日放送)から、成人となった源実朝が登場した。演じるのは、俳優の柿澤勇人さんである。

鎌倉幕府の2代将軍・源頼家(演・金子大地さん)は、粗野で、御家人の妻を奪い取るなど荒々しい行動が目立ち、最後には鎌倉を追放され、伊豆修善寺で北条の手の者により暗殺される。

一方、その弟・実朝は、兄とは正反対で、おとなしく、気品がある感じに描かれている。頼家が「動」なら、実朝は「静」といった感じであろうか。

今回のドラマにおいては、御家人たちから武芸の稽古をつけられていたが、全く歯が立たず、文弱な印象を残したが、今後、実朝がどのように、3代目の鎌倉殿として成長していくかが楽しみである。和田義盛をはじめとする有力御家人との猪鍋をつつきながらの交流も今回、見どころであった。

義盛は、実朝が将軍として在職している建暦3年(1213)に、北条氏により討たれてしまう(和田合戦)。

実朝と義盛たちとの和気藹々としたシーンが描かれれば描かれるだけ、義盛討ち死にの悲劇性は高まるであろう。さらに、そんな実朝自身も、残念ながら亡くなる時がやって来るのだ。それも畳の上での死ではなく、暗殺という悲劇によって。温厚で優しい実朝が死ぬ時、「実朝ロス」は起こるであろうか。

■歴史学者が考える実朝殺害事件の黒幕

幕府の3代将軍・実朝が鎌倉の鶴岡八幡宮で殺害されたのは、建保7年1月27日(1219年2月13日)の夜ことであった。享年28。

実朝を殺害したのは、鶴岡八幡宮寺別当の公暁。2代将軍・頼家の子であり、実朝(頼家の弟)とは甥・叔父の関係にあたる。

公暁の父・頼家は、実朝を擁する鎌倉北条氏の手によって、権力の座から引きずり下ろされ、最後には殺害された。これを恨みに思っていた公暁が、実朝を親の仇として殺害したとされている。

鎌倉時代初期の史論書『愚管抄』には殺害の際に「親の仇はこのように討つのだ」、『吾妻鏡』(鎌倉時代後期編纂の歴史書)には「父の敵を討つ」との公暁の「肉声」が記されている。

私は公暁には親の仇を討つ以外にも目的があったと思っているが、それについては後述するとして、実朝暗殺には黒幕、つまり「真犯人」がいるとこれまで主張されてきた。

歴史学者から最も疑われてきたのが、北条義時だ。北条氏が実権を握りたいがために、公暁を操って実朝を殺害させたという。

■北条義時、三浦義村は真犯人ではない

しかし、この説は、実朝と北条氏の協調関係により崩れると思う。実朝の後継問題に関して、実朝と北条氏は共に京都から親王(後鳥羽院の皇子である頼仁親王と雅成親王)を鎌倉に迎え入れようとしていたのだ。

実朝を殺害するという手荒なことをする必要もないし、これまで推進してきた将軍後継問題の「事業」を御破算にすることも考えられない。よって、私は北条氏は黒幕から外れると思う。

北条氏の次に黒幕として疑われているのが、有力御家人の三浦義村だ。

公暁の乳母は義村の妻。義村の子・駒若丸は公暁の門弟。公暁との近しい関係から、義村も疑われてきた。実朝を葬り、政敵・北条氏も打倒しようというのだ。

義村にも野心があったと思うし、一貫して北条氏寄りだったとも思えないが、義村がこの事件に関与したという史料・証拠が残されていないので、怪しいと思いつつも、三浦氏黒幕説も除外せざるを得ない。

そうなると、実朝殺害の「真犯人」は誰かというと、私は公暁だと思っている。つまり、黒幕はいないのである。

■幼少期に父・頼家が惨殺される

ここで、公暁の略歴を確認しておきたい。公暁は正治2年(1200)、頼家を父として誕生した。母は賀茂重長の娘であるという。しかし、元久元年(1204)、父・頼家は修善寺にて惨殺される。翌年には、公暁は鶴岡八幡宮の2代目別当・尊暁の弟子となる。これは、北条政子の計らいだったという。

建永元年(1206)には、公暁は実朝の猶子にされる。その後、公暁はしばらく園城寺(滋賀県大津市所在の天台宗寺院)の子院・如意寺にいたようだが、建保5年(1217)、鶴岡八幡宮の3代目別当・定暁が死去。これにより、公暁がその後継となるのである。公暁は鎌倉に下向する。

もし、定暁が死ななければ、そして公暁が鎌倉に呼び戻されなければ、歴史は変わっていたであろう。

■約3年間寺院に籠ってやっていたこと

公暁は別当職に就いた直後から、一千日の参籠(寺院などに籠って祈願すること)を始めたという。一千日というと約3年である。公暁はそれほどの長期間にわたり、何を祈願しようとしたのだろうか。それは、実朝の死を願う祈願だったかもしれない。実朝を呪い殺そうとしたのではないか。

実朝が死んだ後は、自分(公暁)が将軍となる、自分にはその資格がある。そうした想いを公暁が深めていったとしても不思議ではない。

ところが、実朝や北条氏は、実朝後継の将軍として、京都から親王を呼ぼうとしていた。これが実現してしまえば、公暁が将軍となる機会は閉ざされてしまう。

公暁の焦りは募り、運命の建保7年(1219)1月27日の夜を迎えるというのが、私の見立てである。

■実朝の首を持って向かった先

本稿の冒頭付近に私は「公暁には親の仇を討つ以外にも目的があった」と書いたが、その目的とは、将軍になることである。実朝暗殺後の公暁の言動を考えたら、将軍就任への野心が「主」(本音)で、親の仇を討つことが「従」(建前)と考えられないこともない。

1月27日、雪が降るなか、実朝の右大臣拝賀の儀式が鶴岡八幡宮で行われようとしていた。奉幣を終え、石段を下りて、林立する公卿に会釈して通る実朝に公暁は刀で襲いかかる。そして、首を討ち取り、逃亡するのであった。

源実朝が暗殺された場所(写真=Urashimataro/PD-self/Wikimedia Commons)

この襲撃には、公暁と同じような格好をした法師が加わっている。彼らは、実朝の供の者を追い散らし、教育係で側近の源仲章(なかあきら)を斬り殺す役割を果たした(『愚管抄』)。

事前に公暁はその門弟に実朝暗殺を打ち明け、協力を求めていたと言えよう。ちなみに、事件後、鎌倉武士たちは、公暁の本坊を襲撃し、公暁門弟たちを制圧している。

実朝の首を持ち、公暁が向かった先は『愚管抄』では三浦義村のもとである。公暁は義村に対し「今は我こそが将軍である。そちらに行こう」と言い送ったという。

『吾妻鏡』においては、暗殺後、公暁は後見人であった備中(びっちゅう)阿闍梨(あじゃり)の雪下(ゆきのした)北谷(きたがのやつ)の邸に向かう。そこで食事を供されているが、食べている最中も、公暁は実朝の首を抱えていたようだ。公暁は、三浦義村に使者を送り、自らを将軍にするよう計らえと命令した。

だが、義村は公暁に同心せず、北条義時に彼の動向を注進し、最終的には討つことになる。

■結論「実朝殺害は公暁単独による凶行」

以上、暗殺事件当日の公暁の動きを見てきたが、三浦義村と公暁の事前の連携というものはないように感じる。

公暁は義村に使者を立てて「今將軍(いましょうぐん)之闕(けつ)有り。吾(われ)專(もっぱ)ら東關之長(とうかんのおさ)に當(あた)る也。早く計議(けいぎ)を廻らす可し[今、将軍はいない。私こそが関東の首長(将軍)に当たる。私を将軍にするための計略を早く考えよ]」と伝達している。

『吾妻鏡』の公暁のこの言葉を信じるならば、彼と義村との間に事前の話し合い、相談というものはなかったと考えられよう。

義村は乳母の夫であるし、その息子は自分の門弟。いざとなれば味方してくれるに違いないという楽観論が公暁にはあり、その希望が凶行に至る公暁の気持ちを駆り立てたとも思われる。しかし、公暁の目論見は脆くも潰えた。

実朝暗殺は、将軍就任への野心を膨らませた公暁による単独犯行、義村に少し怪しい面はあるにせよ、黒幕はいないというのが、私の結論である。

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濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
作家
1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師を経て、現在は大阪観光大学観光学研究所客員研究員。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。
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(作家 濱田 浩一郎)